水面に揺れるスタートライン 第8話
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「最近、調子いいね」
りのが窓辺に立ち、外を眺めながら、そう言った。彼女がそう言うのなら、恐らく本当に調子は悪くないのだろう。僕から見ても、波はあるけれど、それなりに安定しているようにも見える。こうやって波を繰り返しながら、徐々にその波が上昇していって、更にはその波の振れ幅が狭くなっていったらいい。そんなすぐに良くなるなどと楽観はできないけれど、りのの言葉は僕を大きく勇気づけた。
それでもそう言う彼女の表情が気になった。りのが落ち込んでいるように感じる。いつもの軽い調子ではなく、何か物思いに耽っているように見えた。
「結衣が元気だとおもしろくない?」
僕の質問は少し意地悪だっただろうか。僕からは、普段のりのが、懸命に何かをする結衣や僕を嗤っているように感じていたので、ついこんな言い方になってしまった。でもりのはそれに対して答えずに、窓の外を見つめたままだった。
「何か悩みごとでもあるの?」
僕は少し心配になった。結衣と関係する問題が何かあるのだろうか。
「ねえ、あたしたちって結衣の病気なんだよね」
そういう考え方もできるかもしれない。解離性障害というのが人格が分裂すること、とするのなら、りのを含む他の人格たちの存在は病気に依るものだ。でもこの表現は、ストレート過ぎて自虐のようにも聞こえる。
「結衣の病気がよくなったらさ、あたしたちは消えちゃうんでしょ?」
統合のことを言っているのだろう。確かに、治療の方針として、分裂した人格を統合するというものもある。結衣の治療がどのように行われているのか、果たして柴崎先生は統合を目指しているのかはわからない。でも、りのの不安はなんとなく察した。ひとりの独立した人格として、当然の不安だろう。
「りのちゃんは消えないよ。もし統合したとしても、結衣の一部となって生き続けるんだよ。結衣の中に生きてるってこと」
「それは消えるってことだよ。あたしはあたし。結衣じゃない、りのだよ? 一部って何? あたしのこと、なんだと思ってんの?」
りのは僕を振り向いて、珍しく感情を顕わにした。僕は無意識に、彼女を傷つけていた。
存在するという定義を改めて考える。りのは目の前に立っているが、他人から見れば彼女は結衣だ。でも僕は、りのという少女を知っている。それは結衣ではなく、自由奔放で屈託なく、調子のいい、りのという女の子。仕草や目つき、喋り方も、りのという少女のものだった。僕にはわかるけれど、他の人にはなかなか理解できないだろう。結衣の様子がおかしいとしか思わないかもしれない。「気が狂った結衣」……ただそう見えるだけかもしれない。それでも、僕にとってはりのも、倉橋も、その他の人格たちも、みんなそれぞれ友人として独立した存在だ。しかし、結衣の一部として見ているのも否めなかった。実際、結衣から生まれた、結衣の一部の顔なのだ。通常はひとつの人格がいろいろな面を持ち合わせる。それが、普通の人間というものだ。主人格が分裂して、それぞれの人格が意志を持ち、結衣の代わりとして動いたりするこの状況は、改めて考えると、なかなか理解しがたいものだ。でもこれが、すべての結衣なのだ。現に、今この状況で、りのと僕が話していることを結衣は知らない。問題はとても複雑だった。存在する、とはどういうことだろう。もし自分が誰かの一部になったとして、それは僕が存在しているとは言えないだろう。「我思う、故に我あり」……デカルトさん、それは本当ですか? 彼なら結衣の状態をどう説明してくれるのだろうか。つまり、今のりのは存在していて、統合されたら消えてしまう……それは正しい解釈なのではないか。
「あたしが消えて、いつかキミの記憶からも消えたら、あたしはいなかったことになるんだね」
りのが泣いているのか、僕からはよく見えなかった。最後に一言、「忘れないで」と残して彼女は去った。「あたしはここにいる」という彼女の叫びだった。
りののことが気になって、彼女が消えた後も考え続けた。結衣が心配そうな顔を見せる。そうだ、せっかくの休日。今は目の前にいる結衣のことだけを考えていたい。
何の保証もないのに、今日くらいは幸せな時間が続くと思っていた。昼過ぎは1時間ほど一緒に昼寝をして、夕方は近所を軽く散歩した。夜はファミレスで、いつもより少し贅沢をした。「普通の幸せ」……僕たちにはなかなか手が届きにくい貴重なものだ。
この得難い幸せに、気分が高まっていたのは、僕だった。りののことは気になったが、今はりのが「最近調子がいい」と言った言葉の方が大きかった。結衣は知らない、僕とりのの会話。その中で結衣の状態を僕が把握していることも、結衣は知らない。大丈夫だ、うまくいっている。これまで結衣と共に過ごしてきて、初めて報われた気がした。今まで、彼女が笑顔を見せるたびにご褒美をもらったような気分になっていた。それで十分だった。でも、もしかしたらこれから、夢のように思い描いていた日々が訪れるかもしれない。今日のような「普通の幸せ」を、当たり前に感じることができるかもしれない。可能性を見出しながら何とも言えない感情がこみ上げてきて、気分が高揚していた。
帰宅して、着替え始める結衣を見た時、ふと自分の中で何かが弾けたのを感じた。突然襲ってきた、覚えのない興奮。彼女に触れたい。彼女の全てをこの身体で感じたい。今ならいいのではないか? ずっと我慢してきたのだ。結婚の約束だってした。何もおかしくないはずだ。結衣を力一杯抱き寄せると、少し彼女が抵抗した気がした。しかし、僕の頭をりのの言葉がよぎる。「狂ったようにセックス」……僕は自分が抑えられなくなっていた。結衣をベッドに押し倒す。今まで我慢していた全ての感情が流れ出てきてしまったようだ。普段彼女に目一杯注いでいた愛情。今は愛情というより、欲情や嫉妬が僕を狂わせていた。
何もおかしいことはしていないつもりだった。むしろ今まで我慢してこられた自分が特異なのだ。本能の命じるままに、僕は彼女の身体を求める。彼女の名前を呼びながら、優しく愛を込めているつもりになっているだけで、急く気持ちのままに、何も見えていなかったようだ。結衣が本気で嫌がっていることにも気づくことができなかった。自分の荒い吐息に脳が酔わされていた。結衣の様子がおかしいことに、全く気づかなかったのだ。
聞いたことのない結衣の悲鳴に我に返った。か細く喉を鳴らすような、悲鳴にならない悲鳴だった。それは本来、絶対に僕に対して向けられるはずではない悲鳴。僕は何をした? 服を脱がされかけた結衣の上に覆いかぶさったまま、血の気が引いていく頭の中で、僕は冷静さを取り戻していった。目の前の結衣は、涙をとめどなく流しながら、顔を歪めて震えていた。
作業服を着た見知らぬ男が覆いかぶさる。汚いヒゲ面の男は、嘘か本当か網走の刑務所を出たばかりだと言っていた。それが嘘だとしても、私の身体を動けなくさせるには十分だった。押さえつけた私の上で暴れる男の体。私の身体の内側に害虫が入り込んだ。侵食されていく。自分が汚物になっていくのを感じた。汗と埃の臭い。破れたお気に入りのタイツ。どうやって家に帰ったかはよく覚えていない。髪についたぬるぬるがいくら流しても取れなくて、ハサミで切り落とした。
忘れていた激しい嫌悪が、一気に流れ込んできた。どこに隠していたのだろう。この記憶は完全に封印されていた。これがフラッシュバックというものだと気づかないほど、リアルに頭の中で再現され、同じだけの恐怖を再び体験していた。涎を垂らした獣に犯される自分から目を背けたかった。逃げ場はない。覆いかぶさる獣は、私を捕らえて離さない。
目の前にいるのがきれいな奏斗だとやっと気づいた時、嫌悪の情は私に移った。汚らしい私。私の中は害虫に食い荒らされている。そんな目で私を見ないで。
抱きしめようとする奏斗の手を乱暴に振り払った。
その手で、こんな汚い私に触れないで――。
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