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企業経営者の稲森和夫と、軍人・政治家の山縣有朋とは共通点がある

京セラの稲森和夫さんが、若い頃に、松下幸之助さんの講演を聴きました。

有名なダム式経営の話を聴きました。

ダムを持たない川は大雨が降れば大水が出て洪水を起こす。

日照りが続けば枯れて水不足を生じてしまう。

だからダムをつくって水をため、天候や環境に左右されることなく水量をつねに一定にコントロールする。

それと同じように、経営も景気の良いときこそ景気の悪いときに備えをしておく。

そういう余裕のある経営をすべきである。

講演が終わり、質疑応答の時間になったとき、一人の男性が立ち、不満をぶつけました。

「ダム式経営ができれば、たしかに理想です。しかし現実にはそれができない。どうしたらそれができるのか、その方法を教えてくれないことには話にならないじゃないですか」

その質問に対し、松下さんはぽつりとつぶやきました。

そんな方法は私も知りませんのや。知りませんけども、ダムをつくろうと思わんとあきまへんなあ」

会場に失笑が広がりました。

答えになったとも思えない松下幸之助の言葉に、ほとんどの人は失望したようでした。

しかし稲森さんは、失笑も失望もしませんでした。

それどころか、体に電流が走るような大きな衝撃を受けて、なかば茫然と顔色を失っていました。

松下幸之助の言葉は、「自分にとても重要な真理を突きつけている」と思えました。

ダムをつくる方法は人それぞれだから、ああしろこうしろと一律に教えられるものではない。

まずダムをつくりたいと思わなくてはならない。

その思いがすべての始まりなのだ。

松下さんはそういいたかったのだ、と思いました。

まず強くしっかりと願望することが重要です。

「思い」はいわば「種」であり、人生という庭に根を張り、幹を伸ばし、花を咲かせ、実をつけるためのもっとも最初の、そしてもっとも重要な要因です。

願望を成就につなげるためには、並に思ったのでは駄目です。

すさまじく思う」ことが大切です。

強烈な願望として、寝ても覚めても四六時中そのことを思いつづけ、考え抜くこと。

頭のてっぺんからつま先まで全身をその思いでいっぱいにして、切れば血の代わりに「思い」が流れる。

それほどひたむきに、強く一筋に思うこと。

そのことが、物事を成就させる原動力となる。

同じような能力を持ち、同じ程度の努力をして、一方は成功するが、一方は失敗に終わる。

この違いはどこからくるのか。

人はその原因としてすぐに運やツキを持ち出したがりますが、要するに願望の大きさ、高さ、深さ、厚さの差からきている。

不可能を可能に変えるには、まず「狂」がつくほど強く思い、実現を信じて前向きに努力を重ねていくこと。

それが人生においても、また経営においても目標を達成させる唯一の方法である。

ここで思い当たる歴史上の人物がいます。

山縣有朋です。

若い頃は「狂介」と名乗っていました。

徴兵令を公布して、国民皆兵を成し遂げたときの陸軍大輔(次官)です。

徴兵令の公布の日は1973年1月10日で、
153年前の昨日。

徴兵制のアイデアは、もともと長州藩士の大村益次郎が言い出したものです。

明治維新後に、兵部省の大輔となった大村は、徴兵制を進めようとしますが、特権が奪われることを恐れた長州藩士から暗殺されます。

長州藩の下級武士だった山縣狂介は、奇兵隊での実戦経験がありました。

農民でも訓練をして鉄砲を持たせれば実戦に役立つことを知っていました。

フランスやプロイセン(ドイツ)に留学して、国民皆兵が必要だということを学びます。

日本では武士階級が「兵」という役割を担うため、武士以外は戦うことはありません。男子人口の多くは農工商人です。

帰国してからは、徴兵令を公布させるために、まず武士階級のレゾンデートルだった「藩」を無くして、県を置く「廃藩置県」に取り組みました。

廃藩置県を行い徴兵令を公布できる実力者は、狂介が見るところ薩摩藩の西郷隆盛だけでした。

鹿児島に帰っていた西郷隆盛を中央に復帰させます。

西郷隆盛を後ろ盾にして、明治4年7月に廃藩置県の実施、明治6年1月に徴兵令の公布を実現させました。

山縣は、明治4年に有朋と名前を変え、明治6年7月には、念願の陸軍卿に就任します。

明治6年10月に起こった朝鮮への派遣をめぐる政変(明治六年の政変)で西郷は下野し、鹿児島に帰ります。

明治10年の西南戦争では西郷が政府に尋問の筋これありと、兵をあげました。

西郷軍を征討するための征討軍の参軍(司令官)に指名されたのは、山縣有朋です。

追い詰められて最後に立てこもった城山にいる「恩人」に対して、山県は名誉の自決を促す手紙を送ります。

西郷はそれには従いませんでした。

戦いの後に、西郷の首を見た山縣は、周囲の人が驚くほど号泣しました。

その声に合わせるように、雨が降ってきました。

敬天愛人の死は、天をも泣かし、桜島の噴煙も消えるほどでした。

西南戦争は「武士」対「徴兵された兵」の戦いでした。

これに勝利したことで、国民皆兵はゆるぎのないものとなりました。

狂介の時代から山縣は、寝ても覚めても、国民皆兵を行って近代的な軍隊にすることを考えていたと思います。

企業経営者の稲森和夫さんと、軍人・政治家の山縣有朋とは、全く共通点がないように見えるかもしれません。

しかし、二人とも強烈な西郷ファンでした。

稲森さんは鹿児島出身なので当然ですが、長州藩出身の山県有朋は、薩摩藩士以外では一番の「西郷推し」でした。

山縣有朋を持ってきたのは、日本一西郷を慕っていたからです。

西郷推し、いや「西郷狂」といった方が正確かも。

個人の感想です。

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