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国連加盟国中最後のピル承認国という恥ずべき勲章が、わが日本国に与えられている

北村邦夫先生が、20年ほど前に、小林保健所管内で北村先生が講演をされたそうです。

相変わらず、エネルギッシュな講演で、終了後に、小林市内の陰陽石が見たいと言ったので、連れて行ったと保健師さんから聞きました。

NHKの「チコちゃんに叱られる!」にも登場した陰陽石なので、観光地であってセクハラではないと認定します。

この北村先生から、「遺言に代えて」といただいた本があります。

「ピル承認秘話 わが国のピル承認がこれほど遅れた本当の理由」(薬事日報社)です。

帯は、新型コロナウイルス感染症でご活躍された尾身茂先生が書かれています。

女性の性と生殖に過塗る健康と権利を守る為、幾多の壁に挑み続けた北村邦夫君。

本書はわが国における経口避妊薬承認の遅れに正面から立ち向かったその闘いの記録であり、公衆衛生史に刻まれるべき貴重な証言である。


そういえば、尾身茂先生も自治医大のご出身です。尾身先生は一期生。

自治医大「虎の穴」伝統は、もしかすると尾身先生から始まったのかも。

恐縮です。私が勝手に伝説にしておりました。

陰陽石

さて、1999年9月2日。

北村邦夫先生が勤務するクリニックには、11人の女性が集まっていました。

同伴しているパートナーを合わせると15人ほど。

届けられた豪華絢爛な花が飾られたクリニックの中には、国内外のメディアが殺到しました。

この日の午前9時半に、9つの製薬会社の11品目のピルが届けられました。

わが国で一番にピルが届けられるクリニックであって欲しいと、北村先生の無理難題に薬の卸業者が応えてくれました。

これまで、中・高用量のピルを処方されていた女性たちには、この日ばかりは、低用量ピルとの無料交換に応じました。

この日を迎えるまでに、わが国では尋常でない時間が経過してしました。

国連加盟国中最後のピル承認国という恥ずべき勲章が、わが日本国に与えられていたのです。

北朝鮮には1994年からピルが供給されていました。

世界で最初のピル承認国の米国での発売は1960年。

わが国は、米国に39年、北朝鮮に5年遅れたのです。

北村先生が資料を調べたところ、1955年に、ピル開発の父とよばれるピンカス博士が、300ミリグラムという大量の黄体ホルモン剤を使用した避妊法開発の話を世界で最初に行ったのが東京だったのです。

第5回国際家族計画会議の席上のことでした。

参加していた当時の日本医大の石川正臣教授、関東逓信病院の松本清一産婦人科部長らは、この国際会議をきっかけに「経口避妊法に関する研究班」を発足させ、ピンカス博士から試薬を譲り受け、ピルの研究を開始しています。

この国際会議を始点とすれば、44年が経過していました。

1999年7月のノストラダムスの大予言が外れて1月後に、恐怖の大王ではなく低用量ピルが降臨しました。

この瞬間を撮影しようと英国国営放送(BBC)のクルーも来ていました。

北村先生は、手にしたシャンパンのコルクをかけ声と一緒に抜きました。

集まった女性たちは、口々に「おめでとう!」の声を上げ、握手をしまくりました。

コルクが天井に飛び上がる瞬間を、BBCクルーのカメラが捉えておりました。

この出だしから驚かされます。

まるで、映画のシーンのようです。

いや、北村先生に代表される日本に低用量ピルの導入を目指す人々の奮闘ぶりは、映画になると思いました。

前述しましたが、米国でエビナット錠(10ミリグラム)が避妊薬として承認されたのが1960年のことです。

この頃は日本でも研究が行われており、米国での承認が決まると大日本製薬、塩野義製薬、帝国臓器が避妊薬の承認申請をしています。

エビナット錠は高用量のピルで、米国で承認から1年後に、服用した女性の肺塞栓症の症例が報告されました。

下肢静脈に発生した凝血塊が循環して肺に達し、致命的な肺塞栓症を引き起こしたものと考えられました。その後、数例の症例報告がなされたことから世界各国での研究が進みました。

英米における研究では、エストロゲン量が0.05ミリグラム以上のピルが血栓塞栓症の発生頻度を高めるとの報告がまとめられました。

ピル使用者の血栓塞栓症の発生リスクは、非使用者の4.4~4.9倍となるというものでした。

日本でも研究が行われ、米国での承認が決まると、国内の製薬メーカーの大日本製薬、塩野義製薬、帝国臓器が承認申請しました。

厚生省は、これらの製薬会社に追加資料を要求しました。

各社からの追加資料を検討した厚生省の調査会や特別部会では、製剤の改善とともに、副作用は軽減、血栓症などの重大な障害は我が国では認めないとされました。

ただし、長期投与に伴う身体に及ぼす影響についてはいまだ十分に解明されたとはいえないことから、必ず医師によって処方され、服用中は医師の監督下に置かれることが絶対必要条件とされました。

当時はまだ米国でも2年以上使用した場合の人体への影響については結論が出ておらず、日本産婦人科学会、日本内分泌学会、日本遺伝学会等も学会としての結論は出していませんでした。

厚生省は、1964年6月に、本剤を要指示薬とし、2年間の使用制限と各種検査を含む使用上の注意を添付文書に記載するなどの条件付きで許可する意向を示しています。

1965年7月の新医薬品特別部会で審議されることになっており、許可はほとんど決定的でしたが、会議の前日になって突如中止されました。

「ピルが承認されると性道徳が乱れる」という理由で、当時の総理大臣夫人が強く反対したと言われています。

ピルをめぐっては、抵抗勢力が大きい状況でした。ピルが足踏み状態となった理由は以下の事もあったようです。

・中央薬事審議会の審議では、東大の産婦人科教授など「ピル承認反対委員」を加えずに賛成の議決がなされた。

・日本家族計画連盟、日本結婚センター、自民党婦人部等が承認に反対した。

・有力な一般紙に批判的な記事が掲載された。

日本家族計画連盟の創始者は、経口避妊薬の承認に対して「時期尚早」の立場をとっていました。会長名で、厚生省や日本医師会などに、避妊薬承認は時期尚早との反対決議文を配布しています。

「家族計画」には、このようなことを書いています。

経口避妊薬は逆に正常で健康な人体の機能を変化させ、自然作用を不自然作用にもっていくものである。今までの避妊薬は人体しぜんの機能はそのままにして、局所に適用するが、これは全身適用である。ここらが薬という通念からいってもおかしなものだ。

低開発国で人口が過剰でどうしようもない国とか、文明国でも宗教や法律の上で、避妊も不自由、中絶は厳禁という国では、このクスリの使用は、それだけに意味がある。けれども避妊についても中絶についても全く自由である日本が、何を好んで、この薬を用いなければならぬ理由があるか。

それにこれは私の考えだが、営々十数年も苦労させてきた実地指導員の制度をどうするつもりなのか。彼女たちを政府は平気でふみにじるつもりなのか。許可するつもりなら、それによって当然おこってくる実施指導員を、どこかに変換させることも併せて考えてもらわねばならん。(後略)

実地指導員は、受胎調節指導員のことでしょう。

新薬の製造は、中薬審の答申を受けて厚生大臣が承認することになっています。ピルについては中薬審での審議は既に終了していました。

しかし厚生省が公式の理由を示さずにピルの承認議論を凍結してしまったのです。当時の厚生大臣の在任中は承認されないだろうと言われました。しかしその後も凍結状態が続きます。

やむなく日本の製薬企業は、承認の見込みがない開発を中止しました。

研究もほとんどなくなった我が国をよそに、諸外国では研究が進みます。

1965年、スイスで開催されたWHOのScientific Groupがピルの有効性と安全性を認め、翌1966年、米国FDAは、これを踏まえてピルの2年間の使用期限を撤廃しました。

世界では、より副作用の少ない低用量ピルが使われるようになっていました。

一方、我が国では、「避妊薬」としては認可されていない無月経や月経異常などの「治療薬」としてのピルが、服用する女性の判断と自己責任において、避妊目的として転用されて使用されるという状態になっていました。

1970年代前半、中ピ連が登場します。

これは、「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放同盟」の略称で、1970年代前半に活動した日本のウーマンリブ団体です。

新左翼のものを模した「♀」印のついたピンクのヘルメットと過激な活動内容でメデイアをにぎわせ、当時の社会現象となりました。

北村先生は、このような「中ピ連」の動きが、わが国におけるピル承認への道をと閉ざしてしまったのではないかと危惧しています、と述べております。

内閣はすべて女性とする
公務員はすべて女性とし、男性は臨時職員かアルバイトとする

このような政策を掲げていた中ピ連が、「ピル=過激な女性のイメージを増幅させてしまったとは言えないでしょうか。」と北村先生は言っております。

小学生だった私も覚えております。ピルはなんだかこわいものだと刷り込まれた気がします。

1975年に開催された第19回日本医学会総会シンポジウムで議論がありました。

現在わが国の経口避妊薬の使われ方は好ましい状態とはいえない。経口避妊薬の効果の確実性、他の避妊法により欲しない妊娠の起こったときのリスク(わが国の1973年の妊産婦死亡率は出生10万人当たり38)を考え合わせるとき、少なくとも副作用の面から見る限り、経口避妊薬は認可されるべきであろう。

一般的に副作用や危険性は新聞などに誇張されて報道される傾向が強い。日本以外の国々では、ピルの内服の危険性を一応認めた上で、なおかつ、それによって確実に妊娠を妨げるという利益の方が、計画外の妊娠をして、それを中絶や出産するよりも母体にとって相対的に安全だからという比較の上で内服を奨励している。

このような識者の発言がいろいろな場面でなされていたにもかかわらず、ピル承認の動きは一向に進みませんでした。

1985年、日本母性保護医協会は、安全性の追求の一環として、海外で普及している「低用量ピル」の現状とわが国の状況を踏まえ、日本産科婦人科学会に対して、「日本でも低用量ピルの検討を」という要望書を提出しました。

それを受けて、日本産科婦人科学会と日本母性保護医協会は我が国で中絶実施率が、特に欧州諸国と比較すると高いのは、海外で広く普及している「低用量ピル」がないことだと考え、厚生省に、「低用量ピルの臨床治験の必要性」を訴える要望書を提出しました。

厚生省は、これをうけて研究班を組織し、経口避妊薬の有効性を実証するための臨床試験を行う価値があるとして、1987年に、経口避妊薬の臨床評価方法のガイドラインを各製薬会社に通達しました。

これにより、各社が一斉に臨床試験を開始します。

2年半後に、被験者5千余、七万周期に及ぶ長期投与試験が終了し、1990年に各社が厚生省にピル承認申請を行いました。

9社12品種のピルの認可申請の結果は、1992年に、またも解禁寸前に「凍結」となりました。

ピルが解禁されれば、エイズが大流行するという公衆衛生上の理由だったのです。そして最後の関門は、環境ホルモン問題です。

実に、申請から9年後に認可されることになりました。

北村先生は、講演で、バイアグラが申請から6か月で認可されたことと比較した絵をスライドで示したことがあります。

バイアグラは新幹線で、ピルは人力で進むトロッコでした。

この本は、公衆衛生の本と認定させていただきます。

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