悲劇的な夭折には栄光があり、つのりゆく老衰には長い悲しみがある
椎葉村の実家には、昔の自分が買った本がたくさんあります。そのなかには、内容が難しくて読まなかったものもあります。
手にしてみると、なかなか面白くて引き込まれるものもありました。
その中から、小島直記さんの「出世を急がぬ男たち」(新潮文庫)を紹介させていただきます。
解説を書いているのが、編集者として著名な粕谷一希さんです。
それによると、もともと小島直記さんは、純文学を目指していましたが、伝記文学、経済小説の分野に足を踏み入れたということでした。
芥川賞候補となったときの受賞作は石原慎太郎さんの「太陽の季節」でした。
小島直樹記さんが、豊かな文学的資質を純文学ではなく、伝記文学の世界に求めたことは、しかし、日本の広い読書界にとっては幸福であったといえるかもしれない。
粕谷さんはそう述べています。
Geminiに聞いてみたら、いろんな経済人の伝記を書いています。
松永安左エ門(電力の鬼といわれた実業家・政治家)
益田孝(三井物産創業者)
石橋正二郎(ブリジストン創業者)
奥村綱雄(野村証券社長・会長)
鈴木三郎助(味の素創業者)
小林一三(阪急東宝グループ創業者)
小島さんの「まかり通るー電力の鬼・松永安左エ門」の主人公の松永安左エ門は、我が椎葉村に来たことがあります。
九州電力が建設していた上椎葉ダムの工事現場に激励に来ています。

粕谷さんは、小島直記さんが、希な蔵書家であると言っています。蔵書への情熱は並大抵のものではないと次のエピソードを紹介しております。
井上薫の伝記「世外井上公伝」(全五巻)は、小島さんがサラリーマン時代、一か月の給料を全部はたいて購入したものである。
当時で7万5千円、帰宅して奥様にそのことを告げると、奥様は一言の愚痴もこぼさなかったという。
書物への情熱、愛情はこうした行為によって醸成されてゆく。それによってのみ、こうした博引旁証、博覧強記の文章は可能になる。
うーん。奥様が立派な方でよかった。

明治期の日本財界の最高指導者は渋沢栄一だという定説は、単なる虚像にすぎないと言っています。
井上薫の前では、渋沢栄一はかしこまり、高橋是清もそばに座ってにこにこしているだけで一言も発しなかったそうです。
富国強兵・殖産興業路線を政府の指導の下に突っ走った明治期の「財界の総理」は井上薫でした。
財界の有力者を集め、井上の指導下に経済研究をする会を組織しました。
東京市内外にある主要工場26か所を前後7回にわたって巡視をします。
66歳の高齢でしたが、寒さが残る三月の始めに、外套も着ず、早朝から馬車を馬車を駆って自邸を出て、壮者をしのぐ元気をもって諸工場を巡回し、鋭敏な観察眼をもって実際の作業を詳細に視察し、さらに社長、専務取締役あるいは技師長に種々微細に立ち入った専門的な質問をなした、と言われています。
こういう努力は、伊藤博文、山縣有朋、松方正義、大隈重信など他の元老たちはだれ一人やっていません。

しかしながら、この努力によってせっかく獲得した財界の最高指導者の椅子にもかかわらず、本当の権威は生じなかった。そこに井上の人間的悲劇があると、小島さんは指摘しています。
井上薫は、努力をし、かつ謙虚であったのであれば文句はないが、努力をし、その上で増上慢に陥った、そっくり返り、わがままになり、汚くなったと、小島さんは断言しています。
ことにひどかったのは、他人所蔵の骨董品に対する態度でした。
例の奥の手にわかに飛び出し、暫時貸与せよとて持ち去らる。
貸与は借用の意に非ずして、奉納せよの意なりとは、斯界の通り言葉になりき。
しかも、「晩年に至っては惜しいかなボケるのみにて……殊に骨董のことになれば、ほとんど常識を逸したる行動になった」とのこと。
三井物産の創始者の益田孝は、恩人の井上薫が屋敷に来て泊まるときは、軸物、置物、生花の器具から庭の石灯籠まで、とり上げられてもさしつかえないものに取り換えました。

大正4年9月、数え年ハ十一歳で逝去する時は、「従一位大勲位侯爵」の栄誉に輝きました。
この栄光の裏面にあった世間の侮蔑、井上自身の自覚せざる老醜の悲惨さにくらべると、その格差は余りにも大きいと、小島さんは厳しく指摘しています。
総じて権勢の地位についたとき、まず覚悟せねばならないのは、直言の士がいなくなることと、自分の「老年」が試されるときになります。
どういう人間も、歳を取ります。
肉体的衰弱は避けられませんが、恐ろしいのは精神的衰弱です。
それ以上に恐ろしいのは、そのことについての無自覚だと小島さんは言います。
悲劇的な夭折には栄光がある。つのりゆく老衰には長い悲しみがある。
組織の中の老害は、多くの人をまきこみます。
トップ・マネジメントの第一頁には、「老年を見つめよ」という自戒のことばから始めるべきであろうと、小島さんは言っております。

昔、NHKの大河ドラマ「花神」で井上薫の若かりしときの活躍ぶりを見ました。名前は井上聞多(もんた)。
海国を主張していた長州藩士の井上聞多は、反対派の刺客に襲撃されて、全身を切り刻まれる重傷を負いました。
激痛に耐えることができず、兄に介錯を依頼しましたが、母から止められます。そこに適塾で学んだ蘭方医の所郁太郎が駆けつけました。
所は、畳針と焼酎で緊急手術を行い、50針以上におよぶ傷口を縫合するという緊急手術を行います。この処置により、井上は奇跡的に一命を取り留めました。
一方の所は井上を救った翌年の慶應元(1865)年、腸チフスにより27歳で亡くなりました。
せっかく生かされた人生ですが、司馬遼太郎さんも、「このとき死んでおれば、志士として語り継がれたが、生き残ったことで明治期に金権政治の象徴になってしまった」と言っています。
それにしても畳針と焼酎で傷口を縫合するとは、凄い手術をやったものだと思います。
歴史は面白いです。いろんなことを考えさせられます。
「老害」にならないように、注意しようと思いました。
