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水面に揺れるスタートライン 第7話


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 気づけば、暗闇の中にひとり。私は誰だったのだろう。

 部屋を見回してみるが、特に変わったことはない。時刻、午後7時。確か夕方に目が覚めてから、ベランダでタバコを吸って……そこから記憶が途切れている。ベランダに出て、灰皿を確認する。吸殻が増えていないので、タバコを吸う人格ではなかったようだ。部屋に戻って、自分の体を確認する。新しい傷は見当たらなかった。スマホの履歴もなさそうだ。ずっと部屋で大人しくしていたなら、誰が出ていてももう構わない。他の誰かに迷惑をかけることがなければ、解離しても気にしなくなっていた。でも、なぜだろう。すごく気分が落ち込んでいる。私の中の誰かが落ち込んでいたのだろうか。こういうことは頻繁にあった。自分の中で、誰かの泣き声が聞こえたり、解離して誰かが泣いて、それを私が引きずってしまったり。理由はわからないけれど、とにかく今私は、顔を上げられないほど落ち込んでいる。

 「下を向くな、前を向いて胸を張れ」……かつての私ならきっとこう言うだろう。けれど、最近わかったこと。落ち込むと頭を持ち上げることもできない。喉が詰まるほど首を深く項垂うなだれて、誰かに声をかけられても振り向くこともできない。こんな絵に描いたような落ち込み方ってあるだろうか。見た目に分かりやすく、立ち入り禁止の看板を背負っているようだ。こうべを垂れていると、その相乗作用でますます気分は落ちていく。負の連鎖はなかなか断ち切ることはできない。
 私の不安や落ち込みの波は、理由なく襲ってくることが多い。以前は「憂鬱の元」を探すのも易しかった。それは明日のテストだったり、誰かとの喧嘩だったり、様々だ。ふとした瞬間に自分の気分が晴れない理由を探すと、大抵些細な「憂鬱の元」がすぐに見つかった。でも今は、理由もわからないまま、ひたすら落ち込むことが多い。そういう時に考えることは、ろくなものがない。まっすぐ下を向いているからだ。全てが直滑降していく。

 奏斗かなとは今日、仕事を早めに切り上げて、実家に車を取りに行くと言っていた。「ドライブができるね」と嬉しそうに笑って、「どこへ行きたいか考えておいて」と、軽い足取りで仕事へ出かけて行った。明日は休日だから好きなところへ連れて行ってあげる、と。
 どこにも行きたい気分ではなかった。でも、せっかく奏斗が連れて行ってくれるのだから、楽しくドライブしたい。無理矢理頭を上げてみたけれど、ため息とともに項垂れていく。
 「今から帰る」と奏斗からメッセージが届いた。思っていたより早かった。ちゃんとお母さんとお話できただろうか、と余計な心配をする。奏斗とお母さんの関係は、よく知らない。奏斗があまり話したがらないからだ。でも、あまりうまくいっていないことはなんとなくわかっていた。奏斗は私の話を真剣に聞いてくれるけれど、自分の悩みはあまり話さないし、弱みを見せない。仕事のことだって、いろいろ悩んだりしているはずだ。でも、彼が弱音を吐いている姿を思い出すことはできなかった。私には、話せないのだろうか。心配をかけるから? 私が頼りないから? 本当はいろいろ話してほしい。何もできないかもしれないけれど、話して楽になることだってたくさんある。私は彼にこんなに甘えているのに。自分が情けなくなる。私も彼を支えたい。強くなりたいと心から思った。

 奏斗がカツサンドを手に、帰ってきた。有名なお店のカツサンドらしい。ずっしりと、かなりボリュームがある。お母さんが持たせてくれたのだと言う。少しは関係が良くなってきているのだろうか。しかし、私から聞くことはできない。多分、いつものようになんとなく濁されて終わるだろう。奏斗のお母さんのカツサンドを、夕飯にした。
「どこ行きたいか、考えた?」
 頬張った口を動かしながら、奏斗は聞いた。
 行きたい場所。暗くて静かなところがいい。何もないところがいい。私は海に行きたいと言った。真冬の深夜の海。初ドライブにはあまり向いていないかもしれない。でも、奏斗は快く承諾してくれた。寒いからと、厚手のコートを着込んで、膝掛け用にブランケットも持って、駐車場に向かった。車は、ミニクーパーという外車らしい。外車にしては小型だけれど、塗装の違いは私にもわかった。すごく可愛らしくて、私はすぐに気に入った。
「じゃあ、行こっか」
 初めて見る、運転席に座る奏斗の姿。なんだかいつもと違う顔に見える。運転なんて、男女関係ないものなのに、なぜ目の前の奏斗が男らしく見えるのか。新鮮な感覚。一緒に暮らしていながら、私はあまり奏斗のことを男として意識していなかったのかもしれない。今さら、なんだか少し恥ずかしい気持ちになった。仕事から実家に行って、疲れているはずの奏斗。それでもそんな様子を全く見せずに、こうして私を連れ出してくれる。優しい奏斗の横顔を見つめてみたけれど、奏斗は私の視線に気づくことなく、エンジンをかけた。
 奏斗の好きな懐メロを集めたBGMを流しながら、車は走り出した。思えば、私は久しく車というものに乗っていなかった。彼が運転する車に乗っていることが、不思議な感じがした。
 嬉しそうに笑いながら、奏斗が数日前の「追っかけくんごっこ」の話をしている。
「帰ったらいきなり『追っかけくんごっこ』だからさ、びっくりしたよ」
「うん……」
「覚えてないの?」
 よく覚えている。あの時は楽しくて仕方なかった。なぜあんなに幼稚な遊びで舞い上がってしまったのか、自分でもよくわからない。でも、余計なことを考えず、素直に幸せな時間だった。着ていたTシャツの「v」のサインに指で触れる。ハートのVサイン。洗濯しても、色褪せることはなかった。
 奏斗の話は過去の「探偵ごっこ」の話に移っていた。
「あの時もさ、持ち物検査とかされて……浮気疑われてんのかなって焦ったよ」
 浮気なんか疑ったことはない。むしろ彼がそんなことを思っていたことに驚いた。ただはしゃいでいただけ。「探偵ごっこ」に夢中になっていた。……子供みたい、我ながら。
 楽しい記憶だけでいい。病気になってから悪いものに支配されている頭の中。汚染された自分の中身は、全て消し去ってしまいたいと思った。ほのかにいい香りのする車内には、奏斗が好きな平井堅の『思いがかさなるその前に…』という昔の曲が流れていた。なんだか切なくなる曲だ。
「ほら、ここなんてどう?」
 車を停めて、真っ暗な海岸に出た。冷たい空気に、ピリッと頬が痛くなる。

 私が求めていた静かな海。冬なのに珍しく、風ひとつなく、波もないかのように見えた。私たちを照らす明かりもなく、歓迎はされていないように感じた。そっと握ってくれた奏斗の冷たい手だけが、私がここに存在することを許してくれているように感じる。静か過ぎて、耳の奥が痛くなる。真っ黒な海は、べっとりと垂らされた絵の具のようだった。
「死んでるみたい」
 小さな声で呟いた。「え? 何が?」と聞き返す奏斗の声で、即座に自己嫌悪に陥った。
 いつだって私を元気づけようと頑張ってくれている奏斗。私のためにここに連れてきてくれているのに、私はほんとバカだ。

 結衣ゆいと一日過ごせる時間はとても貴重で、常に週末が待ち遠しい。やっと訪れた休日。こういう日は大抵結衣も心穏やかだ。
 彼女が木曜、通院のついでに実家から持ってきたSDカードで、PCに移してあった学生時代の結衣の写真を見る。事故なのか意図的なものなのか、データが消えてしまったと言って、結衣のスマホには過去の写真がほとんど残っていなかった。いや、本当に残っていないのかどうかもわからない。とにかく、見せたくはなかったのだろう。だから、こんな風に彼女の写真を見せてくれるのは初めてだった。弾けるような笑顔に、勝気な表情。僕も覚えている、昔の結衣だ。PCの画面に大きく映った結衣の姿は、どれも魅力的だった。またいつか、こんな結衣が戻ってくる日は来るのだろうか。今の彼女も愛おしいけれど、苦しんでいる姿は正直見ていても辛い。僕は彼女にこんな笑顔が戻ってくるのなら、なんだって頑張れる気がした。
「昔はいつもミニスカートだったんだね。ほら、これも。これも」
 画像に写る彼女は、すらっとした白い足を惜しげもなく露わにしていた。それは決していやらしいものではなく、若者の健全な姿に見えた。僕が知っている彼女はいつもパンツスタイルで、バイト時代の彼女もパンツスタイルしか見たことがない。
「そういえばそうだね。この頃は短いスカートしか履いてなかった気がする」
 彼女も今思い出したかのように、自分の過去の姿を改めて見つめる。「いつからだろう」と考えながら「年のせいかな」なんて言い出すから、「まだまだでしょ」と僕は答えた。
「たまにはスカートも履いてよ」
 僕のリクエストに、彼女は恥ずかしそうにやんわりと拒絶した。新しい結衣が見てみたい、そんな気持ちが芽生えていた。

「朝ごはん、どうする?」と彼女が話を逸らした。
「僕が作るよ」
 なんだか今日は気分がよくて、普段しない料理もやってみたくなった。張り切っている僕に、「できるの?」と不安そうな結衣。「目玉焼きくらいなら」と僕は答えた。子供の頃に作ったことがあるような気がする。覚えていないけれど、誰だって作れる簡単な料理だ。それでも、自信がなかったので、結衣に聞きながらフライパンに卵を落とした。
「あっ」
 僕たちは同時に声をあげた。卵がぺしゃっと潰れてしまったのだ。新鮮とは言えない卵だったけれど、そこまで古くはないはずだ。
「卵を割る位置が高すぎるんだよ」
 結衣に言われて、2個目は低めの位置から落とそうとした。しかし、今度は割れた殻に引っかかって、またもや潰れた黄身がフライパンに広がった。
「これじゃあ、目玉焼きじゃなくて目潰し焼きだね……」
 僕が肩を落として言うと、結衣はケタケタと笑った。目潰し焼きの響きがひどく気に入ったらしく、何度も繰り返して笑う。
 ほんの少し、水を入れることも知らなかった。蓋をすることも知らなかった。目玉焼きって、ただ卵を焼くだけではなかったのか、とこんな大人になってから気づいた。テーブルに乗ったふたつの皿には、潰れた目玉が情けない姿を晒している。僕はパンを用意しながら、彼女に言った。
「次はちゃんと目玉焼きを作るよ」
 彼女は潰れた目玉を幸せそうに眺めて、答えた。
「ううん、次も目潰し焼きがいい」
 こんな下手くそな、料理とも言えない代物でも、結衣を笑顔にすることができるのだと、初めて知った。目潰し焼きくらい、毎日でも作ってやりたいと思った。




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