見出し画像

ヨーロッパには戦争や革命の記念碑と競うほど「ペスト塔」が数多くいまでも残っているが、日本人にはペストの記憶はない

「医と病い」(藤原書店)の中に医学史家の立川昭二さんが書いている「病のフォークロア」という文章を読みました。

立川さんは、社会の中で病気や病者がどのように扱われ、人々が病や死をどのように受け止めてきたかという「病者の視点」「文化・社会の視点」から歴史を描いています。

Geminiによると、医療従事者だけでなく、歴史学や文学、思想に関心を持つ層にも幅広く読まれ、日本の医学史研究に多大な影響を与えた人物とありました。

私もその「多大な影響を受けた」ひとりです。

ヨーロッパのふるい町や村に、戦争や革命の記念碑と競うほど、「ペスト塔」が数多くいまでも残っていると指摘しています。

音楽の都ウイーンにあるペスト塔は、ペスト退散を記念し、レオポルド一世によって1638年に建立されています。

目抜き通りのどまんなかに立つこの塔を、自動車も電車もよけて通っています。

ウィーン市民は、生活の不便と秤にかけても、ペストの記憶の方を大事にしている、と立川さんは述べています。

ペスト塔がこれほど大事に残されているということは、ひとつには14世紀の黒死病以来のペストが、いかにヨーロッパ人の脳裏に深く刻印されているかということを証すものであるが、ひとつにはこれらペスト塔が病気平癒を願う人々の祈りの対象として、ながく生き続けたことを物語る。

では、日本の場合はどうであろうかーー。

銀座や御堂筋の通りに、疫病退散を記念した塔はもとよりみあたらない。

日本は明治以前にペストの侵襲をみていないが、ペストを知らない日本人も、それに匹敵する疫病として、ふるくから痘瘡(天然痘)、麻疹(はしか)・腸チフスなどがたえず流行をくりかえし、近世になると梅毒・インフルエンザ・コレラの侵入を受け、いずれも激甚な災禍をおよぼしている。

こうした災禍を追憶する記念物は日本にはまったくないのかーー。

じつは、京都の夏の宵を彩るあの祇園祭は、千百年前の疫病退散を祈願するための祭りであったし、奈良のあの大仏も人心収攬をめざして造顕されたものであるが、その民心の不安・政情の動揺の一因となったものに痘瘡の大流行があったのである。

また薬師如来はじめ各地の社寺が病気平癒の信仰の対象であったことはいうまでもない。

しかし、ヨーロッパのペスト塔のように、ひとつの疫病の流行と退散を記念して建立された目立った記念物は見当たらない。

立川さんは、その理由を次のように上げています。

①心性の相違
ペスト体験がきわめて深刻であったため疫病にたいして極度に過敏なヨーロッパ人と、疫病になかば慣れ親しんできた日本人

②宗教の相違
疫病にたいして戦闘的で悲寛容的なキリスト教と、疫病にたいして融和的で寛容な仏教

③風土の相違
石の文化であるヨーロッパと、木の文化である日本

日本では疫病の記念物にはほとんどめぐり合えないが、あえてあげれば、日本人をもっとも長く深く苦しめてきた痘瘡の記念物が、かすかな痕跡をとどめて埋もれている、と立川さんは述べております。

痘瘡は、奈良時代に大陸から侵入して以来、この列島に風土病のように淫侵盤踞し、大流行を何回かくりかえしたあと、江戸時代になると、連年たえず流行するようになり、上下貴賎あげて日本人はこの病苦を体験させられた。

ペストやコレラのような瞬時的な大量死という事態をみられず、つよい免疫性もあることから、日本人は痘瘡となかば馴れ親しんできたが、死を免れた者の、醜い痘痕をのこし、身体に欠陥ができたり失明する者も多く、ひとりひとりの生活史には、深刻な影響を与えた。

したがって、痘瘡をめぐる信仰・迷信・土俗は数限りなくある、と立川さんは言います。

痘瘡神があり、疱瘡祭もありました。

たとえば、痘瘡神を祀っていた神社は、江戸では25社、秩父地方では10社があります。

疱瘡神の御幣も社祠も赤色で、赤色は魔除けでした。

患者の衣類、寝具、調度、玩具はすべて赤色です。

痘瘡神を退治したのは、源氏の鎮西八郎為朝であり、為朝の「赤絵」が痘瘡除けの護符となり、「痘瘡絵」として流行しました。

いま、痘瘡神あるいは痘瘡地蔵は、人知れず山野にひっそりと埋もれています。

ヨーロッパのペスト塔のまがまがしいリアルさ、それにくらべ日本の痘瘡神のつつましやかなたたずまいーー。

いっぽうは時代をかいぐぐってまでも生きつづけようとし、いっぽうは時とともに自然のなかに融け込んでしまうーー。

ヨーロッパ人と日本人との病いにたいする心性の相違も、あるいはこのへんにかくされているのかもしれない、立川さんはそう言っております。

うーむ。
赤色には痘瘡の魔除けの力があったのか!

しかし、源氏は白のはずなのに、源為朝はなぜに赤なのか。

こんなことを考えていたら、サンタナの「哀愁のヨーロッパ」という曲を思い出しました。

宮崎西高の文化祭で、同級生が演奏しており、衝撃を受けました。

椎葉村で「ひえつき節」を聞かされて育った私にとって、宮崎市内の同級生たちがまぶしく見えました。

しかし、椎葉中の卒業生は、全員がひえつき節を踊れる!

ちなみに、ギタリストのサンタナは、日本にきてテレビ番組で演歌を聴いていて、この曲がひらめいたとのこと。

日本版ペスト塔もあるそうです。

ペストが流行した1899(明治32)年に、東京市長は、東京にペストが侵入しないように、ペストの媒介者であるネズミを駆除することによってペストの予防・撲滅を図ろうとしました。

近所の交番にネズミを持参して現金ひきかえ切符を受け取り、区役所で換金するという事業を実施します。

大人も子どもも長い尻尾の端をつまんでネズミをぶら下げ、交番の前に立ち並んだそうです。

こうした集められたネズミは、火葬場で焼かれました。

この防疫処置として殺されたネズミの慰霊碑「鼠塚」が1902(明治35)年、渋谷区広尾にある祥雲寺の境内に建立されました。

哀愁のヨーロッパのペスト塔を見に行く前に、東京の「鼠塚」に行こうかしら。


いいなと思ったら応援しよう!