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書く仕事、メサイアコンプレックス、偽善…

ちょうど20年前の今頃、初めて勤めた職場を辞めたのだった。

小さな新聞を作る会社で、記者をしたり校正をしたり紙面を割り付けたりしていて、辞めたのは入社から6年目だった。

大学4年の途中からアルバイトで入った。
初年は、本当に楽しかった。
まずは印刷所での校正。自分で赤を入れた箇所が印刷されて新聞になるのが嬉しかった。

続いて育児コラムの担当になった。書いてくれる先生の原稿をチェックし、少し文に手を入れて校正し、割り付け。

だんだん仕事は増え、会議に出て取材に出て記事を書いて割り付けて。
主に若者に関係する記事だった。いろいろ任せてもらえて、とてもやりがいがあった。

徹夜しても終電でも気にならなかった。
残業になれば、コンビニや親子丼で有名なチェーン店に、買い出しに行ったりした。

そのうち、社会的な問題にかかわる先輩について回るようになると、私はやりがいだけではない思いを抱くようになった。

先輩は、大きな正義感をもって仕事していたけれど、「正義」は、一歩間違うと別の対象を深く傷つける。

また、小さき者弱き者が声を上げ始めると、大きな声になって、今度は争いのような状況を生み出してしまうこともある。

けれど、「社会的に弱くされた存在」には、伴走者と、一緒に闘う人間、声を共に上げてくれる存在が必要だ。

その中にあって、記者は何を伝えるべきか、軸足がないととてもつらいものだった。

デモなどに一緒に歩いて話をすると、大手新聞の記者が、やはり「会社の正義」と「自分の正義」に挟まれて、書きたいことも書けず、場合によっては辞めざるを得ない状態になるのは珍しいことではないようだった。

私にとって一番大きな出来事は2001年、熊本地検で出た「らい予防法」が違憲との判決と、国への賠償請求。

私はなぜかハンセン病について、なにかしなければとずっと思っていた。
幼少期からカトリックであったので、聖書にしばしば出てくる「らい病」(のちに重い皮膚病と書き換えられた)や解説にある「ハンセン病」の語句が気になっていた。

社会から邪険にされたり気味悪がられたりする病の人の、そばにいる人でありたい(というより、そうでなければいけない、というような観念)と考えていた。

だから、ハンセン病の回復した方々がいまも住む「東京多磨全生園」に取材に行くことになったとき、ついにそのときがきたと、少し意気込んだ。

決して事実から目を背けてはいけないのだと。

全生園の方々は、おじいさんおばあさんであったけれど、みなさんとても優しくて、話をさせてもらえるばかりでなく、いつも食べかけであってもお菓子や果物をたくさんおみやげに持たせてくれた。

そのころ、こんな話を聞いた。

「元ハンセン病患者の方は、顔や指がケロイドのようになっていたりする。それを見て、昔は触ったり近づいたら伝染るとして、避ける人が多かった。弱毒でうつらないと分かっても、気味悪がって握手を避けられたりして傷ついてきた。だから率先して目を合わせて話し、体に触れてくださいね」

実際、そういうふうにすると、皆さんとても喜ばれ、心をひらいてくださった。

「かわいそうな、憐れむべき人」

全生園に通う間も、私の中に、その思いはずっとあった。
だからどこか後ろめたかった。

記者として対峙できるが、友達にはなれない、と。

あとから思えば、おこがましく、とても狭く小さな心であった。

ハンセン病文学と言えば北條民雄さんが有名だけれど、その文章を読んだとき、私はとんだ思い違いをしていることに気づいた。

助けてあげる人、憐れむべき人ではない。

たまたま病気が感染し、隔離されてしまったに過ぎない、普通の人々、つまり、普段の生活で出会う、性格の明るい人、文章の上手な人、おちゃめな人、静かな人、そればかりでない、そこにあそこにいる、市井の人々なのだ。
喧嘩っ早い人もいれば、平和主義者もいる。モテる人、人とのかかわりを苦手とする人、本当にいろいろ。

その「市井の人々」を、病気だという理由だけで、弱毒性が明らかになったあとにもなお隔離政策をつづけた日本政府や、それに乗ってしまった私も含めた国民感情に憤らなければならなかったのだ。

―それはいまも続く普遍的で地続きな問題でもある。

なのに、私は「ハンセン病の元患者さん」と、ひとくくりにしてしまっていた。

ここに大きな間違いがあった。

そのことに、当時は気づかなかった。

このようなことはほかにもあった。
ホームレスの問題にかかわり、支援者とかかわる中で、やはりまた首をもたげてきた。

「ホームレスの人は、お腹も空いてかわいそう。つらい過去のある人なのではないか。傷つけたりうえから目線にならないように気をつけないと」

ホームレスの人も、それぞれ。
若い人も老いた人も、怒りっぽい人も本好きで穏やかな人も、お酒の好きな人も嫌いな人も、動物が好きな人も嫌いな人も。
賭け事が好きで、有り金をすぐ使ってしまう人、家族が大好きだったけどもう会えない人。

共通しているのは、さだまった宿がないということだけ。

いろいろな人がいるのに、はじめから私は「かわいそうな人、寄り添うべき憐れむ人」と見てはいなかったか。

「いい人」なふりをして、炊き出ししたり、日用品を配るパトロールをしたり。

いい加減、自分の「偽善ぶり」がつらくなって、悩みながら参加していた。

支援者の方は「偽善でもなんでも、まずは目の前のやることやればいい」と言ってくれて、宙ぶらりんなまま、答えが出るまで続けようと考えていた。

そんなある日、「メサイアコンプレックス」という言葉を知った。

ウィキペディアによると、

 広義には基底にある自尊心の低さを他者を助けることからくる自己有用感で補償する人々をも含める。

とのこと。

なんだか腑に落ちてしまった。
私の関わり方は、メサイアコンプレックスそのものであった。

そしてその関わりは、おそらく差別心からくるものであった。差別すまいとの思いが、かえって差別することにつながる。

別記事でも書いたこととも重なるけれど、私はいまだこの根っこを持ち続けている。

引っ越したことで、仕事の傍らかかわっていた、ホームレスの人にパトロールや廉価な弁当を売っていたボランティア活動からは身を引くことになったのだけど、いまだともう少し違うかかわりができるように思う。


物事は、いろいろな方面から眺める必要がある。
1つの問題をあっちからこっちから、立場や見方を変えてかかわると、自分の身が裂かれるような心持ちがするようになってきた。

ペンは剣より強しというけれど、私のペンが誰かを傷つける可能性もある。ペンは怖い。


そんな折、就職から4年目、結婚から1年目、流産した。
私にはとても大きな出来事であった。

まだ12週くらいの小さな命だった。
それでも愛おしかった。
ある朝、その愛おしかったいのちが、ものすごい痛みとともに身体から抜け落ちてしまったのだった。

職場の人がみなで、私と赤ちゃんのために時間を作ってくれた。静かに黙とうのように、時間を過ごしてくれたのだ。
当時の上司が、そうするべきだと言った。

ありがたかった。

私はそのとき初めて、自分が喪失感をもっていることに気づいた。

その2年後、次の子の産前休暇に合わせて、会社を辞めた。

育休制度も整っていたし、辞める必要はないと、女性の活躍などをテーマに取り組んできた大先輩の女性が引き留めてくれた。
せっかく私たちの世代が切り開いてきたのに!と。

でも、私には1つの物事が見る方向によって全く違って見えること、それを伝える仕事に、限界を感じてしまったのだ。

まだ癒えない喪失感も、背中を押した。
「書くこと」は自分を削り、苦しかった。

辞めた後はずっと育児に追われた。

その中には、記者時代には知り得なかった多くの出来事が「自分事」として、あった。


「書くこと」は苦しい。けれど、校正なら昔取った杵柄、時代はWEB記事で勝手は違うものの、できるのではないか、と思ったのが去年の春。

大手某副業紹介サイトで出会った2つの会社にいまお世話になり、本職と別に校正仕事に携わっている。

ライターさんは皆さん優秀で、時々AIにすべて書かせたのでは?という記事にも出会うけれど、丁寧な記事は読んでいてもためになり、知らなかった新しいことを一番に読める楽しさもある。

書く仕事から離れ、その後介護と経理の2つの仕事に就き、子どもを育ててきた20年。
まだまだ「書く仕事」をやろうとは思わないけれど、少しだけ、怖くはなくなった気がしている。

校正の仕事にしても、noteなどブログにしても、少しずつでも「文章」には携わり続けたいなと、いまは思っているところ。

自分の経験や体験で、無駄だったことや不要だったことは一つもないのだなと、つくづく身にしみているし、こればかりは自信を持って人に伝えられるなぁと実感している。

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