軍艦「矢矧」はスペイン風邪のために航海不能となったが、ピンピン・テンのヘルプで目的地に到着した
新型コロナウイルス感染症は、これまでの日本の風物詩ではなく、イレギュラーな疾患です。
日本で秋から冬にはやるのは、インフルエンザでした。
インフルエンザの登場は、およそ100年前の出来事です。
第一次世界大戦が終わる頃に始まりました。
当時は「スペイン風邪」と呼ばれました。
1918~1919年に流行したスペイン風邪では、世界で死者2100万人、患者数は10億人と推定されています。
各国では、
膨大な数の患者の対処に苦労しました。
多くの国では仮設の病院が建設され、
軍が患者のケアを行っています。
当初は原因がわかりませんでした。
最初に流行したヨーロッパの戦場では、
ドイツ軍が生物兵器を使っている、
という噂が流れました。
ただ、
ドイツ軍も連合国軍と同様に感染していました。
フランスでは、
英国が開発し使用した毒ガスであるマスタードガスの副作用ではないか、
と考えた人がいました。
スペイン風邪は、
日本にも容赦なくやってきました。
その中で、
歴史に残る感染エピソードが残されています。

日本海軍の軍艦「矢矧(やはぎ)」は、
1918年11月30日に、
シンガポール港から
フィリピンのマニラ港に向けて出港しました。
シンガポールで、感染した乗組員がいました。
航海中に、
インフルエンザに感染する乗組員が続出して、 航行困難な状況になってしまいました。
私がインフルエンザになったときには、
39度の熱が出てもうろうとしておりました。
喉が痛くて水も飲めず、
食欲は全くありませんでした。
頭痛と全身の筋肉痛で、
とにかくひたすら横になっていた
そういう記憶があります。
航行不能も当然だと思います。
ところが、矢矧の中に、
軍艦「明石」の乗員10人が同乗しておりました。
この乗員たちは、
既にインフルエンザに罹って治癒しており、
「免疫」を獲得しておりました。
矢矧の乗組員が瀕死の状況でしたが、
ピンピンしておりました。
この「ピンピン・テン」のおかげで、
12月5日に目的地である
マニラ港に到着することができました。
動物のテンではなく、
「元気な10人」の意味ですので、念のため。
矢矧の乗組員は、
航海中に1人がインフルエンザで死亡しました。
47人が到着後のマニラで亡くなりました。
航海中は精神力で持ちこたえていましたが、
目的地に着いて安心したのかもしれません。
矢矧の乗組員の
インフルエンザの流行が収束するまで、
およそ1か月かかりました。
年が明けた1919年1月20日に、
マニラ港を出発して、
同月30日に広島県の呉港に帰還しました。
「矢矧コホート調査」の結果は、
乗組員469人中、
9割がインフルエンザに感染し、
48人が死亡しました。
感染率は約90%、死亡率は約10%
全員が成人男子です。日々訓練をつんだ帝国海軍の精強な若者に対して、この数字です。
恐るべきは、インフルエンザの感染力と強毒性。
狭い閉鎖空間に、
免疫のないヒトが集団生活をおくることは、
恐怖以外のなにものでもない
ことを物語っております。
教訓としては、二つあります。
①船は感染症に弱い
②免疫のないヒトは、感染症に弱い
集団生活をする個人には、
ワクチンは必要不可欠です。

厚生省の母子保健課に勤務していたときに、
「健やか親子21」の検討会の委員をされていた先生がおっしゃっておりました。
ワクチン反対派の専門家が、
子どもさんが米国の大学に留学することで、
相談にやってきました。
「子どもが留学するまでの期間内にワクチン接種してほしい」
「貴方は、ワクチンは反対ではなかったのか?」
「日本政府の言うことなので信用できなかったが、アメリカ政府が言っているので従うことにしました」
先生はワクチン接種を、粛々と行いました。
これ以降、この「専門家」は
ワクチン反対を
公に言うことをやめたそうです。
21世紀初頭の母子保健の国民運動計画である
「健やか親子21」では、
ワクチン接種の目標値が設けられています。
およそ四半世紀前の日本は、
ワクチン・アウエーな状況でした。
マスコミから徹底的に叩かれていた健康局から「ワクチン接種の目標値を設けて、児童家庭局は大丈夫か?」
と心配されました。
先生のアドバイスのおかげで進めることができました。
その結果、何事も起こりませんでした。
