福祉施設では、「お姫様だっこ」禁止である
厚労省の労働衛生課長のときに、職場の腰痛対策の指針の改正を手がけたことがあります。
一六年ぶりの改正で、一番のターゲットは福祉施設の腰痛防止対策でした。
労働災害で一番多いのが腰痛です。
このうち、福祉施設での腰痛の発生が多く、年々増加していました。
身体介助の際に無理な体勢で抱きかかえをすることがあり、これを繰り返して慢性的な腰痛になっている人が多かったのです。
デンマークの介護に詳しい先生に来ていただいて、労働衛生課内の職員で話を聞きました。
デンマークでは、昔は福祉施設で腰痛を起こして退職する人が多く、介護者不足が社会問題となっていました。
介護者の勤務の持続可能性を重視して、労働安全衛生法で施設での抱き上げを禁止しました。
ベッドの上での移動や、車椅子への移乗は、スライディング・シートやスライディング・ボードを使うことになっています。
スライディング・シートは、ヨットの帆のような材質の布で、よく滑る構造になっています。
このシーツの上で、滑らせて移動させます。
抱き上げは禁止されているので、床走行式リフトを使って移動させます。
時間がかかって大変ではないかと聞いたところ、馴れるとそれほど時間はかからないとのこと。
異性間の抱き上げはセクハラになるし、慣れるとリフトの方が介護される側も安心だと言っていました。
デンマークの福祉施設では、床走行リフトをたくさん持っているとのことでした。
職員は介護のプロなので、リフトやスライディング・シート、スライディング・ボード、リフトを使えるのは当たり前という感覚だそうです。
腰に負担をかけない業務なので、六〇歳を過ぎても介護職として働き続けることが可能です。
福祉施設での「老老介護」が普通にやられています。
ひるがえって、我が国の福祉施設の介護の状況はどうでしょう。
腰痛予防のベルトを締めて、ハアッーと声をあげて、さながら重量挙げのように呼吸を止めて、ドリャーと抱きかかえて移動させることは普通に行われています。
若い頃は体力でなんとかなりますが、50歳を超えると慢性的な腰痛に悩まされて、職場を辞めるという人も出てきます。
めんどくさいことから、リフトやスライディング・シート、スライディング・ボードの使用はまだ一般的ではありません。
床走行式リフトや据え置き式リフトは高額なことから、なかなか導入されません。
デンマーク人にできて、日本人にできないはずはないはず。
介護者の持続可能性を考えると、こうした腰痛予防のための用具の導入はまったなしの状況です。

検討会を組織して、腰痛指針の見直しの検討をしてもらい、二〇一三年に職場の腰痛指針を改正し、記者発表に臨みました。

厚労省の記者クラブからは、資料の投げ込みではなく、労働衛生課の課長や担当者から直接説明が聞きたいとの要望がありました。
そこで、私と主任中央労働衛生専門官が出席して記者発表用資料をもとに説明をしました。
一番前で、腕を組んでいたある新聞記者が、まっ先に手を挙げました。
「この資料は、今の労働衛生課長の話を聞いてもさっぱり判らない。一言でいえば何が書かれているのですか?」
むっときましたが、言葉を飲み込んで、つくり笑顔で答えました。
「まあ、一言でいえば、福祉施設ではお姫様だっこ禁止、ということですかね」
もちろん、配布していた記者発表用資料に書いてあることを、再度、丁寧に説明しました。
翌日の新聞を見て、唖然としました!
あの質問をした記者の書いた新聞記事の見出しが、「お姫様だっこ禁止」だったのです。
yahooニュースのトップになって、批判的な意見がたくさん出ており、これは大変なことになった
と思いました。
最初は、「現場でお姫様だっこなんでやっていない。厚労省は馬鹿?」と炎上していました。
しかし、「実際の厚労省発表の資料をネットでみたらそんなことは書かれていない。内容もまとも。新聞が勝手にあおっている」と、途中から援護する意見が出てきたのです。
国会開催中でしたが、国会質問があることもなく、厚労省の局長や部長から叱られることもありませんでした。
新聞記事と実際の記者発表資料とを比較して、冷静に判断する人が沢山いて、助かりました。
ネットがないときは、新聞記事しか判断する材料がありませんでしたが、今では、こうした記事の評価ができるようになっています。
大きな進歩だと思います。

二〇二三年度から第一四次の労働災害防止計画(一四次防)が始められました。
労働災害防止計画とは、労働安全衛生法に基づき、五年ごとに大臣が策定する計画です。
一四次防の重点に「福祉施設の腰痛防止対策」が初めて掲げられ、社会福祉施設で取り組んでもらいたいことが示されたのです。
・身体の負担軽減のための介護技術や介護機器
スライディング・ボードやスライディング・シートの活用
・抱え上げない介護・看護での腰痛予防
ついに大臣の定める計画に載ったかと感動しました。
私にしてみれば、お姫様だっこ禁止報道から約一〇年ぶりのリベンジです。
一四次防の実施期間中に、普通にリフトが使われるように介護ワーカーの介護技術が進めばいいと思います。
是非、持続可能性のある「施設の老老介護」の実現を達成しましょう。
宮崎県の出先機関の廊下に貼られていたポスターです。
こ、これは厚労省も本気だと思いました!

