鬼さんの推しごと~ご利益はお夜食で~第三話⑤
ということで、やってきた土曜日の午前中。一応、他の住人には事前に、誰が来るのかをお知らせしたら、あの樹ですら驚いていた。お前どうやって、と呆然と言われたので、「たまたまだよ」と答えた。
私とマリアは、ソファに座った雪枝さんの両サイドを陣取った。これから来る人の顔を見たら、彼女が逃げ出す可能性があったので、それを防ぐためである。
迎えに行くのは、一番柔和な辰野さんだ。「彼」は客として何度も鬼百合荘に来たことがあり、辰野さんとも面識はあるから、大丈夫だろう。
樹? えーっと、特にやってほしいことはなかったから、もしもこの作戦が上手くいかなくて、万が一暴力沙汰になったときだけは加勢してくれとは言ってある。たぶんならないけどね。
「ただいま。お連れしましたよ」
辰野さんが帰ってきて、「俺が行く」と、樹が玄関まで出迎える。
「ねぇ、今日は来るのは凛ちゃんのお友達なのよね? どうして辰野さんたちが……」
私は彼女の手を咄嗟に握った。部屋の中に入ってきた人物を見て、雪枝さんが案の定、逃げを打とうとしたからだ。
「どう、して?」
呆然自失、という言葉がしっくりくる。雪枝さんは信じられない目で、私と来客を交互に見た。
「紹介しますね。私のお友達の、卯川克彦さんです」
雪枝さんを繋いでおく役割は、マリアにバトンタッチ。私は立ち上がり、克彦さんの隣へ。相変わらずの仏頂面に、「ほら、スマイルスマイル!」と、自分の唇の両端に人差し指を当てて押し上げ、笑顔を促す。会社員時代は営業だったって言ってたでしょう? 自然な微笑みができないなんて、言わせないんだから!
ぎこちないながらも、克彦さんは雪枝さんに、「しばらくぶりだな」と、言った。そのときには、雪枝さんも諦めていて、大きな溜息をつき、「この間会ったばかりでしょう」と、ソファの背もたれに全身を預けていた。
「……記入済みの離婚届でも、持ってきましたか?」
冷たい声に、克彦さんが一歩引く。ええい、そこで引くんじゃないっ! 何のために今日は来たって言うんだ!
「雪枝さん。もう克彦さんには、ひどいことを言ったと謝罪はいただいてます。それに今日まで私、彼と定期的に会ってたんですよ。言ったでしょう? 友達だって」
「でも」
彼女の目が揺れる。強硬に離婚を主張した手前、今更引くに引けないという気持ちでいるのだろうけれど、本当はお互いに、離婚したくないってこと、私はとっくに知っている。
克彦さんに向き直る。
「ほら、早く出しちゃいましょうよ」
こちらはこちらで、いまだに照れが勝つらしい。大きな図体をして、「しかし」と、もじもじしながら持ってきたトートバッグの口をぎゅっと脇で挟んでガードする。往生際が悪いなあ、もう。
「大丈夫ですって。あれだけ練習しましたし。ねっ? 何のためにこんな小娘に教えを請うたんですか?」
自分の娘どころか孫と言ってもおかしくない年齢の私に、時にはアメ、時にはムチで指導され、イライラしないはずがない。
それを、文句ひとつ言わずに黙って取り組んだのだから、ここで逃げたらもったいない。
私が腕を引き、何度も繰り返すと、ようやく彼も観念して、バッグの中からクリアファイルを取り出した。
「……これが俺の、お前への気持ちだ」
雪枝さんに手渡し、彼女は夫の顔を見ながら、中に入っている一枚の紙を取り出す。
「これは……」
それは、アナログの漫画原稿だ。同人誌として印刷するわけじゃないから、ボールペンやサインペン、筆ペンという、一般的な筆記具を使ったし、セリフも全部、手書きのままである。
消しゴムで下書きが消せていない部分もあるし、枠線も多少歪んでいる。それでも、私が小学生のときに初めて描いた漫画っぽい何かよりはずっと、立派な作品だ。
一ページ漫画のヒロインは、雪枝さん。そして主人公は克彦さんだ。物語はシンプルというか、あってないようなもので、大きな声で克彦さんが、雪枝さんへの愛を告白し、離婚したくない! と叫んでいる。そこには親友への嫉妬心があったことも吐露されていた。
克彦さんは、自画像はともかくどうでもいいとして、雪枝さんをきれいに、可愛らしく描くことに注力していた。私が「いいじゃないですか」と褒めても、自身が納得できないと、躊躇なく没にした。
漫画の登場人物にすることは、BL小説に夫とその親友を題材とした彼女への意趣返しだ。しかしこの漫画は、盛大なラブレターでもある。
私がこの作戦を思いついたのは、夢の中で鬼に見せてもらった、お姫様の絵がきっかけだった。
好きな人、好きなものを想って描くと、上達も早い。
イラスト・漫画が初めてどころか、学校の美術の成績だって悪かったという克彦さんだが、何度も線を引くところから練習したおかげか、見れるものになった。身体は骨折気味だけど、不思議な魅力にあふれているのは、その絵に愛情が感じ取れるからだ。
「俺は敦に嫉妬していたんだ。あの小説の中で、お前は敦のことばかり褒めていたから……俺なんかよりも、やっぱりあいつの方がよかったんじゃないか、と」
じいっと漫画を凝視していた雪枝さんは、克彦さんの弱音を聞いて、小さく息をついた。肩を揺らす彼に向かって、「……そんなわけ、ありませんよ」と、雪枝さんが穏やかに話し始める。
「あなたたちをモデルにしてBL小説を書き始めたのは、そうね、嫉妬が一割くらいあったの」
「嫉妬」
克彦さんは、呆けたように繰り返した。あ、これ絶対、誰が誰に嫉妬したのかわかってないな。まったく、女心がわからないから、十年も関係をこじらせるんだ。
「敦さんとあなたが仲良すぎて、嫉妬していたのよ、ずっと。新婚時代から」
もちろんあなたは、親友を優先して私を蔑ろにするなんてことはなかったけれど、それでもやっぱり。
「敦さんがあまりにも美形だから……平凡な私のことなんて、妥協で結婚してくれたんじゃないか、って」
「そんなことはないぞ!」
即座に否定する克彦さん。雪枝さんは頷く。
「そういうストレスをBL小説にぶつけていたのだけれど……私は好きな人ほど受けにしたいの。敦さんみたいな美形を受けにして、あなたみたいな男らしい人を攻めにした方が多くの読者に受け入れられるんだけど、そこは譲れなかった」
「雪枝……」
いい話……なのかなぁ、これ!?
克彦さんは感動しているみたいだけど、よくよく考えたら、雪枝さんの愛情表現ってやっぱり怖くない?
もちろん、口を挟んだりしない。夫婦の仲を邪魔するやつは何とやら、ってね。私はまだ、生きてやりたいことがあるので。
「それに」
言って、雪枝さんは夫からもらった漫画を、愛おしそうに指でなぞった。
「あなたには、私はこんな風に美人に見えているのねぇ……敦さんよりも、ずっときれいに」
何度も描き直しをした甲斐があったというもの。
私も相談を受けて、アドバイスをしたりもした。こういう構図や表情の方が、雪枝さんの上品さや可憐さが引き立ちますよ、だとかそういうこと。専門学校生の分際で偉そうかな、とも思ったけれど、克彦さんにとっては、私が漫画の師匠なのだから、自信を持って導いていかなきゃ、と思い直した。
「ありがとう、あなた」
「雪枝。それじゃあ……」
にっこり微笑んだ雪枝さんは、頷く。
「仲直りを、しましょう。私も悪かったわ。これからはなるべく、あなたたちのカップリングを書かないようにするから」
立ち上がり、彼女は頭を下げた。
「またこれから、よろしくお願いします」
超有名映画のクライマックスでかかるテーマ曲があれこれ再生される。ああ、大団円。
私は克彦さんを突いて促す。言葉を交わさずとも私の意図を察した彼は、愛する妻に近づいて、そっと手を握った。そこはハグじゃないんかーい、と思ったけれど、まぁ、世代的にね? 人前でそういうことをしてはいけないって習ってきた人たちなわけで。
内心で私は拍手を送っていた。いや~、よかったよかった。なんとかなった。心なしか、私を見るみんなの目も温かい気がする。
ひとしきり感動を分かち合ったところで、克彦さんが言い出した。
「ところでそれ……恥ずかしいから返してくれ」
それ、すなわち彼が描いた雪枝さんヒロインの夢漫画である。
「えっ、嫌よ。だってあなた、捨てるでしょ?」
なぬー!? わ、私が学校の課題とバイトの合間を縫って、一生懸命に一緒に作り上げた作品を、捨てる? 目の前でそんなことをされたら、ショックで倒れるぞ。
「へたくそだから、それが現存することに耐えられそうもない」
うーん、その気持ちもわかってしまう! わかるだけに、やめた方がいいと言いたい。デジタル作画ならば、ハードディスクやクラウド上にデータが残っている可能性があるが、アナログ原稿は捨てたらそれでおしまいなのである。
最初に完成させた作品は、ストーリーも絵も見せ方も、全部拙くて嫌になることが多い。私の場合は小学校のときだった。できたその瞬間だけは傑作で、わずか数分後には、「なんだか頭で思い描いていたものとは違う」となり、破り捨ててしまった作品群。
けれど、一番純粋に、漫画を楽しんでいたのもあのころのように思うのだ。
スランプになって、漫画が楽しめなくなったとき、初心に立ち返るきっかけになるのって、結局初期に創った作品なのだと、私は思う。
「駄目ですよ。これは私がもらったものなんですから、どうするかは私が決めます」
クリアファイルに大切に挟み直して、胸の前で抱きしめる雪枝さんなら、大切にしてくれるだろう。ホッとした。
さて、これで長期に渡る夫婦喧嘩にはけりがついたわけだけど、そうなると悲しいお知らせがひとつ、鬼百合荘にもたらされることになる。
「これで雪枝さんも、鬼百合荘卒業ですね……」
短い間だったけど、特に食事の面ではとてもお世話になった。樹以外は全員がそうだ。夜食を用意してくれる鬼と同じか、それ以上、我々は雪枝さんの手料理に生かされていた。旦那さんとの家に帰る前に、料理を習っておこうかな。彼女ほどうまく作ることはできなくても、何事も経験っていうし。
皆がしんみりしている中で、雪枝さんひとりだけ、きょとんとしていた。
「え? 引っ越す予定はありませんよ?」
「は?」
「え?」
「雪枝! お前……!」
突然の爆弾投下に、開いた口が塞がらない。必要なくなったのに、鬼百合荘で別居し続けるのは、ちょっと克彦さんがかわいそうすぎるし、新たな喧嘩の火種になる。
実際、彼はぷるぷると震えて、妻の言葉を反芻し、その真意が読み取れないことにいら立っているようだ。
「だってここ、すごく居心地がいいの。みんなが漫画を描いたり、ゲームを作ったり、作曲したり。私と同じことをしている人はひとりもいないけれど、みんな私の作品を否定しないし、私のことも否定しないの。それってものすごいことだと思わない?」
雪枝さんは目を輝かせている。
彼女は特に、BL小説という、愛好者しか手に取らない作品を書いているから、その気持ちもひとしおなのだろう。
世代的にも、オタクに非寛容な時代を長く経験した人だ。オタク=犯罪者、気持ち悪い。いまだにそういう偏見を持つ人もごまんといるが、昔は世論の大半がオタクバッシングに同調していたという。
過ごしやすい、息がしやすい、創作を許されている。
芸術を、創作物を心から愛している鬼のもとに集った人間は、みんな大なり小なりオタク気質だし、やってることも目標もバラバラだから、いい感じに放っておいてくれる。
ここを出ていく、という選択肢は彼女にはないのだろうけれど、仲直りしたんだから、克彦さんは一緒に住みたいよなあ。ちら、と彼を窺えば、顔が青い。
私が焦って、何を言えばいいかわからずにいると、天の声が降ってきた。実際には、不愛想な樹の呟きだったわけだけど、今のこの状態を打破する、そう、いわば発想の逆転というやつだ。
雪枝さんが出ていきたくないのなら。
「じゃ、旦那さんがこっちに住めばいいんじゃない? 部屋余ってるんだし」
私らみたいな余計なのがいますけれどもね!
それでも、個室はしっかり確保されている。今は和室しか空いてないけれど、部屋割は要相談……いけるか? いや~、克彦さんは嫌でしょうね。
「名案だわ」
目を輝かせる雪枝さんとは対照的に、「しかしだな」と、渋っている克彦さん。そんな彼に、奥さんは強く出る。
「あなた、学生時代は寮に住んでいたと言ってたじゃないですか。シェアハウスはそれと同じですよ」
「そう……か?」
ちょっと違うような気もするけれど、克彦さんが納得して、雪枝さんが鬼百合荘を出て行かないのなら、好都合。私たちは示し合わせて、「そうですよ~」と言った。嘘は言っていない。寮、みたいなもの。うん、嘘ではない。
たとえ変なルールがたくさんあっても。
「それじゃあさっそく、あなたのくれた漫画を一度、神棚にお供えしますね」
「は?」
この手の決まりごとに対して慣れることができなければ、計画は頓挫するわけだが、果たして。
「誰に見せるわけでもないの。ただ、ここに飾る。郷に入っては郷に従え、よ」
雪枝さんの方が強そうだから、大丈夫かな?
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