ダリルホールとジョンオーツもしくはアンパンマンと岩切章太郎が県北の地域医療を奏でる
宮崎大学医学部の5年生と未来の医療を語るオールみやざき交流会に参加しました。
宮崎県の河野知事と宮崎県医師会の河野会長が挨拶をされました。


乾杯の挨拶をしたのは、宮崎大学の鮫島学長です。
知事と医師会長のダブル河野のツートップは、各テーブルをまわって医学生と懇談をされました。

二人の医師の講演がありました。
宮崎大学出身の医師ではなく、自治医大を卒業して県立延岡病院に勤務しているドクターでした。
二人はスーツではなく、ポロシャツ姿で登場しました。
背中には、For Northern MIYAZAKI の文字がありました。

お二人の話は、まるでダリル・ホールとジョン・オーツのようでした。
「誰だよ?」と、突っ込まれる前に修正します。
アンパンマンと岩切章太郎です。
「ますますわからない」と言われる前に、まずはお二人の講演を紹介しますので、読んでいただければ幸いです。

松田先生の講演
県立延岡病院の総合診療科部長の松田です。
よろしくお願いします。
スライドは用意していませんが、お話をさせていただきます。
僕は医師になって30年です。
小さい頃は、田舎の山の中に住んでおりました。高校まで自転車で通ってました。
お医者さんになろうと思って、自治医科大学に行きました。
皆さん今5年生なので、私が5年生の頃何をしたのって言ったら、北海道を自転車で一周して帰ってきたり、千葉県を一周したり、琵琶湖を一周したりしました。
ちょうどバブルの頃で、グアム島2泊3日ツアーを低額のチケットで行ったりしていました。
そういう時代でした。
学生時代は結構楽しく、悩みもなく、ほとんど遊んで過ごしました。
ところが、1996年にお医者さんになって、県立宮崎病院に勤務しますと、あの頃って初期研修ってなかったんですよ。
1日目から一人前のお医者さんと一緒に扱われました。
それからはもう一生懸命やるしかないかなと思って、頑張ったつもりです。
病院の先輩の医師からは「お前、よく頑張ってるな」って言われました。
でも、同期の金丸先生の方がもっと頑張ってるって言われて、さらに頑張ろうと思った覚えがあります。
自分の専攻ですけど、初めは外科に行きました。
その頃の外科の先生って、何でもやるって感じでした。
僕はやっぱり田舎の方から出てきたので、地域のお医者さんになろうと思っていました。
地域で通用するなんでもやるようなお医者さんになろうと思ってやりました。
外科を4年間専門研修して振り返ってみると、自分があまり医学を理解していないことに気がつきました。
一生懸命やっているだけで、人がお亡くなりになるとか、その理由もわからなくなったり、医療っていうのがわからないとか、医学がわからないということで、しっかり勉強しようと宮崎大学の病理学教室に入りました。
山下教授のところで、5年間大学院に通いまがした。
ここで学んだ結果、今までの頭は筋肉だったことが、よく判りました。
医学というものはこんなに深いものなんだということ理解できて、非常に勉強になりました。

そして、学問としての医学を究めていこうかなと考えていたところで、池之上医学部長から誘われて地域医療学講座を立ち上げようということになりました。
これが今の伊東教授の地域医療・総合診療医学講座にまで発展したわけです。
総合診療科っていうのが、なかなかうまく伝わらなくて、いまだに自分は何科の医師なのかよくわからない事があります。
総合診療科って名前も、どちらかというと、皆さんが将来選択する専攻科にはなっていないかもしれない。
いわゆるアイデンティティが確立していない診療科かもしれないけど、一言でいえば、「地域医療」なんですね。
どの診療科でも地域医療をやるとは思いますが、地域医療は国際交流に似ています。
その地域に行ってみて初めて判る。
その地域にはいろんな問題があって、そこを改善して、評価をして、更に工夫してトライする。
実際に地域に行ってみないと判らない。
大学で学べる知識ではないんです。
これが地域医療の醍醐味だと思って、今もそれを続けています。

最後になりますけども、お医者さんがヒーローだとするならば、ウルトラマンじゃなくて、アンパンマンの方だと思います。
医学部のすごいお医者さんの方は、すごく難しい怪獣がやってきて、それをやっつけて、そしてやっぱりかっこいい。
でも、僕はそういうふうになれなかった。
アンパンパンの方だったと思います。
結局、いつも戦うのはバイキンマン。
お腹が減ったら自分の頭を差し出して、食べさせる。
傷ついたときはジャムおじさんのような地域のコミュニティの人々から助けられる。
そういうのが自分に合ってるなと思っていて、今も続けています
最後の最後に、皆さん、ぜひ人間的なお医者さんになってください。
自分が悪くなった時に、どんなお医者さんに診てほしいでしょうか。
例えば同級生の誰に、身の回りにいる人の誰に診てほしいかなって想像してみてください。
その人の顔が浮かぶと、多分、その人は自分が信頼を置いている人だと思います。
そういう信頼を置いてもらえる人間になっていくっていうのが、人間性のある、誠実なお医者さんだと思います。
そういうお医者さんがたくさん、この宮崎の地に溢れて来ることは、もうすぐだなと期待しております。
ご静聴ありがとうございました。

金丸先生の講演
県立延岡病院救命救急センター長の金丸です。
私は、スライドを作ってきました。
「自分が歩んできたキャリア」と、「皆さんが築く未来の医療」というのが、宮崎大学の澤口先生からの依頼でした。
これに応える形でつくってまいりました。
私は松田先生と同期で、医者30年目です。
これまでのキャリアをまず説明していこうと思います。
私は大宮高校出身です。
大宮高校の大先輩に岩切章太郎さんがいらっしゃって、「宮崎観光の父」と言われています。
理念として、「宮崎の大地に絵を描く」という言葉をよく使われていました。
実は、お会いしたことはありません。
私は、大宮高校を卒業して自治医科大学に行きますけども、ここで出会うんです。
自治医科大学の建学の精神です。
医療に恵まれない地域の医療を確保し、進んで地域の医療福祉に貢献する。気概のある医師を養成する。合わせて医学の進歩を図り、広く人類の人にも貢献する。

こうした建学の精神があって、この精神を込めた校歌の歌詞に「医療の谷間に火を残す」という言葉があります。
この宮崎の大地に絵を描くという言葉と医療の谷間に絵を描く、この2つのフレーズが私の人生に大きく影響しています。
大学を卒業しまして宮崎に戻ってきまして、県立宮崎病院で研修をしました。
その後、椎葉村,北浦町、西郷村など、こういった県北の医療機関で、最初は内科医として地域医療に従事します。
ただ、これらの地域は消防署がなくて救急車が来ないというところでした。
当時、消防署がないというところはですね、宮崎県内の県北に集まっていたというのが、私がお医者になった頃の宮崎です。
県立延岡病院にはまだ専属の救急医はいませんでした。
県立宮崎病院の研修が終わって、最初に椎葉村立国保病院に勤務しました。
その時は松田先生と一緒に椎葉に行きました。
椎葉病院からは、輸血をオーダーして届くまで3時間かかりました。
それから重症患者さんが出ましたという場合に搬送するにしても延岡まで一時間半、熊本まで2時間半、宮崎までは3時間かかるような状況でした。
ですので、このような状況で内科医として患者さんを救命することへの限界を感じました。
搬送時間が90分から2時間という間に、途中で息絶えてしまう人もいます。
血圧が下がる、輸血ができないから、もう脈も取れなくなるってなると、しょうがないから、椎葉病院にとって返そうから、そこで看取ろうかっていうような形で途中引き返したりしました。
自治医大の義務年限が終わってから、救急医療を学び直すことを決意して、2006年から日本医科大学千葉北総病院の救命救急センターに進みました。
ここは日本でもいち早くドクターヘリを導入した病院です。
映画「コードブルー」の撮影もここでありました。
私も出ています。
ここを率いていた益子先生は、世界的にも有名な外傷外科の先生です。
その先生が当時こんなことを言ってました。
20世紀は医師は病院で患者さんを待っている。
いわば「待ちの医療」の時代だったんです。
早く治療を始めたら、早く輸血をしたら、早く手術をしたら助けられる命があるわけです。
救急医療は時間との戦いですから、戦う技術を固めなきゃなりますよね。
それが「救命の医療」ということだと思います。
やっぱり時間との戦いというのは本当に体感していたんですね。
僻地で感じていた僕の益子先生が代弁してくれたように感じました。
千葉から時々宮崎に帰ってきてですね、研修会とか勉強会とか医療懇談会の中で、宮崎こそ「救命の医療」ですよ。ドクターヘリでやりましょうというふうに提案しました。
決まって帰ってくるのは「必要ないでしょう」、「ドラマの世界でしょう」、「そんな大きさの事故はないでしょう」という言葉。
さらに「宮崎県は貧乏でしょう。お金誰が出すんですか?」、「知事さんが出してくれるんですか?」と言われました。
また「お医者さんおらんでしょう」、「そもそもやってくれる病院なんてないでしょう」、「どこの県立病院がやるんですか?」っていうのがお決まりの文句でした。
そう言われ続けたので、私の心もすごくしぼんでしまって、心を折れることもありました。
しかし、5年越しの活動によって、2011年に宮崎にもドクターヘリを導入するということが決まりました。
私も宮崎大学附属病院の救急医学教室に入って、2012年に「フォア宮崎」のポロシャツを造りました。
これを考えたのは、実は松田先生です。
松田先生は背中にやっぱり背負った方がいいということで、「フォア宮崎」の文字は背中にあります。
ドクターヘリの運用が2012年に始まります。

私のキャリアですけれども、千葉北総病院で5年間ヘリに乗りました。
宮崎に帰って12年間ヘリに乗りました。
2つ合わせて1200件出動しました。
私の歩んできたキャリアを一言でまとめると、ドクターコトーのようなお医者から、コードブルーのようなお医者になったというふうにも、例えられてもいいかなと思います。
ここからは、皆さんが築く未来の医療ということについてお話ししたいと思います。
先ほど1998年、私が医師になってへき地に出た頃は無消防地区は13町村ありました。
現在宮崎には、4町村残っています。県北に固まっています。
県北の医療をなんとかしたいと思っています。
2022年、今から3年前ですが、宮崎県で医師不足が著しい県北に移動して、フォア宮崎からフォア県北のポロシャツを造りました。
今日は、それを着ています。
松田先生も着ております。
背中にこの文字をしょって、研修医も、クリクラの学生も背負ってもらって、仕事をしています。
患者さんの救命の限界を打開するために、松田先生と一緒に、県北の医療を立て直すことを目指しているところです。
まとめますと、「宮崎の大地に絵を描く」というフレーズと、「医療の谷間に灯をともす」というフレーズで、「フォア宮崎」という救命救急を立ち上げました。
今は、フォア・ノーザン宮崎をやっています。
できれば、ウェスタン宮崎だったり、サザン宮崎だったり、セントラル宮崎だったり、こういったものがどんどん波及していくといいなというふうに思っています。
医療の谷間に日をともすべく、宮崎の大地に医療の絵を描く、こういったことができる医者を育てていきたいと思っています。
私が伝えたい、皆さんが築く未来の医療は、以上です。

お二人の原点は、椎葉村立国民健康保険病院のある椎葉村です。
椎葉村は、宮崎の地域医療の原点であり、我が国の大規模アーチ式ダム、民俗学の発祥の地でもあります。
いちど、来てみてはいかがでしょう?
