林子平はシーパワーを提唱した先駆者で、紛争を予防する公衆衛生人である
人類の歴史は、公衆衛生の教訓に満ちています。
アテネとスパルタの間で行われたペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)は、古代ギリシャの世界を二分した大規模な紛争でした。
紀元前五世紀の初め、ギリシャ民族がつくったアテネ帝国は勢力の絶頂にありました。
紀元前462年には、「名君」と言われたペリクレスの統治が始まります。
紀元前431年、二大ギリシャ勢力であるアテネ対スパルタの戦いが始まりました。
アテネは強力な海軍国、一方のスパルタは武を尊ぶ陸軍国でした。
アテネは国土防衛線を敷きます。
難攻不落の城を造って、補給は海路から搬入しました。
アテネは、不利な陸軍戦に引き込まれたり、食料不足のための降伏する可能性はなく、陸上では防御に徹して海上で攻勢する作戦を展開すれば、敵国スパルタを容易に敗北させることは可能でした。
開戦後一年してアテネは、陸上と海上の作戦に成功しましたので戦争の成り行きは決したも同然でしたが、陸上における防御の用兵策がよくありませんでした。
城壁に囲まれた市内にアテネ軍をぎっしりと詰め込みすぎたのです。
籠城したアテネの街を感染症が襲い、人口の三分の一が失われてしまいました。
疾病が下火になった時、反撃のためにペリクレスは、強力な艦隊を出動させます。
出航するや否や艦内に疾病が猛烈な勢いで発生したため、アテネに引き返すことになりました。
そしてついに、古代屈指の政治家であったペリクレスもこの病気で落命し、アテネは降伏を余儀なくされました。

ギリシャの歴史家トウキュディデスが、この戦争について記述しています。
アテネは、籠城のために人口密度が高まって感染した。
疾病の被害が最も多かったのが、人口密度の高い地域で、また、感染率が高かったのが医師だった。
ある場所からある場所に疾病が伝わる可能性がある。
それは、感染者が病気を運び、別の人に感染させるからだ。
こうしたトウキュディデスの記述は、感染症が免疫のない人々に災害的な影響をもたらすことを記録した最古のものだといわれています。
集団発生した病気は、ペストと考えられていましたが、近年の研究では、天然痘か、発疹チフスか、エボラ出血熱とも言われており、よく判っていません。
この戦いの教訓から読み取れるのは、
①戦場における三密を避けよ、
②船は感染症に弱い、
の二つでしょうか。
スパルタ軍は、アテネ軍の城塞を包囲攻撃した際に、刺激作用のある窒息ガスを使いました。
この窒息ガスは、石油に硫黄、石灰または砒素化合物を混ぜて燃やしたときに出る刺激臭の強い亜硫酸ガスまたは亜砒酸ガスを含んだ火炎及び煙でした。
化学兵器が使用された最初の戦争だともいわれています。

浦部登さんの「霊園から見た近代日本」(弦書房)に、海洋国家と大陸国家の違いが書かれてあって、感心しました。
海洋国家と大陸国家の区別は地図では容易に判断がつかない、とありました。
液体の物質、例えば「酒」をどのようにして運送する習慣があるかを比較することで容易に見分けることができると指摘していました。
海洋国家は酒を樽に入れて運搬し、大陸国家は壺や革袋に入れて運ぶ傾向があるとのこと。
イギリスはフランスのワインを樽に入れて運ぶために海洋国家、清国(中国)の場合、南方は酒を壺や甕に入れて運び、北方の騎馬民族は革袋に入れて運ぶために大陸国家となります。
日本の場合は、灘の酒などは樽に入れて樽廻船で江戸に運んでいましたから、海洋国家と判断できるとのこと。
なるほど。
海洋国家民族は視点を世界に広げ、自国に資源は無くとも貿易によって国家経済を賄う傾向があると、浦部さんは指摘しています。
幕末期、西日本の諸藩が独自に軍艦を購入し、自藩で蒸気船を開発していったことは無意識のうちに海洋国家としてのシーパワーの必要性を実感していたからだと推測しています。

江戸時代の後期にシーパワーの重要性を指摘した人物がいます。
「海国兵談」の著者の林子平です。
1791年に完成した海国兵談で、「日本は四方を海に囲まれた海国」であり、「江戸の日本橋から海路でヨーロッパや中国に繋がっており、海は障壁ではなく、外敵が侵入してくる道である」と指摘しました。
従来の陸戦中心の軍学に対して、軍船の建造、砲術の訓練、海上で敵を食い止める「水戦」の重要性を説きました。現代の「制海権」です。
ロシアの南下政策をいち早く察知し、周辺諸国との地理関係を把握することが国家防衛の基本であると考えています。
幕府は「海国兵談」を発禁・絶版処分にし、子平は蟄居となりました。
蟄居となった林子平は、「親もなし、妻もなし、子もなし、版木なし、金もなし、死にたくもなし」と六無斎(ろくむさい)を名乗っています。
林子平の予言は、ペリー来航で現実化しました。
幕末の韮山代官の江川英龍や松下村塾の吉田松陰をはじめ、日本海軍の思想形成にも大きな影響を与えています。
日本が近代国家としてシーパワーを重視する国家戦略へと舵を切るための、精神的な礎となりました。
現在のホルムズ海峡の現状を見ると、シーパワーの重要性がよくわかると思います。
安倍晋三総理が提唱した「自由で開かれたインド洋太平洋」構想は、林子平の描いたシーパワーの延長線にあります。

林子平の兄は仙台藩の藩医で、子平は兄の家に同居していました。
子平は、個人の病を治す医師としての道は選ばすに、「国家の病(脆弱な海防や経済)」を治す経世家となりました。
長崎や蝦夷地へ自らの足で調査に赴き、ロシアの南下や欧米列強の影をいち早く察知したのです。
その危機感から生まれたのが、海国兵談です。
林子平は、安全保障の先駆者で、紛争を予防する公衆衛生人だと言っても過言ではないでしょう。
