【小説】出口はどこですか? 第6話
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昨夜はまったく眠れなかった。思えば、途方もなく長い一日だった。滉大から起こされ、平和に男同士の休暇を楽しんでいたところから、真尋の誘いで久しぶりのデート。そこら辺までは多少浮かれたり沈んだりすることはあっても、心を乱されるようなことはなかった。二軒目、星形の月に行ってからだ。帰り際に制御不能の感情吐露、そしてそれを目撃されただけでも立ち直れない大事件なのに、問題はその後だ。出口。無。夢だったと信じたい。いや、夢でなかったという証拠なんてないのだ。夢だったという方が信憑性がある。沙樹は自室のベッドの上で、周囲をよく見回してみたが、昨夜のことを示すような不審なものは何も見当たらなかった。
やっぱ、夢じゃね?
……という、この流れを沙樹はもう10回は繰り返していた。それほど強烈に記憶に残ってしまっていること自体が、昨夜見た事実を裏付けている。
忘れられるわけなどない。あの重々しい扉の向こうの、息が詰まるほどの深い闇。魂まで飲み込まれそうだった。あれが「無」。
無というには、禍々しさが色濃く、まっさらな無ではないような気がする。無というものが、なにもない状態を指すのであれば、あそこには闇があった。
しかしおそらく、そういうことではない。あの禍々しい、闇の中の空間が無なのだ。飲み込まれて、無になるのだろう。まっさらな無に。
無、無、無……。む。なんだよ、無って。頭に無がこびり付いて離れない。脳の中が無で満たされてしまう。つまり、空っぽってことか? いや、そうじゃなくて。はあ、まいったな。
どうする? これから。なにもしないという手も、もちろんある。むしろ、なにができるというのだ。しかし、折原は、沙樹がなにかをするのを期待している。「面白そう」とまで、言っていた。ちくしょう、勝手に巻き込みやがって。スルーできる問題じゃない。ましてや、自分の大事な人間も絡んでいる。誰にも言うなと釘を刺したが、あの男は守るだろうか。この状況を面白がるような男だ。まったく信用できない。どうする? 俺は。
日曜。せっかくの休日。予定はなし。そして寝不足。ゴロゴロ怠惰に過ごしたいところだが、平和にゴロゴロできる自信はない。ゴロゴロ悶えることはできるが、それは進んでするものではない。ならば、とりあえず顔を洗って、自分がやるべきことを考えようか。
そもそも。折原の目的は何なのか。わざわざ沙樹に見せたのは、本当に「面白そう」だからなのか? だとしたら本気でやばい奴だが、そうではないとは言い切れない。一晩中、寝不足の頭で考え続けているうちに、折原が狂人に思えてきた。ゲーム感覚で沙樹を巻き込んだのは、十分あり得る。まあでも、出口なんてものを隠し持つ人間の考えることなど、わかるはずもない。いや、もはや人間なのかどうかすら怪しい。ここら辺は考えても仕方のないことだ。少なくとも、今は。
じゃあ、今の沙樹がやるべきことは……と考えるが、なにが正解かわからない。折原の「面白そう」の発言が効いてしまっている。折原が面白がることをしてしまいたくない。くっそ。どの立場で面白そうとか言ってんだ。神にでもなった気か。え、まさかあいつ神じゃないよな? あーもう。馬鹿げたことまで考えてしまう。非常に、沙樹らしくない。
落ち着け。
沙樹は冷蔵庫から牛乳パックを取り出すと、三角の注ぎ口から直接ごくごくと牛乳を飲んで、我に返った。いやいやいや。こんなこと普段しないのに。今更ながら、食器かごの中でひっくり返っていたコップを取り出し、牛乳を注いだ。白い。真っ白だ。あの「出口」も白かったら、もう少し印象が違ったかもしれない。そういう問題ではないか。
白い牛乳を立ったままひと口飲んで、カーテンの向こうの見えない世界を遠く眺める。
真尋は、あの黒い出口を見てもその先に進みたいと思うのだろうか。その先が無だと知っても、なにかを探しに行くのだろうか。行かないよな、さすがに。……とも言い切れない現状。他人の感覚を自分と同じだと思ってはいけない。そもそも、異世界の扉で盛り上がる人の気持ちも、沙樹には理解できないのだ。真尋やユウヤ、カヨの顔を思い浮かべる。出口の先に行きたがることはなくとも、なにがあるのかは知りたがるだろうと思う。沙樹とは違って、彼女たちは「その先」に興味を持っていた。
危険だ。誰にも知られてはならない。本当に、知っているのは沙樹だけなのか? そこも怪しい。たとえ折原がそうだと言っても、もう折原の言葉は信じることができない。虚言を吐かれたわけではないが、挙動に信用性が皆無だ。むしろ悪意を感じてしまう。折原がなんと言おうと、今後誰かに出口の存在を知られるわけにはいかないのだ。そのために、どうすればいい? 折原に口止めしたところで、信用できないのであれば、沙樹はどうするべきなのか。出口を隠す? ……なんてことができるだろうか。他人の店の二階にあるものを、沙樹が隠すことはまず無理だと思うが。可能な限り、穏便に、そして沙樹の手を汚すこともなく、人知れず出口を隠す方法はあるだろうか。隠す? いや、可能なら破壊したい。でも、そういえば折原は「管理を任された」というようなことを言っていた気がする。衝撃が強すぎて、そこら辺はよく覚えていないのだが……もし、そうだとすると、勝手に破壊するわけにはいかないか。折原以外の黒幕的な存在がいるということだよな。黒幕なんて、もう敵のような扱いだが、今の沙樹にとってはそのような認識で間違いない。なんにせよ、折原に詳しく話を聞く必要があるようだ。しっかり詰めないと。それから、出口を破壊する方法を考える。敵を知り、己を知る。相手を知らなければ策を練ることもできない。
見えた。折原に会いに行く。といっても、連絡先も知らないし、ユウヤに折原の連絡先を聞くのも不自然な気がする。こんな状況でなければ、自然に連絡先を聞けたのに、今は沙樹と折原の関係に少しでも興味を持たれたくない。夜になるまで、待つか。
サイドテーブルの上に鎮座する耳の生えたデジタル時計を見ると、午前10時ちょっと前。少し寝るか。とりあえずやるべきことは見えたし、寝不足だから眠れるだろう。口の中が牛乳で気持ち悪いけれど、構っていられない。沙樹は、勢いよくベッドに倒れ込んだ。……が、やはり牛乳の口が気になり、むくりと起き上がった。飲まなきゃよかった。軽く歯を磨いてから、再びベッドに倒れ込んだ。
案の定、嫌な夢をみた。覚えていないが、絶対、嫌な夢をみた。そんな余韻が体に残っている。じっとりとした汗で気持ち悪いし、胸のあたりがなんとも不快だ。大きく息を吸い込んでみたが、部屋の空気も澱んでいて、妙なもので肺を満たすなと、慌てて溜息とともに吐き出した。カーテンを閉めているとはいえ、初夏だというのに、こんなに部屋が暗いということは、もうそれなりの時間なのだろう。完全に寝坊した。目覚ましをセットしていたわけでもないので、寝坊もないのだが、我ながらこんなに寝るとは思わなかった。しかも長時間寝ておきながら、この不快さは何たることか。実に不毛な睡眠時間。明日は仕事なのに、こんな時間まで寝てしまうなんて。昨日は良くも悪くも非常に長い一日を過ごしたのに、今日は牛乳を飲んで歯を磨いただけで、早くも一日を終えようとしている。いやいや、まだ終えるわけにはいかない。あの男に会いに行かねば。でもその前に、とりあえずシャワーだ。
シトラスが香る濡れた髪をタオルで乱暴に拭いながら、時計を見ると午後7時過ぎ。本当は開店前を狙っていたけれど、とっくに営業している時間である。まあでも、開店前に突撃したとして、途中でユウヤや他の客が来たらと考えると、閉店後の方が都合がいいかもしれない。だとしたら、あんまり早く行っても落ち着かない時間を過ごすだけなので、もはや急ぐ必要もない。親子丼でも食ってから向かおう。
ヴー、ヴー、ヴー……。
ベッドサイドのスマホがうつ伏せで震えている。ひっくり返すと、着信中、画面には律子と表示されている。
「はい」
スピーカーにして、冷蔵庫のポケットからペットボトルの水を取り出した。2Lのボトルに口をつけて飲む。よく冷えている。
「元気なの? 最近全然連絡なかったけど、忙しかった?」
「ああ、ごめん。俺は元気だけど。母さんは?」
「私は元気もりもりよ」
そんなわけないよな、と沙樹の胸はツンと痛んだ。まさかこの歳で親が離婚するとは思わなかった。沙樹ははっきりと覚えていないが、母はたしか52歳くらいだったはず。数年前まで、夫婦で食事にも行っていたのに。いや、あれはずいぶん前か。沙樹の気づかないところで、母は父に裏切られ、簡易的な自由を置き土産に、父は去っていった。一人息子だし、沙樹は母を支えたいという気持ちはあるのだが、今まで、親しく接してきたわけではなかったので、急にどうすればいいかわからなくなった。
「時間があったら、来週、食事でもどう?」
来週かぁ。昨日、真尋も来週会おうと言っていた。おそらく、真尋は金曜の夜か、土曜だろう。
「日曜なら」
「よかった! お昼の方がいいわよね?」
時間と場所はまた連絡する、と嬉しそうな声で言い、律子は電話を切った。沙樹はなんとも言えない気持ちを抱えて、しばらく立ち尽くした後、首にかけていたタオルを引き抜き、ドライヤーを取りに洗面所へ向かった。考えることが、あまりにも多すぎる。
「らっしゃい! 沙樹君」
魚屋のようなノリで迎えてくれたユウヤの顔を見て、張りつめていたものが、ぶわっと緩んだ。たった半年やそこらで、こいつには何度も救われた。本人は気づいていないんだろうな。ずっとこのままでいてほしい。
折原は席を外しているらしく、店内に見当たらない。……ということは、二階にいるのだろうか。いや、でも今まであの扉から折原が出てくる姿は見たことがない。それとも、沙樹が気づかなかっただけなのか。この店が自分にとって、こんなに神経を尖らせる場所になるとは。
「ジントニック一丁!」
声とは裏腹に、ユウヤはスマートな手つきでグラスを置いた。沙樹は「ありがと」と小さな声で答えた。沙樹のお気に入りの席。日曜の夜、今日は憂鬱な客がまばらに入っているだけだった。
「沙樹君、なんか元気ない? オーラがダークモードになってるよ」
「なんだよ、それ」
苦笑しながらジントニックを飲み下し、笑えねえ、と心の中で溜息をついた。
「そんな沙樹君に朗報! 俺、ついに……」
「なに」
「車をゲットしましたー!」
ガッツポーズをしているユウヤに、思わず沙樹は小さく拍手した。
「へー、よかったな」
「まあ、走行距離えぐいやつだけど。先輩がメンテしてから譲ってくれたからさ、まだまだいけるはず」
「ふーん」
沙樹は一応、免許は持っているものの、車にあまり興味がなくてほとんど乗っていない。乗らなくても便利な場所に住んでいるので、運転をする機会もないのだ。
「興味なさそうな顔してるけど、ドライブつき合わせるからね? 俺の休みのたびに連れ出すよ?」
「休みのたびは勘弁してくれ」
言いながら、外から帰ってくる折原の姿に気づいた。やはり、あの扉は開かなかった。少しの安堵とともに、緊張感が戻ってきた。
「まあ、沙樹君は俺より真尋さんに時間使いたいよねぇ。しゃーないから、真尋さんとのデートは優先してもいいわ。許す」
「はあ、どうも」
今、何時だ? 肘の横でひっくり返っているスマホを手に取り、ちらっと覗くと午後9時半。日曜だし、普段ならもう帰ってもいい時間だが、今日は閉店までいなきゃならない。睡眠時間は足りているから問題はないが、日曜なのに遅くまで残っていたら、ユウヤが不審がるだろうか。しかし、外で待ち伏せというわけにもいかないし。なんか言い訳を考えるか。
「しかし、真尋さんも意外とロマンチストだったよねぇ。出口とかさぁ」
唐突な衝撃に、沙樹は息をのんだ。折原はユウヤの背後にいる。今一番話題にしたくない事案だ。笑って適当にやり過ごす自信がない。手のひらに汗が滲んだ。
「出口って?」
微笑みながら、折原がユウヤに尋ねた。ユウヤは「あ、おかえりなさい」と、折原を振り返る。
「昨日、真尋さんが言ってたんすよ。この世界の出口? みたいな。折原さん、聞いたことあります?」
沙樹は折原の顔を見ることができず、カラン、と動いたグラスの氷を見つめた。心臓が喉の下で脈打っている。
「ああ、それ。聞いたこと、あるよ」
余計なこと言うなよ? 息が苦しい。音を立てて薄い酸素を吸い込んだ。
「次のステージに繋がってるって話だよね?」
思わず、顔を上げた。何言ってんだ、この人。どういうつもりだ?
「え? そうなんすか? それは初耳っす」
「この世界を出て、次のステージに……って、たしかにロマンあるよね」
「ロマンっすねー、それは。奥が深ぇわ、出口。よくわかんねぇけど、はは」
楽しそうに笑うユウヤに、何も言うことができない。そうじゃない。そんなもんじゃない。そんな話、聞くな。
「あとは……ああ、これ知ってるかな――」
「そんな話、聞くな!」
握りしめた拳の爪が手のひらに食い込む。言ってしまった。黙っていられなかった。
「沙樹君、急にどうしたの?」
驚いているユウヤの顔。
嵌められたかもしれない。ユウヤの前では無関心、無関係でいたかったのに。折原の余裕の笑みに、一度目の敗北を悟った。
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