未来は前、それとも後ろ?『グレート・ギャツビー』のラストラインに見る人類の時間感覚
『グレート・ギャツビー』
言わずと知れたアメリカ文学の最高傑作、特に最後の一行、ラストラインは、アメリカ文学どころか、世界文学の頂点にたつ名文だと思う。
So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へ押し戻されながらも
この短いセンテンスに、人類の時間感覚の変遷が圧縮・融合しているといえば、驚かれるだろうか。
「グレート・ギャツビー」のラストラインの美しさを、人類がかつて持っていた意外な時間感覚から紐解いてみたい
まず、未来を指さしてほしい。
どちらになっただろうか?
恐らく前になったであろう。
その通り、現代、日本では、一般的に時間は過去(後ろ)から未来(前)へ進むものという感覚が強い。
しかし、実はこの感覚は昔からのものではない。
高野秀行の『世界の辺境とハードボイルド室町時代』によると、未来はアト、後ろ側だったというのだ。
逆に過去は過ぎ去った景色として、前に広がっている。
つまり、古代・中世人は「背中から後ろ向きに未来に突っ込んでいく、未来に向かって後ろ向きのジェットコースターに乗って進んでいくような感覚で生きていた」のである。
そうした名残は現代の日本語にも残っていて、たとえば未来のことを「後世」と言う。そして、過去のことは先(前)を使って、「先人」「先例」と言ったりするのだ。
ちなみに、ヨーロッパでも昔は過去が前、未来は後ろだった可能性がある。
認知言語学では、「前=過去」「後ろ=未来」という時間のとらえ方が、ホメロス以来の古代ギリシャ語に見られることが知られている。(ただし、この解釈については近年さまざまな議論もあり、一枚岩ではない)
どうも世界全般で、かつて「すでに目の前の景色と広がっている過去」と、「まだ自分の背後にあって見えない未来」という時間感覚があったようなのである。
それが、現代のような過去⇒未来という時間感覚になったのは二つのことが影響している。
一つはキリスト教の西暦である。西暦の普及で、干支や十二星座のような円環型でなく、イエス・キリスト誕生から最後の審判まで矢のように伸びる直線型の時間認識が出来た。
もう一つは、産業革命によって、文明の発達が加速化し、生活が急速に便利になったことだ。未来は自分の背後に広がる目に見えない、得体の知れないものではなく、前方に広がる予測可能でコントロールできる明るい景色に変貌した。
このような人類の時間感覚の変遷を踏まえたうえで、再び「グレート・ギャツビー」のラストラインに立ち返ろう。
So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へ押し戻されながらも
まず、この文のすばらしさを知ってもらいたい。
フィッツジェラルドの文章は三島由紀夫のように絢爛な比喩を多用するタイプではなく、かといってヘミングウェイのような淡々と感傷を排した乾いた文体でもない。
ただ、ダンスの達人がただ歩いているだけでも、その深いところで息づくリズムを感じ心地よいように、彼の文章には独特のうねり、ビートがある。
ラストラインも、並んでいる単語自体は日常生活でも使われる普通のものだが、beat、boats、borneとb音の頭韻が施され、あたかも水に掉さすオールの音、ボートの船端を叩く波の音を聞くようなリズムがある。
さらには、英語詩の基本である「弱強格」も意識されており、それがこの散文に詩のような格調を与えている。
そして、current。
これは掛詞になっている。英語のcurrentには「今、現在」と「水の流れ」の二つの意味があるため、水の流れと時の流れのイメージが自然に重なるのだ。
ここで、少し立ち止まって考えてみよう。
この短いセンテンスに、過去⇒未来、未来⇒過去という、新旧二つの時間感覚が込められていることにお気づきだろうか。
まず「流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも」とあるから、時の流れは未来から過去へと流れている、これは昔の時間感覚である。
しかし、一方で「だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ」と書かれている。これは、未来は前にあるという、今風の時間感覚だ。
さらに言えば、両手漕ぎのボートを漕ぐという行為自体が、背中側(未来)に進みながら、目の前に遠ざかっていく航跡(過去)を見つめ続ける作業である。漕ぎ手は、進む先を見ることはできない。見えるのは、自分が刻んできた航跡だけである。
時は過去から未来へ流れるのか、それとも未来から過去なのか。
このテーマは、実はギャツビーの生き方にも重なる。
Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us. It eluded us then, but that's no matter ― tomorrow we will run faster, stretch out our arms further . . . And one fine morning . . .
ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に――
ラストラインへつながる直前の文章だが、この緑の灯火は陶酔に満ちた未来を象徴すると同時に、デイジーとの過去の恋、もう過ぎ去った取り返しのつかない愛の追憶に他ならなかった。
ギャツビーの両腕は、未来へではなく、過去に差し出されていた。
彼が未来だと思ってみていた景色は、過去のもの。そして、前に見据えた緑の灯火は漕げば漕ぐほど遠ざかる運命だったのだ。
ラストラインの一文が美しいのは、頭韻、掛詞、弱強格などの技巧の極を凝らしているからだけではなく、人類の二つの時間感覚のモデルを調和させつつ、そこにギャツビーという人間の生きざまを余すことなく反映させているからだ。
また、それはギャツビーだけでなく、不器用で少々混乱した空間的なメタファーでしか、時間を把握できない、我々人類全体の有り様でもある。
私たちはこぎ続けるしかないのだ。進む方向が過去であれ、未来であれ。
So we beat on...
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【引用・参考元】
F. Scott Fitzgerald, The Great Gatsby, First Edition (1925)
スコット フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳、中央公論新社)
高野秀行、清水克行『世界の辺境とハードボイルド室町時代』集英社インターナショナル
勝俣鎮夫『中世社会の基層をさぐる』山川出版社
瀬戸賢一『時間の言語学: メタファーから読みとく』筑摩書房
