「カードを捨てずに外へ出た会社:Mastercardが決済ネットワークを信頼APIに変えた日」(DX決断録 66/100)
2016年、Mastercardは奇妙なものを買いに行った。
クレジットカードの会社が、英国の口座間決済インフラに手を伸ばしたのである。BACS、Faster Payments、LINK。そこを流れているのは、カード決済ではない。給与、請求、公共料金、ATM、銀行口座同士の資金移動だった。
なぜカード会社が、カードを通らない未来に金を払ったのか。この問いを解かないと、MastercardのDXは見えてこない。Mastercardはカードを発行しない。利用者へ与信しない。カード会員の金利も決めない。同社が本当に売ってきたのは、支払いが成立してよいと誰かが信じられる状態である。2016年、Mastercardはその能力をAPIとして外へ出し、同時にカードの外にある決済レールまで買いに行った。

Abstract
MastercardのDXは「カード会社がAPIを公開した話」ではない。読みどころは、弱い会社の再建ではなく、強い会社がもっとも合理的な防衛を少し壊した点にある。カードネットワークは高収益で、守るだけでも十分に大きい。それでもMastercardは、閉じたネットワークの中にあった認証、トークン化、詐欺検知、データ、清算、ルール設計を、外部から使える能力へ分解した。
分岐点は2016年だった。MastercardはMastercard Developersを再起動し、payments、data、security領域のAPIにアクセスできるsingle gatewayを作った。同時期の開発者向け報道では、Mastercard Developersの利用量が過去1年で400%増えたと説明されている。ただし、この数字は10-Kで継続開示される一次KPIではないため、本文では接続需要の増加を示す補助材料として扱う。
同じ年、もっと大きな違和感が起きる。Mastercardは英国の口座間決済基盤を担うVocaLink Holdings Limitedの支配持分取得を発表した。カードの処理会社が、カードではないBACS、Faster Payments、LINKの世界へ入ったのである。これは「カードの成長を伸ばす投資」ではなく、「カードが通らない場所にも自社の役割を作る投資」だった。
その後、MastercardはNuData、RiskRecon、Finicity、Aiiaを通じて、行動認証、サイバー、open banking、消費者許諾データ接続を取り込んだ。決済の前に本人を確かめる。決済の瞬間に安全性を判断する。決済の後に不正や紛争を処理する。こうして2025年にはnet revenue 327.91億ドルのうち、value-added services and solutionsが133.15億ドルまで伸びた。2026年Q1でもnet revenueは84億ドル、前年比16%増、value-added services and solutionsは22%増である。
だが、この物語は成功譚だけでは終わらない。UPIやPixのような公的・国内即時決済レールは、カードがなくても大量の決済が動くことを示した。英国PSRやEU調査は、Visa/Mastercard二強の料金とルール運用を監視している。Agent PayやBVNK買収合意は、AIエージェントとstablecoinの時代にも信頼層を握るための布石だが、成果も取引完了もまだ未確定である。
Mastercardが選んだのは、カードを捨てることではなかった。カードで培った信頼を、カードの外でも売れる部品へ分解することだった。
1. Mastercardは、カードを発行していない
Mastercardという名前は、少し人をだます。
多くの人は、Mastercardを「クレジットカード会社」だと思っている。もちろん間違いではない。カードブランドであり、世界中のカード決済に関わる。財布の中にも、スマートフォンのウォレットにも、あの赤と黄色のロゴは出てくる。
だが、同社の10-Kを読むと、すぐに別の顔が見えてくる。
Mastercardはカードを発行しない。カード会員へ与信しない。発行会社がカード会員に課す金利やその他手数料を決めず、それらから収益を得ない。発行会社、加盟店、アクワイアラ、カード保有者をつなぐネットワークを運営し、その上で処理、認証、清算、セキュリティ、データ、関連サービスを提供する。
つまりMastercardの本体は、カードそのものではない。
本体は、決済ネットワークを信頼できる状態で動かし続ける能力である。誰が参加してよいのか。どの取引を通してよいのか。本人は本当に本人なのか。不正が起きたら誰が責任を持つのか。情報はどのルールで渡されるのか。表から見えないこれらの判断が止まると、カードはただのプラスチックになる。
この違いは重要だ。もしMastercardがカード発行会社なら、DXの中心はアプリ、ポイント、与信審査、顧客接点になる。だがMastercardは違う。同社の顧客は、発行会社、アクワイアラ、加盟店、政府、フィンテック、テクノロジー企業である。消費者に見えるロゴの背後で、同社はルールと接続を売っている。
2016年のForm 10-Kで、Mastercardは自社を「global payments industryのtechnology company」と定義していた。この一文が、後のDXを理解する鍵になる。カード会社がテック企業になったのではない。もともとネットワーク運営の会社が、自分たちの中核を「カード」ではなく「技術と信頼の接続」として言い直したのである。
では、何を変えたのか。
Mastercardは、ネットワークの中に閉じていた能力を外に出した。
2. 高収益だからこそ、外へ出る理由が見えにくい
Mastercardの難しさは、危機企業の再建とは違う。
同社は弱かったから変わったのではない。むしろ強かった。カードネットワークは、発行会社、加盟店、アクワイアラ、消費者が増えるほど強くなる。取引量が増えれば、データが増え、データが増えれば不正検知と認証が強くなり、安心感が増せばまた取引が増える。
こういう事業は、簡単には壊したくない。
高収益なネットワークを持つ会社にとって、最も合理的な選択は防衛である。カード利用を増やす。加盟店網を広げる。発行会社との契約を強める。ブランドを守る。規制対応を行う。これだけでも十分に大きな仕事であり、利益も出る。
むしろ、外へ出る方が危ない。自分たちだけが持っていた機能をAPIにすれば、価格で比較される。カード外レールに踏み込めば、カードより重い公共性と監督を背負う。open bankingに近づけば、口座データと口座間送金がカードの中心性を弱めるかもしれない。
だから、カードの外へ出る判断は、見た目ほど自然ではない。
口座間即時決済、open banking、フィンテック、政府主導の決済基盤、モバイルウォレット。これらは、カードネットワークから見れば脅威にもなる。カードを通らない決済が増えれば、カードのネットワーク手数料は減るかもしれない。消費者と加盟店の接点をウォレット企業が握れば、ブランドは見えにくくなる。政府や中央銀行が即時決済レールを整備すれば、民間ブランドの役割は狭まる。
このとき、Mastercardには3つの道があった。
一つ目は、カードに集中する道である。既存の高収益モデルを守り、カード外レールを競合として扱う。もっとも分かりやすく、投資家にも説明しやすい。
二つ目は、消費者向けアプリやウォレットへ直接出る道である。顧客接点を自分で握りに行く。ただし、これは既存の銀行顧客や加盟店パートナーとの関係を壊しかねない。Mastercardは中立のネットワークでいるから強い。自分が表に出すぎれば、その中立性が傷つく。
三つ目が、Mastercardが選んだ道だった。カードネットワークで培った信頼、認証、トークン化、詐欺検知、清算、データの能力を、カードの外でも使える部品に変える。消費者の財布を直接奪いに行くのではない。カード外レールを外から叩くだけでもない。どのレールにも必要になる「通してよいかを判断する層」へ、自社の居場所を移す。
機能は開く。だが、ルールとガバナンスは手放さない。
これが、MastercardのDXの芯である。
3. 2016年、信頼をAPIにした
2016年、Mastercardは最初に入口を変えた。
Mastercard Developersの再起動である。
10-Kには、この施策がかなりはっきり書かれている。Mastercard Developersは、開発者、デジタル企業、金融機関、加盟店、パートナーが、payments、data、security領域にまたがるAPIへアクセスし、Mastercardの技術を統合できるsingle gatewayだと説明されている。
この「single gateway」という言葉は軽くない。
従来、巨大な決済ネットワークの機能は、個別契約、個別接続、個別案件の奥に埋もれやすい。大手銀行や大手加盟店なら個別に接続できるかもしれない。しかし、フィンテック、開発者、新しいユースケース、政府のデジタル施策、越境サービスが増えるほど、個別連携では速度が出ない。
Mastercard Developersは、その内部能力をプロダクト化する動きだった。営業担当者と個別契約の奥にあったものを、外部の開発者が組み込める部品として並べ直したのである。
同時期の開発者向け報道でAPIとして外へ出した代表例は、Masterpass、Mastercard Digital Enablement Service、Mastercard Send、Market Insights、Fraud Scoring for Merchants、MATCH、Assurance IQなどだった。加えて、2016年の10-Kには、Decision IntelligenceやIdentity Checkも安全・認証領域の施策として並んでいる。
つまり、Mastercardが外に出そうとしたのは「決済ボタン」だけではない。決済を安全に成立させるための部品群だった。
当時の開発者向け報道では、Mastercard Developersの利用量が過去1年で400%増えたと説明されている。ただし、この数字は10-Kで継続開示される一次KPIではない。だから本文では、成果KPIではなく、接続需要の増加を示す補助材料として扱う。それでも、同時期に会社がAPI利用の急増を語っていたことは、この施策が単なる広報ではなく、接続需要に応えていたことを示している。
ただし、API化には危険もある。
閉じたネットワークの強みを外へ出せば、安売りになるかもしれない。開発者が便利に使えるということは、差別化が薄まるということでもある。外部から見れば、APIは比較される。価格、仕様、開発体験、速度で選ばれる。内部にあれば守れた機能が、外へ出た瞬間に競争にさらされる。
だから、ここでの決断は「公開するか、隠すか」ではなかった。
どこまで開き、どこを絶対に閉じておくかだった。
ここでMastercardが非凡だったのは、すべてを開いたわけではない点だ。
機能は開いた。だが、信頼の統治は閉じた。
トークン化のルール、ネットワークの標準、参加者の責任分担、セキュリティ、紛争処理、ブランドの信用。これらは単なるAPI仕様書ではない。Mastercardが何十年もかけて築いたフランチャイズである。API公開は、そのフランチャイズを崩すためではなく、外部が使える入口へ変えるための判断だった。
しかし、APIだけでは足りない。
カードの外へ出るには、別のレールそのものが必要だった。
4. VocaLink支配持分取得。カード会社が、カードではない血管を買った
2016年7月、MastercardはVocaLink Holdings Limitedの92.4%の支配持分を取得する正式契約を発表した。
初期対価は約7億ポンド。条件を満たせば、最大1.69億ポンドの追加支払いがある。既存株主は少なくとも3年間、残り7.6%を保有する条件だった。ここはよく単純化されやすいが、公式発表に合わせるなら「92.4%の支配持分を約7億ポンドプラス条件付き対価で取得」と見るのが正確である。
VocaLinkは、英国の重要な決済基盤を運営していた。BACS、Faster Payments、LINK。つまり、BACSとFaster Paymentsの口座間決済、そしてLINKのATMネットワークの世界である。2015年には110億件超の取引を処理していた。
これは、カード決済とは違う。
カードネットワークは、発行会社、加盟店、アクワイアラ、カード保有者をつなぐ。VocaLinkの世界は、銀行口座同士、国内決済基盤、清算、公共性、可用性の世界である。止まれば、買い物が不便になるだけではない。給与、請求、公共料金、企業間支払い、ATMが影響を受ける。
だから、この買収は単なる隣接事業の拡張ではない。カード会社が、カードを通らない資金移動の血管に手を入れた出来事だった。
Mastercardの公式発表は、この買収を「traditional person-to-merchant cards business」と「clearing business」の最初の本格的な組み合わせと表現した。
ここに決断の重さがある。
Mastercardは、カード外レールを単に脅威として見なかった。カードではない決済の流れにも、自社の役割を作りに行った。Ajay Bangaは、VocaLinkの技術、資産、人材に投資し、それを英国だけでなく世界の製品とソリューションに埋め込む意義を語っている。
見方を変えると、Mastercardはここで未来への保険を買った。もし支払いがカードから口座間へ寄っていくなら、カードの横で眺めているだけでは遅い。カード外レールの中にも、清算、可用性、認証、標準、データ連携が必要になる。ならば、そこに早く入る。
ただし、この買収はきれいな成長物語だけではない。
VocaLinkのようなインフラを持つことは、規制と運用の重さを抱えることでもある。2025年の10-Kでも、Mastercardはreal-time account-based paymentsの運用リスクを明記している。英国ではVocaLinkが指定サービスプロバイダーとして監督対象になり、長時間停止すればBank of Englandの介入や評判リスクにつながりうる。
カードネットワークの会社が、違う稼働要件、違う監督、違う障害許容度を持つ世界へ入る。
これが、2016年の本当の難しさだった。
カードを守るだけなら、ここまで踏み込む必要はない。だがMastercardは、決済の未来を「カードだけ」と見ていなかった。カード外のレールが伸びるなら、そのレールにも信頼、認証、清算、データ、標準が必要になる。そこに入る方が、長期的には強い。
ただし、レールを持つだけではまだ足りない。
支払いは、送金ボタンを押す前から始まっている。
5. 決済の前と後を包囲する
決済は、ボタンを押した瞬間だけで成立しているわけではない。
その前に、本人確認がある。口座確認がある。与信判断がある。詐欺検知がある。加盟店や相手先のリスク評価がある。支払い後には、紛争処理、不正監視、サイバー防御、データ分析がある。
Mastercardは、この前後を買い足していった。
この章を買収リストとして読むと、少し退屈になる。NuData、RiskRecon、Finicity、Aiia。それぞれ名前も領域も違う。だが、決済の地図に置くと一本の線になる。
Mastercardは「お金が動く瞬間」だけでなく、「その取引を通してよいか」を判断する材料を取りに行ったのである。
2017年のNuDataは、行動生体認証やデバイス分析で、不正なログインや不自然な行動を見抜く領域である。これは、支払いの前に「この人は本当に本人か」を見る能力に近い。
2019年12月に買収合意を発表したRiskReconは、企業のサイバーリスク姿勢を評価する領域である。これは、支払い相手や加盟店のデジタル環境が信頼できるかを見る能力に近い。カード決済の処理そのものではない。だが、決済ネットワークが信頼されるためには、加盟店、取引先、デジタル環境全体の安全性が効いてくる。
2020年のFinicity買収は、さらに重要だった。
Michael Miebachは、open bankingを成長するグローバルトレンドであり、Mastercardにとって戦略的に重要な領域だと語った。open bankingは、消費者が許諾した口座データを使い、信用判断、資金管理、デジタルウォレット、支払いサービスを作る動きである。
これはカードネットワークにとって、脅威でもある。
口座データと口座間送金が強くなれば、カードを通さない支払いが増えるかもしれない。だがMastercardは、それを外から眺めるのではなく、自分の信頼ネットワークへ取り込む方を選んだ。
2021年のAiia買収も同じである。Aiiaは欧州のopen banking基盤で、銀行へ単一APIで接続する。Craig Vosburgは、open bankingの価値は、消費者と企業が自分のデータを使い、より簡単、安全、迅速に金融サービスを得られるようにすることだと語った。
ここでMastercardの役割は、カード取引を処理することから、金融データの安全な接続を支えることへ広がる。
この拡張を「周辺事業」と呼ぶと、少し薄い。
むしろ、Mastercardは決済の前後にある信頼判断を商品化している。行動認証、サイバー評価、口座データ接続、open finance、データインサイト、トークン化。これらは、すべて同じ問いに答えている。
この相手は、本当にその人か。
この取引は、安全か。
このデータ利用は、許諾されているか。
この相手先は、信頼できるか。
この支払いは、どのルールで守られるか。
つまりMastercardのDXは、カード処理のDXではない。信頼判断のDXである。
6. 「付加価値」が、第二の柱になった
DXは、最終的には財務に現れなければならない。
Mastercardの場合、その現れ方がかなりはっきりしている。2025年のForm 10-Kでは、同社のnet revenueは327.91億ドルだった。内訳は、payment networkが194.76億ドル、value-added services and solutionsが133.15億ドルである。
後者の中には、security solutions、consumer acquisition and engagement、business and market insights、digital and authentication、processing and gateway、ACH batch and real-time account-based payments、open financeが含まれる。
この分類が重要だ。
Mastercardの収益は、もはや「カード取引量に応じたネットワーク収益」だけでは説明できない。もちろんpayment networkは大きい。2026年Q1時点で、Mastercard / Maestroブランドカードは37億枚ある。カードは消えていない。むしろ中核であり続けている。
だが、value-added services and solutionsが133.15億ドルまで伸びたという事実は、Mastercardがカードの上に重ねるサービス、あるいはカード外レールにも売れる信頼層を、財務上の柱にしつつあることを示している。
ここで面白いのは、名前の地味さである。「付加価値」と呼ばれているものが、実際には第二の柱になっている。企業変革では、こういうことがよく起きる。最初は本業を助ける周辺機能に見えるものが、時間をかけて収益構造そのものを変える。
2026年4月30日に公表されたQ1 2026でも、この傾向は続いている。net revenueは84億ドル、前年比16%増。value-added services and solutionsは前年比22%増だった。Michael Miebachは、同社がdiversified、future-readyであり、Agent Payと、完了前のBVNK買収合意を通じて、次のデジタル決済成長を取りに行くと語っている。
この言葉は、決算向けの定型句に見えるかもしれない。
しかし、数字と並べると意味が変わる。Mastercardは、payment networkだけでなく、value-added servicesを伸ばしている。カードの外に行くほど、むしろMastercardの売るものが増える構造を作ろうとしている。
ここに、API公開とVocaLink支配持分取得の回収がある。
2016年の時点では、Mastercard DevelopersもVocaLinkも、単発の施策に見えたかもしれない。だが10年後に見ると、それらは同じ方向を向いていた。ネットワーク内部の機能を外部に使わせる。カード外レールにも信頼層を載せる。決済前後のデータ、セキュリティ、認証を商品にする。
つまり、Mastercardはカードを守るためにカード外へ出た。
ただし、ここで物語を終えると甘い。
Mastercardの堀は深い。だが、過去と同じ種類の堀ではなくなっている。
7. 反対側:カードがなくても決済は動く
Mastercardの戦略には、明確な脆さがある。
第一に、規制である。VisaとMastercardは、カードネットワークの二強として長く監視されてきた。英国PSRは、scheme and processing feesをめぐる競争上の懸念を示している。EUでも料金や市場支配力をめぐる調査が続く。強いネットワークは、強いほど規制対象になる。信頼を売る会社は、同時に「強すぎる門番」と見られる。
第二に、公的・国内レールである。インドのUPI、ブラジルのPix、各国の即時決済基盤。これらは、カードブランドを経由しない大規模な口座間・即時決済が成立することを示している。中国でも国内主導の決済ネットワークは強いが、UnionPayはカードブランドでもあるため、UPIやPixとは別の文脈で見る必要がある。
カード利用が伸びる市場では、Mastercardは強い。だが決済全体がA2Aや公的即時決済へ広がるなら、カードの成長だけに頼ることはできない。VocaLink買収の裏には、この怖さがある。カードが強いうちに、カードではないレールにも居場所を作らなければならない。
第三に、運用リスクである。VocaLinkのようなリアルタイム口座間決済インフラは、止められない。障害が起きれば、消費者の買い物だけでなく、企業や政府の資金移動にも影響する。Mastercard自身も10-Kで、real-time account-based paymentsにはカードネットワークとは異なる情報セキュリティ脆弱性、運用難度、規制監督があると認めている。
第四に、コモディティ化である。APIは便利だが、比較される。open bankingも、規制で義務化されれば、接続そのものは差別化しにくくなる。サイバーや認証も、競合が増える。Mastercardが高い価格を維持できるかは、単なる技術ではなく、ネットワークの信用、ルール、分配チャネル、データ、ブランドを束ねられるかにかかっている。
だから、Mastercardの未来は「カードが残るかどうか」では決まらない。
決済手段が変わっても、Mastercardの信頼層が必要とされるかで決まる。
UPIやPixが強くなっても、そこに越境、認証、不正対策、企業間支払い、データ連携、紛争処理、標準化が必要なら、Mastercardには入り込む余地がある。逆に、公的レールや大手プラットフォームがそれらを自前化すれば、Mastercardの余地は狭まる。
この緊張があるから、Agent PayとBVNK買収合意が単なる新規事業ニュースではなくなる。
8. AIエージェントとstablecoinにも、同じ信頼を売る
2025年4月、MastercardはAgent Payを発表した。
これは、agentic AIが消費者や企業の代わりに商品を探し、選び、購入する時代に向けた決済技術である。MastercardはAgentic Tokensを導入し、AIエージェントが関与する取引を、消費者、加盟店、発行会社が認識できるようにする。認証、透明性、消費者制御、紛争対応を組み込む構想である。
ここでも、Mastercardが売ろうとしているのは支払いボタンだけではない。
AIエージェントが買い物をする時代には、むしろ不安が増える。
誰が買ったのか。本人は許可したのか。エージェントは本物か。加盟店はそれをどう識別するのか。発行会社は通常のカード不正とどう見分けるのか。消費者はどこまで制御できるのか。後で争いになったら、誰が責任を持つのか。
Mastercardは、この不安に対して「信頼されたAIエージェント」「トークン」「認証」「可視性」「ルール」を出そうとしている。これは2016年のAPI公開と同じ思想の延長である。新しい技術が現れたとき、Mastercardはその技術そのものを作る会社ではなく、その技術が経済取引に入るための信頼層を作る会社として振る舞う。
カードの時代には、カード保有者、発行会社、加盟店、アクワイアラをつないだ。AIエージェントの時代には、人間、エージェント、加盟店、発行会社をつなぐ必要がある。登場人物は変わる。だが「誰を信用して、どの取引を通すか」という問いは残る。
2026年3月のBVNK買収合意の発表も同じ線上にある。
BVNKはstablecoinインフラの会社であり、MastercardはBVNKを最大18億ドルで買収する正式契約を発表した。このうち3億ドルは条件付き支払いである。狙いは、法定通貨レールとstablecoin、tokenized deposits、tokenized assetsの相互運用である。取引完了は2026年内見込みだが、規制審査等が条件である。Jorn Lambertは、on-chain railsをネットワークに加えることで、ほぼあらゆる取引に速度とプログラマビリティを支えられると語った。
ここでもMastercardは、stablecoinをカードの敵としてだけ見ていない。
stablecoinが伸びるなら、その接続、コンプライアンス、相互運用、認証、資金移動の安全性が必要になる。Mastercardはそこへ自分の役割を作りに行く。
ここで繰り返されているのは、VocaLinkのときと同じ動きである。自分たちの中核を脅かすように見えるレールが出てきたら、外から否定するのではなく、そのレールが商取引に使われるための信頼層へ入り込む。
もちろん、Agent PayもBVNK買収合意も未証明である。AIエージェントによる購買がどこまで普及するか、stablecoin決済がどこまで既存レールを置き換えるか、規制がどう整うか、BVNKの取引が予定通り完了するかはまだ分からない。本文で「成功した」とは言えない。
だが、意思決定としては一貫している。
カード、A2A、open banking、AI agent、stablecoin。どのレールが伸びても、Mastercardはそこに信頼、認証、トークン化、データ、ルール、相互運用を売りたい。
カードを捨てたのではない。
カードで培った信頼を、カードが届かない場所へ持って行っている。
9. 教訓と未来への示唆:既存事業の外でも売れる能力へ分解せよ
Mastercardから学べる教訓は、決済業界だけの話ではない。
高収益な既存事業を持つ企業ほど、変革が難しい。弱い企業は変わらざるを得ない。だが強い企業には、防衛する合理性がある。いま儲かっている。顧客がいる。ブランドがある。規制対応も済んでいる。だから、外へ出る理由が見えにくい。
Mastercardの答えは、既存事業を捨てることではなかった。
既存事業の中核能力を、外でも売れる部品へ分解することだった。
法則1. 自社の本体を、商品名で定義するな。 Mastercardの本体はカードではない。信頼ある価値移動のネットワークである。自社の本体を商品名で定義すると、隣接市場がすべて脅威に見える。中核能力で定義すれば、隣接市場は移植先になる。
法則2. 開くものと閉じるものを分けよ。 MastercardはAPIを開いた。だがルール、ガバナンス、ブランド、セキュリティまで手放したわけではない。DXで重要なのは、何でも開くことではない。外部に使わせる機能と、中心に残す統治を分けることである。
法則3. 既存事業を守るには、既存事業の外へ出よ。 カードだけを守れば、カード外レールに削られる。VocaLink、Finicity、Aiia、BVNK買収合意は、既存事業の外へ出る投資判断だった。だが目的は既存事業の否定ではない。カードで培った信頼を他レールへ移すことで、既存の堀を別の形にすることだった。
法則4. 付加価値を「周辺」と呼び続けるな。 value-added services and solutionsは、2025年に133.15億ドルまで伸びた。付加価値という名前でも、財務上は第二の柱になりうる。大企業DXでは、最初は周辺に見えるサービスが、10年後に収益構造を変える。
法則5. 新しい技術そのものより、経済取引に入るための信頼を押さえよ。 AIエージェントもstablecoinも、技術だけでは商取引に入れない。本人同意、認証、透明性、紛争処理、規制適合がいる。Mastercardは、そこに自社の役割を見ている。
MastercardのDXは、「カード会社がデジタル化した話」ではない。
カード会社が、カードを通らない未来に先回りした話である。
そのために同社は、カードネットワークの中にあった信頼を、API、多レール、open banking、サイバー、AI、stablecoinへ移植しようとしている。
大企業のDXで最も難しい問いは、「何を新しく作るか」ではない。
自社の本当の中核能力は何か。それは、商品名を外しても残るのか。それは、既存事業の外でも売れる形に分解できるか。
Mastercardの答えは、そこにある。
参考資料(時系列)
2006年5月、Mastercardが上場。公開会社として成長資本を得る。
2010年4月、Ajay BangaのCEO就任予定が発表される。就任日は同年7月1日。同月、Mastercard Labsも発表され、技術とイノベーションを差別化の中心に置く姿勢が明確になる。
2016年、Mastercard Developersを再起動。payments、data、security領域のAPIへアクセスできるsingle gatewayとして説明される。
2016年7月、VocaLink Holdings Limitedの92.4%の支配持分取得を発表。初期対価約7億ポンド、最大1.69億ポンドのアーンアウト。BACSとFaster Paymentsの口座間決済、LINKのATMネットワークなどのカード外レールへ入る。
2017年、NuData Security買収。行動生体認証を取り込み、決済前後の不正対策能力を広げる。
2019年12月、RiskRecon買収合意を発表。サイバーリスク評価能力をCyber & Intelligence領域へ取り込む。取引完了は2020年第1四半期見込みとされた。
2020年6月、Finicity買収を発表。北米open bankingと消費者許諾データ接続を拡張する。
2021年9月、Aiia買収を発表。欧州のopen bankingで銀行への単一API接続を獲得する。
2023年6月、Multi-Token Networkを発表。ブロックチェーン上の価値移動にMastercard流のルールと標準を持ち込む布石となる。
2025年4月、Agent Payを発表。AIエージェントによる商取引に、Agentic Tokens、認証、透明性、消費者制御を組み込む構想を示す。
2025年通期、net revenueは327.91億ドル。payment networkは194.76億ドル、value-added services and solutionsは133.15億ドルとなる。
2026年3月、MastercardはBVNKを最大18億ドルで買収する正式契約を発表。このうち3億ドルは条件付き支払いである。法定通貨レールとstablecoin / tokenized depositsの相互運用を狙う。取引完了は2026年内見込みだが、規制審査等が条件である。
2026年4月30日、Q1 2026決算を公表。net revenueは84億ドル、前年比16%増。value-added services and solutionsは前年比22%増。Mastercard / Maestroブランドカードは37億枚。
参考文献
Mastercard Brand Center: https://www.mastercard.com/brandcenter/us/en/brand-history.html
Mastercard Investor Relations annual reports and proxy portal: https://investor.mastercard.com/financials-and-sec-filings/annual-reports-and-proxy/default.aspx
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Mastercard 2017 Form 10-K, SEC: https://www.sec.gov/Archives/edgar/data/1141391/000114139118000009/ma12312017-10xk.htm
Mastercard 2020 Form 10-K, SEC: https://www.sec.gov/Archives/edgar/data/1141391/000114139121000018/ma-20201231.htm
MasterCard Names Ajay Banga President and Chief Executive Officer, Mastercard, 2010-04-12: https://investor.mastercard.com/investor-news/investor-news-details/2010/MasterCard-Names-Ajay-Banga-President-and-Chief-Executive-OfficerSucceeding-Robert-W-Selander/default.aspx
MasterCard Launches MasterCard Labs, Mastercard, 2010-04-15: https://investor.mastercard.com/investor-news/investor-news-details/2010/MasterCard-Launches-MasterCard-Labs-Names-Garry-Lyons-Group-Executive-Research--Development/default.aspx
MasterCard Announces Acquisition of VocaLink, Mastercard, 2016-07-21: https://investor.mastercard.com/investor-news/investor-news-details/2016/MasterCard-Announces-Acquisition-of-VocaLink/default.aspx
New Mastercard Developers Program Offers a Suite of New Commerce APIs, App Developer Magazine, 2016: https://appdevelopermagazine.com/new-mastercard-developers-program-offers-a-suite-of-new-commerce-api%27s/
Mastercard Enhances Security of the Internet of Things with NuData Security, Mastercard, 2017-03-29: https://investor.mastercard.com/investor-news/investor-news-details/2017/Mastercard-Enhances-Security-of-the-Internet-of-Things-with-the-Acquisition-of-NuData-Security-Inc/default.aspx
Mastercard Acquires RiskRecon to Enhance Cybersecurity Capabilities, Mastercard, 2019-12-23: https://investor.mastercard.com/investor-news/investor-news-details/2019/Mastercard-Acquires-RiskRecon-to-Enhance-Cybersecurity-Capabilities/default.aspx
Mastercard to Acquire Finicity to Advance Open Banking Strategy, Mastercard, 2020-06-23: https://www.mastercard.com/global/en/news-and-trends/Insights/2020/Mastercard-to-Acquire-Finicity-to-Advance-Open-Banking-Strategy.html
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