明治2年の兵部省大輔の大村益次郎と明治22年の外務大臣大隈重信の遭難後の右足切断の経過の差は歴然としている
外科手術に石炭酸を使用することは、1867年(明治維新の前年)に、イギリスでリスターによって発表されました。
しかし、イギリス本国では、1875年頃までは、あまり広がりませんでした。
1870年~1871年のフランスとプロシア(ドイツ)で戦争がありました(普仏戦争)。
石炭酸消毒を採用したフランス軍では四肢切断手術後の死亡率が大幅に減少しましたが、採用しなかったプロシア軍では以前と同じように術後死亡が経験されました。
普仏戦争後のドイツ医学界では、ライフツィヒ大学、ハレ大学、ベルリン大学などの外科医が相次いで採用し始めました。
ドイツ軍の有名な軍医エスマルヒも採用しています。
ヨンケルは、普仏戦争時にはプロシア軍医の資格でライプツィヒ大学に所属していました。
プロシアの戦陣外科の苦い経験もあり、来日してから、石炭酸消毒法を日本での臨床に使用しました。
京都府立医大の元学長で、「維新京都医学の開花 カルテを作ったお雇い外国人ヨンケル」(京都大学出版会)の著者である藤田先生は、明治二年の兵部省大輔(事務次官)の大村益次郎と、明治22年の外務大臣大隈重信の遭難の経過を比較しています。
大村は明治2年9月4日、京都木屋町の長州藩控屋敷で食事中に八人の浪人に襲われ、刀で額や右足の膝など数カ所を骨膜に及ぶまで斬られました。
膝では靱帯が少々切断されましたが、自力で二階から下まで階段を駆け下りて避難し、風呂桶の中に隠れて難を逃れることができました。
その程度は動くことができたのです。
その後、駆けつけた蘭方医の前田松閤、大村達吉、新宮涼民の手当を受けましたが、止血だけが必要だった程度で、その場では「大事はない」と判断されました。
大坂でこの報告書をみたオランダ人医師ボードウィンと長崎の医学校の精得館以来の弟子で大坂仮医学校兼病院長の緒方惟準(緒方洪庵の次男)も、それほど重症でないと判断して、一旦は京都行きをとりやめました。
しかし、経過を観察していた三人の医師の診断では、膝の傷は内部で化膿して症状が悪くなる一方なので、大村達吉は再度の往診を強く要請しました。
ボードウィンと緒方が来て診て、大腿の切断が必要との判断が下されました。
大坂仮病院で手術をすることになりました。
大村は10月2日、担架に乗せられて四人の長州藩士に担がれて、大坂に向かいます。
このときの担架を担いだ兵士に、児玉源太郎と寺内正毅がいます。
高瀬川を下って伏見で一泊して翌日に大坂に到着しました。
大村のような高官は太政大臣の許可なしには手術ができない規則になっていました。
やっと太政官の許可が出たのは、10月27日です。
ようやく右大腿切断の手術が行われましたが、この間に膝の創傷は化膿・腐敗し甚だしい悪臭を放つようになり、敗血症が進んでいました。
大村益次郎の死亡は11月5日です。
国立病院法人大阪医療センターの横に大村益次郎の巨大な碑が建てられています。
藤田先生は指摘しています。
救急治療には何よりも臨機の医学的判断が大切で、かつて鳥羽伏見の戦いの際にウイリスが京都の相国寺の臨時軍病院で行ったように、畳敷きの一室であっても手術はできたはずなので、ここまで傷が悪化しそうなら、太政官許可のような事務手続きを待たず、医師の判断によって必要に応じて速やかに現場で大腿部切断を行うべきであった。
しかし、その前に、このような斬傷は初期の手当に石炭酸消毒を適切に行っておれば、ここまで悪化するはずのない外傷だった。
この事件で、終始石炭酸消毒法を利用できなかったのが致命的だったのだ。

明治22年、外務大臣大隈重信が馬車に乗って大臣官邸に帰る途中、暴漢に爆弾を投げつけられ、右足に重傷を負い右大腿を切断せざるを得なくなりました。
これは、大村益次郎の日本刀による外傷のような限局的で綺麗な傷ではなく、爆発の結果、「踝や膝の骨が微塵に砕け肉が掴み取られたようになっていた」のです。
右足全体が爆発物の破片や挫滅した骨片・肉片に汚染された状態であり、腐敗や化膿が大村の場合よりもはるかに強く起こってくることが予想されました。
リスクは格段に高かったのです。
しかし、実際の経過は違っていました。
この時点では、無菌手術の常道となってい石炭酸がふんだんに使われました。
石炭酸水に浸したガーゼのシップのみならず、傷口には二次的に石炭酸水の注入が行われました。
手術後に傷は軽度に化膿しましたが、大事にいたらず治癒しました。
このときに手術をしたのは、ヴィーン大学でビルロートの薫陶を受けた佐藤進でした。麻酔はベルツが担当しました。
緒方惟準は、大隈重信の経過の報告を聞き、大村益次郎のケースを思い出しました。
大村益次郎は、若い頃は緒方洪庵の適塾に学び、適塾の塾長もしていました。
洪庵の息子の幼い惟準のお守りもしながら一緒に暮らしたことがありました。
明治二年に治療を任された大村益次郎の場合との劇的な違いを痛感し、「これ専らわが医術の進歩せし功徳の預かって力ある為にあらずして何ぞや」と賛嘆したと伝えられています。
藤田先生は言っております。
石炭酸による消毒法の威力を彼(緒方)ほど痛感した人はいなかったであろう。
もし、ヨンケルの来日が三年早く実現していて、手術に彼の経験が生かされ、京都で石炭酸消毒が応用されていたら、大村益次郎の悲劇も防止できたに違いないのである。
ヨンケルは、当時、外科学においても、最重要な二大発明、全身麻酔と消毒・滅菌法をリードする、世界の最先頭集団の中を走っていたのである。

佐賀市にある大隈重信侯記念館には、大隈重信の義足が展示されています。
生き延びた大隈は、早稲田大学を創設し、総理大臣にもなりました。
大村益次郎が敗血症で死なず、生きておれば、歴史は変わっていたと思います。
山口県の鋳銭司にある大村神社は、大村益次郎をまつった神社です。
靖国神社にも碑があります。これほど碑がある人もいないのではないかと思いました。
