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天然痘こそが「ザ・公衆衛生」の感染症である。その歴史は教訓に満ちている

天然痘は、天然痘ウイルスによる感染症です。人にしか感染しません。

約十二日間の潜伏期間章後、急激に発症して高熱、頭痛、筋肉痛を起こし、二~五日後に特徴的な発疹を生じて膿疱を作り、感染が激しいと臓器への出血などで死亡します。

これこそが、「ザ・公衆衛生」の感染症だと思います。天然痘の歴史は、教訓に満ちています。

この病気は、我が国では、古来より恐ろしい疾患とされてきました。
その原因は死亡率の高さです。

さらに感染力も強く、発疹を中心とする皮膚疾患のすさまじさは、尋常なものとは思われませんでした。

命が助かっても、失明することや、顔にあばたが残るという後遺症がありました。

天然痘で目を失った歴史上の人物は多くいます。戦国武将の伊達政宗は、天然痘により片目を失いました。

小泉純一郎総理大臣の国会での施政方針演説で有名になった「米百俵」の長岡藩家老の小林虎三郎も片目でした。

宮崎出身の幕末の儒学者で、江戸に「三計塾」を開いて、後の外相陸奥宗光や熊本城を薩軍から守り抜いた熊本鎮台司令官谷干城らを育てた安井息軒も片目でした。

安井息軒

神社の鳥居や、赤べこなど、天然痘よけとして赤い色が用いられました。

天然痘は子どもが罹ることが多くて、おもちゃの色が赤いのは、子どもが罹らないようにとしたからです。 

天然痘は、他のどの疾患よりも、わが国の歴史に大きなインパクトを与えています。

その一つは、奈良時代における仏教の普及であり、二つ目は、幕末から明治にかけての西洋医学の普及です。

現在の東京大学医学部は種痘から始まっています!

赤べこ

日本での最古の公式記録は、続日本紀にあります。

七三五(天平七)年八月に、九州太宰府で、豌豆瘡(裳瘡)が流行して死者を多数出したと書かれています。

七三七年には、奈良の都の政治の中央にいた藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂の藤原氏の四兄弟が相次いで罹患して亡くなりました。

聖武天皇は、仏の加護によって疫病を退散させて国を守ろうと願って、全国に国分寺、国分尼寺を建立しました。

都には総国分寺としての東大寺を建立し、銅造の廬舎那大仏を造っています。

奈良の大仏を初めて見たのは、椎葉中学校の修学旅行でしたが、まさか天然痘が原因でこのような巨大な大仏が建てられたとは知りませんでした。

世界的には、十一世紀~十三世紀の十字軍の遠征や、イスラムのアンダルシア侵攻などにより、天然痘はヨーロッパ全土へ広がっています。

コロンブスのアメリカ大陸発見以後は、天然痘は新大陸へ伝搬しました。

新大陸には天然痘が存在せず、住人たちは天然痘の免疫を持っていませんでした。

このために天然痘に罹って人口が大幅に減少したのです。

一五二一年に、アステカ帝国はスペインのコルテスによって滅ぼされました。

一五三三年に、インカ帝国は、スペインのピサロによって滅ぼされます。

遥かに少ない兵力のスペイン人たちに滅ぼされたのは、天然痘に次々と感染したことが原因だとされています。  

一七五五~一七六三年の北米大陸で戦われた英国対フランスの戦争では、フランスと共同して戦うインディアンに対して、英国軍は天然痘ウイルスをすりこんだ毛布を支給しています。

英国の医師、ジェンナー(一七四九~一八二三年)は、天然痘を予防するための種痘を開発しました。

牧師の子として生まれたジェンナーは、学校を出て外科医・薬剤師の徒弟となり、ロンドンに出て外科医として有名なハンターの解剖学校に入って外科の修練をしました。

そして、郷里バークレーに戻って開業しました。診療所は大変に繁盛しました。

地元の牧場関係者から、牛痘になった人は天然痘に罹らないという言い伝えを聞きました。

そこで、ジェンナーは牛痘を人工的に接種して天然痘を予防することを考えます。

一七九六年五月に農家の娘が牛痘に感染し、その膿疱を一八歳の健康な少年に接種しました。

この少年は天然痘にはかかりませんでした。

これらの経験をまとめた論文を王立科学協会に出しましたが、掲載を拒否されました。

一七九八年に十二例の牛痘接種を実施した論文「牛痘の原因及び作用に関する研究」を自費出版しました。

これは各国語に翻訳されて、世界中に広がります。

こうして病原体が発見されるよりも前に、種痘による予防が始まります。

英国のジェンナーの発見した牛痘を用いた種痘は、日本には長崎を通じてオランダから種痘がもたらされました。

当時の日本では、外科は西洋医学が進んでいましたが、内科は漢方が優れていると見られていました。

しかし種痘により、内科も西洋医学の方が進んでいると庶民に見せつけることになりました。

東京大学医学部

緒方洪庵は、大坂に除痘館をつくって、全国約二百か所に種痘を広めました。

一方、江戸の種痘所の開設は大坂より九年も遅れました。

江戸には漢方の牙城の幕府の医学館があって、漢方医から邪魔をされていたのです。

それでも江戸の蘭方医の伊東玄朴、大槻俊斎、戸塚静海らが設立の許可を開明派の勘定奉行川路聖謨に出願し、一八五八年に許可が降りました。

江戸の蘭学者たち八三人が寄付金を出して神田お玉が池に種痘所を設けました。場所は、川路聖謨の屋敷の敷地内に開設しました。

四日ごとに種痘を行い、それ以外の日は、蘭方医学の勉強会を行いました。

ようやく開設した種痘所でしたが、半年後の暮に、火事で延焼してしまいます。

この状況を救ったのは、銚子のヤマサ醤油製造業の濱口悟稜です。種痘所の再建のために三百両をポンと寄付します。

こうして翌年に、今度は伊藤玄朴の屋敷の一部に再建されて、種痘が行われました。

一八六〇(万延元)年十月には、幕府が直接管理することとなり、大槻俊斎が初代頭取となります。

種痘所は、一八六一年十月に西洋医学所と改称され、種痘だけでなく解剖など西洋医学の講義が行われました。

一八六三(文久三)年には、医学所と改称されます。このことは、医学は西洋医学が主流だと宣言したことと同じ意味を持ちました。

一八六八(明治元)年には、大病院と合体して、病院兼医学校となりました。

更に、一八七一年には、大学東校となり、一八七四年に東京医学校となって、一八八〇年に帝国大学医学部となりました。

医師免許を持つ漫画家の手塚治虫氏が最期に手掛けたのは「陽だまりの樹」という作品です。

手塚氏の曽祖父の医師手塚良仙と、ライバルの武士伊武谷万二郎の二人の主人公を軸に、幕末から維新にかけての動乱や医学を背景に物語を展開しています。

良仙は、大阪の緒方洪庵の適塾で学び、父と共に種痘所の請願に名前を連ねています。

一八七七(明治一〇)年、西南戦争に出征し、戦闘が終結した九月二四日の二日後に赤痢に罹って、一〇月一〇日に大阪陸軍臨時病院で亡くなりました。享年五一歳でした。

一九八〇年五月八日のWHO総会で、天然痘根絶宣言がなされています。

WHOの天然痘根絶本部のプロジェクトリーダーは、日本人の蟻田功氏で、熊本大学医学部出身の元厚生省医系技官です。

WHOは、住民全員に種痘を実施する作戦を展開しました。

しかし、接種率が九五%を超えても人口密集地では流行が止められませんでした。

一方、アフリカのベナンにおける観察結果から、天然痘の感染は濃厚接触者に限られることが判明します。

WHOは作戦を変更しました。
住民全員に接種することをやめます。

患者の発見者に懸賞金を出して、まず患者を特定し、次にその周囲の濃厚接触者を確定して、そうして感染させる可能性のある者に確実に種痘を実施することにしました。

懸賞金は、まず一ドルで行い、次に十ドル、その次に百ドル、最後に千ドルまで引き上げました。

千ドルの懸賞金で、患者が見つからない状態が二年続けば、その地域は根絶したとみなすのです。

この方法で、南米大陸では、一九七一年のブラジルを最後に患者がいなくなりました。

南アジアでは、一九七五年のバングラデシュが最後でした。アフリカ大陸では、一九七七年のソマリアが最後の患者となります。

これが地球上で最後の患者となったのです。

ワクチンは、WHOの品質検査で合格したロットで造られたものしか使用を認めませんでした。

接種用の機器として、誰でも扱える単純な構造をした二股針を用いました。

発生国に対しては、ワクチンと二股針と移動用の自動車をWHOは無償提供しました。

このプロジェクトに米国とソ連の二大超大国が協力したことが根絶に大きく貢献しています。

根絶後は、天然痘ウイルスは、米国のCDCと、ロシアの国立ウイルス学バイオテクノロジー研究所の二か所に保管されています。

有料マガジン「ミリタリーメディスン」は、こうした医学の歴史が満載で、おすすめです。

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