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住友は林学博士に頼んで全国的に適当な造林地を物色し、その地質、雨量、気候等より見て、椎葉が最適地と判断した

年末年始に椎葉村の実家に帰って、親戚たちと一緒に飲み食いして過ごしました。

その中で、椎葉村の村医者をしていた椎葉新次郎先生の著書「老医のたわごと」という本を読みました。

昭和46年に発刊されたもので、椎葉新次郎先生が78歳のときの著書です。

医師二人と一緒に、昔の馬鹿話をしていたところ、是非、書いて残しておいて貰いたいと勧められて、執筆されたということでした。

本当に貴重な本だと思いました。

椎葉新次郎先生の経歴を、ここにご紹介しておきます。

明治26年5月 宮崎県椎葉村に生まれる。
大正 2年3月 都城中学校卒業
大正 6年5月 熊本医専(現在の熊本大学医学部)を卒業
大正 7年7月 椎葉村で開業
大正13年4月 九州大学医学部皮泌尿器科教室医局員
大正14年7月 鹿児島市で開業
昭和14年9月 明治生命保険会社社医
昭和17年4月 第一生命保険相互会社社医
昭和23年7月 椎葉村で開業
昭和46年2月 「老医のたわごと」出版

村会議員を2期務められています。

椎葉新次郎先生の御子息は、宮崎県立延岡保健所長をされていました。

我々、公衆衛生医師の先輩です。

ご紹介するのは、「住友騒動」という話です。

今からおよそ五十年以上前、黒木盛衛村長時代の事。

「部落有地」を村に統一して、当時、日本三大財閥の一つ、大阪の住友本店に、百分の十五の分収歩合で貸地造林せしめる件が、村内各地区の大問題となって大騒動が持ち上がった。

特に不土野地区は区長、甲斐彦蔵氏を先頭にむしろ旗を押し立てる。また向山地区は甲斐十三郎氏を先頭に、竹やり持参という具合で反対のデモが持ち上がった。

黒木村長ならびに住友の出張所主任、北村喜蔵氏などは大変危ない目にあったという話を後で聞いたことがある。

黒木村長も地区の反対にあって、まことになみなみならぬ苦労をしたことは間違いないと思う。

県の林務部長永浦井昭二氏その他に頼んで、地区住民の説得に務めたことも想像に難くない。

最後に一番効果があったことは、住友本社から村内有志およそ三十人を大阪に招待して、本社はもちろん関係会社等を見物させ、さらに四国にある住友経営のドル箱で大資本を注入した別子銅山、ならびにその周囲の広大な植林を見学させて、住友に安心してすがれる気持ちを起こさせるように手を打ったことにあったようである。

その間の往復旅費、宿泊料は一切本社持ち。
さらに帰途にあたっては、数多くの土産品を持たせた。

まことに、至れり尽くせりのサービス振りだったと言う。

当時の住友本社社長住友吉左衛ヱ門氏は、日本の元老として日本政府を左右していた西園寺公望公の弟であった。

また、総理事は本県高鍋町出身の鈴木馬左也氏で、当時、日本最高の月給取りといわれ、大臣級の人物であった。

上記のごとく、住友の陣容はまことに良く整っていたし、田舎者の懐柔など朝飯前であった。

高鍋町のパネル

最初、村民は住友を怪物呼ばわりしていたが、その後は信頼に変わり、住友の評判はにわかに一変した。

そして、「部落有地」統一問題も難なく片づいてしまった。

最初、住友はある林学博士に頼んで、全国的に適当な造林地を物色したのであるが、その地質、雨量、気候等より見て、椎葉が最適地であろうとの報告により、椎葉に二万町歩を要求したそうだ。

椎葉新次郎先生の記述は、まことに興味深い話です。

椎葉村史で調べてみました。

椎葉村で所有権の確定していない通称「部落有地」と言われるものが約2万町歩あった。

この「部落有地」は大正年代にそのほとんどが所有権、地上権等の権利が確定したがその経緯は本村林政史上特筆されるものであり、その経緯について若干触れておきたい。

当時椎葉村で産出される木材は川流しで、その他の生産物の多くは馬背で峠を越え近隣の他県、他町村の車馬道まで運び、その周辺の商店で売却したり、生活用品と交換するとか馬車送りして市場に出すななどの方法がとられていた。

南郷村神門、西米良村村所、西臼杵郡高千穂、鞍岡、熊本県湯山、古屋敷等はすでに明治年代後半に馬車営業が行われていたが、椎葉、細島間県道は西郷村和田まで開設された後、中断されたままであった。

車道の開設は椎葉村民の悲願であり村政を預かる者の大使命であった。

当時の村長・村議会議員たちは、ことあるごとに県に対し陳情、要望を繰り返したが財政上の都合もあって状況はいっこうに進展をみなかった。

このような状況を打開するためとして考えられたのが、次の二点であった。

1 県の積極的開発姿勢を定着させるための、県有林用地の無償提供

2 資本導入のための、大資本家への林業の斡旋

このようにして、本村から県有森林用地の寄付を受けた宮崎県の仲介により大阪の大資本家で山林部門を持つ住友吉左衛門に対する林地斡旋、資本投下の交渉が開始されたのである。

大正八年村は「部落有地」を次のイ、ロのとおり改編することとした。

イ 一部は関係地区の住民に無償贈与する。

ロ 一部は立木処分収益の四分の三を関係地区民に配当し土地は村所有とする。

いわゆる「部落有林統一」といわれるものである。

村はこのようにして村有に統一した林地を住友資本が行う林業経営のために貸し付けることとし、村会に於て地上権設定契約案など一連の関係議案を議決し住友との契約を確定させた。

大字不土野地区の「部落有林統一」反対運動は特に激しく、さながら幕府時代の百姓一揆のような状態であったと伝えられている。

大正十年六月の宮崎県庁の文書には、次のような記載が残されています。

大字不土野ハ或ハ県郡出張員二暴行ヲ加ヘ或ハ弁護士ニ依頼して共有権確認ノ訴訟ヲ提起スル等、絶対ニ統一二反対シ為ニ本事業進捗ヲ阻害スルコト大ナルハ甚タ遺憾トスル所ナリ

多くの住民がムシロ旗を立てて、鉈、鎌、竹ヤリ等を持って集合し抵抗を続けたため、村は一時統一事業を中断したとも言われている。

このような紛糾もあったが大正五年八月村会において「大字不土野部落有地統一議案」が可決され、昭和二年十二月住友が地上権設定登紀を終えてこの件も一応の終止符をうったのであった。

このような経緯があって念願の細島・上椎葉間道路工事が昭和三年に着手、同八年に完成をみた。

昭和八年細島、上椎葉間県道が開通したことは本村の歴史を一大転換させた。

木材をはじめ木炭、椎茸、その他の産物の移出が容易になり山床価格は一挙に倍増し村民の生産意欲の向上をもたらした。 

歴史は、公式の記録だけでなく、個人の記録とが組み合わさると、より輝きが増して、真実の姿が見えてくるように感じました。

椎葉新次郎先生の「老医のたわごと」を参考に、椎葉村に残された歴史や記録を収集して「ハベレオ通信」で記述してまいる所存です。






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