水面に揺れるスタートライン 第9話 【最終話】
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あれから、結衣がおかしくなってしまったのは、全て僕のせいだった。
「ごめん、こんなことになるとはあたしも思わなくて……」
りのは全て知っていたらしい。話してくれた。結衣が経験したおぞましい過去の記憶。結衣はこの記憶を本人も気づかないうちに封印していたらしい。その記憶はりのが持っていて、彼女はひとり過去を背負って戦っていた。正直、その記憶を押し付けた結衣のことを憎んでいたと言う。自分だって女の子だ。なぜ自分だけこんなおぞましい記憶に苦しめられなければならないのか。その記憶が結衣の中に蘇り、再び結衣が卑汚された今、りのはやり場のない自己嫌悪に陥っていた。何度も僕に謝るりの。違う、僕のせいなんだ。あの時の僕は、自制が利かなくなっていた。欲情に支配された醜い男が僕だ。結衣の記憶が蘇ったのは、僕の姿がその男と重なったからだ。
触れることのできなくなった結衣の手で、りのが僕の手を握ってくれた。ぎゅっとその手を握りしめ、僕は涙を堪えることができなかった。僕たちは皆、自分を罵り、自分を憎んだ。他に向けることができない怒り。全てが自分のせいだった。
僕は有給休暇を利用して、数日会社を休むことにした。正直、仕事なんてどうでもよくなっていたが、これから結衣を支えていかなければと思うと仕事を蔑ろにすることはできない。それでも、今は何があっても結衣のそばにいなくてはと思った。これから彼女がどうなるのか予想ができない。週が明けたら、病院に連れて行こう。彼女のために自分ができる何かを探す。そしてすぐに自分の非力さを思い知った。
僕がコンビニ弁当を二人分買いに出かけて帰宅すると、結衣は錯乱していた。部屋の中にぬいぐるみやハンガーや本などが散らばっている。ベッドの上に崩れるように座っていた彼女は、泣きながら「死にたくない、死にたくない」と繰り返していた。僕にはそれが「死にたい」とはっきり聞こえた。髪を振り乱して泣く姿は、彼女の中にある全ての感情が放たれているようだった。僕は唾を飲み込んだ。身体が震える。僕はどうすればいい? 言いようのない不安が僕を包み込んでいた。彼女を遠く感じた。僕が手を伸ばしても、届かないところにいる気がした。逃げ出したいような気持ちを抑えて、自分を叱咤する。彼女を守るのは僕だ。僕は買ってきた弁当をテーブルに置き、彼女に近づいた。噛み付かれてもいい。ひとりじゃないということを伝えたい。僕はそっと結衣を抱きしめた。一瞬、ビクッと身体を強張らせたが、彼女は抵抗しなかった。というより、うまく身体に力が入らない様子だった。声にならない嗚咽を漏らしながら、呆然としているようにも見えた。僕は力を込めて抱きしめ直して、彼女が膝の上に握った拳が震えていることに気づいた。拒絶されている……? 情けなく惨めな感情が押し寄せてきて、泣きたくなった。なんと声をかければいいのだろう。「ごめんね」「大丈夫」「僕がいる」……どれも違う気がした。僕は黙って、そばにいることしかできない。「ひとりじゃない」そう言って抱きしめてほしかったのは僕だったかもしれない。
徐々に落ち着いてきた彼女は、眠りについた。僕は無力だ。彼女の隣で、何もできずに背中を丸めている僕を、冷めたコンビニ弁当が見つめていた。
柴崎先生に結衣がどのように話したのかはわからない。けれど、最後に僕も診察室へ呼ばれ、軽い注意点などの説明を受けた。入院を勧めたけれど、結衣は頑なに拒んだらしい。大丈夫だと言い張るので、どうしようもない。とりあえず様子見をしましょう、と柴崎先生も苦渋の表情を浮かべていた。
僕としては入院してほしい気持ちもあった。今の状態で自分の手から離れるのは本意ではないけれど、無力な自分にできることは知れている。病院の方が安全なのではないか、と思った。こんな僕に今の彼女を支える力があるのか、不安だった。そもそも、結衣をこんな状態にしてしまったのは僕だ。僕と離れた方が彼女は安心するのではないか。彼女に不安を与えているのは僕の存在なのではないかと考えてしまう。かつてないほど、僕は弱気になっていた。
でもこれが結衣の選択ならば、僕は自分にできることをするほかない。「何かあったらすぐに病院に連絡してください」という柴崎先生の言葉に、背中が強張る。何かあったら、とはどのようなことだろう。僕のふらついた視線に、柴崎先生は真剣な眼差しを返してきた。彼は僕の弱気な心を、当然悟っているだろう。
「必ずまた会いに来てくださいね」
柴崎先生は、芯のある優しい声で結衣に語りかけた。
「待ってますから」
結衣は力なく頷いた。
診察室を出て、僕は力を込めて結衣の手を握る。今までふたりで歩んできた道を振り返る。僕たちなら、大丈夫だ。覚悟していたはずだろう? どんな結衣になっても、僕は挫けないと。
私を呼ぶ音。あの場所が呼んでいる。帰りたい。頭が狂って、わけわかんないうちに死んでましたなんて嫌だ。自ら死すのなら、冷静でいたい。なのに、なぜ、自我が壊れていくのを止められないのか。まるで砂漠の砂で形成された城が、風に崩されていくかのように、私の中身が害虫に食い潰されて自我が散っていく。狂ってるのかな。狂っていくのかな。死ぬことも生きることもできない中身になっていく。もう何が私を苦しめているのかもわからなくなっている。このままじゃ、私は『ヤツ』に負けてしまう。これ以上醜い私を晒すことはできない。この世の全ての不浄を吐き散らす化け物になってしまいそうだ。帰って消えて、無にしたい。この身体ごと、私の全てを葬りたい。逃げ場は見つからない。救いの手など、求めない。チャンスがあったらあの場所に逝こう。誰にも止められたくない。どうか、正気のままで逝けますように。
夕食の準備をする。あれからずっと結衣は食欲がなくて、僕は彼女が口にすることができるものを探していた。卵豆腐なら食べてくれる。食事のにおいも今はきついらしく、卵豆腐を口にした後、僕がスーパーの惣菜を温めているうちにベッドに横たわっていた。僕はひとり、テーブルについて静かに夕食を済ませると、汚れた皿をシンクで洗った。いつもの部屋なのに、なぜかいつもより暗い気がする。照明を見上げて、ぼんやりと考えていた。なぜだろう、頭が働かない。なんでこんなことになったんだっけ。何が問題なんだっけ。どうすればいいのだろう。しばらく呆けていた。疲れているのだろうか。
洗い物を終えて、ベッドに横たわった結衣の様子を見ると、同じように呆けていた。寝ることができるのなら、寝た方がいい。声をかけると、結衣の呂律が回っていないことに気づいた。「頓服何錠飲んだ?」と尋ねると、少し考えて、「3錠」と答えた。彼女が飲んでいる頓服は、3錠でも足元がふらついてしまう。薬は僕が管理しよう、と思った。結衣が薬を過剰摂取して自殺を図ったりすることはないと思っているけれど、今の状態では薬の管理を自分でするのは難しそうだ。頓服を飲んだ後は大抵すぐに睡魔が襲ってくるらしいが、ぼーっと一点を見つめて、寝る様子もない。
「全然怖くないの。ただすごく悲しくて……少しだけわくわくしてる……」
うわ言のように彼女が呟いた。僕に何ができる? 拒絶されながら、ただ抱きしめることしかできないのか。自分が情けなくて仕方ない。彼女は今、「助けて」と叫んでいる。「助けるよ」と僕は言う。でもどうやって? 柴崎先生ならどうするのだろう。自然とそんなことを考えいた。ずっと僕にしかできないことを探してきた。それなりに彼女を支えているつもりだった。でも肝心な今、僕にできることは何もなかった。
「海……」
結衣が呟いた。
僕が聞き返すと、「海を見に行きたい」と言った。こんな状態の彼女を車に乗せて、ドライブに出かけてもいいのだろうか。部屋の中で安静にしていた方がいいのではないか。でももし、これが唯一今の僕にできることならば、僕は彼女に海を見せてあげたいと思った。海を見れば彼女は元気になるだろうか。それはとても考えにくかった。時計を見るといつの間にか深夜1時を回っている。僕はとても迷ったが、ドライブに行くことにした。こんな状態になってから、結衣が何かを求めるのは初めてだったからだ。
エンジンをかけて、助手席の結衣を見る。落ち着いた様子に見える。結衣のためにできること。僕はゆっくりアクセルを踏んだ。
運転中、僕たちはずっと無言だった。BGMが僕を救ってくれていた。正直、何を話せばいいかわからない。そして、声をかけた方がいいのかもわからなかった。窓の外を眺めている結衣の顔は僕からは見えない。泣いている? わからない。何を見て、何を感じて、何を考えているのだろう。何も目に入らず、何も感じず、何も考えられていないかもしれない。
海沿いに着いた時、彼女が眠っていることに気がついた。穏やかな寝顔だ。寝かせておこう。僕は膝掛けの上から、彼女に上着をかけた。暖房を切るわけにはいかないから、エンジンはかけておく。僕はいつか目を覚ます結衣を待ちながら、BGMに心を委ねていた。こんな時、懐メロが沁みる。「思いがかさなるその前に…」。平井堅の優しく切ない歌声。僕も疲れきっていた。
どれくらいの時が過ぎただろう。ふと目を覚ました結衣に気づいた僕は、笑顔で「海に着いたよ」と声をかけた。そしてすぐに、結衣の様子がおかしいことに気づいた。怯えている? 僕を見て、目を見開き、驚いているようにも見える。可能な限り、体を引いている様子は、僕を警戒しているのか?
「結衣……?」
伸ばした僕の手に、彼女はさらに後ずさり、ドアにぴったりと身体をつけた。
「誰……?」
信じられない言葉が僕の耳に届いた。僕のことがわからない? 僕の知らない人格が現れたのかと思った。
「僕は奏斗。君は誰……?」
恐る恐る尋ねてわかったこと。
それは――記憶を失った結衣だった。
「えっと……何から話そうか……」
目の前の「カナト」という人は戸惑っていた。彼が話していることを信じていいのだろうか。私が記憶喪失? なぜ? 事故にあったわけでもないのに。彼は誰なのだろう。つき合っていたって本当だろうか。
でも「君は誰?」と聞かれたのだ。「カナト」と名乗るこの人は、私のことを知っていると言いながら、確かに私に「君は誰?」と尋ねた。本当に私のことを知っているのだろうか。こんなに信用できない男と、なぜふたりきりで車に乗っているのだろう。この人が言うことは、不審な点が多すぎる。俄かには信じられない話ばかりで、辻褄が合っていないように感じた。
記憶喪失なんて使い古されたネタだと思っていた。私は誰? ここはどこ? そんな呆けていられる状況ではなかった。隣にいる男が誰だかわからない。恐怖でしかなかった。何か変な薬でも飲まされたのではないか。そういえば、身体がとても怠い。私は車に乗せられ、どこに連れて行かれるのだろう。彼は「海に着いた」と言っていた。なぜ海? こんな夜中に海で何をするつもりだったのだろう。もう、何も信じられない。彼が何を言っても、真偽がわからない。怖い……怖い……逃げ出したい……どこへ?
でも……目の前の「カナト」という人は、とても傷ついているように見えた。優しく微笑んでいるように見えるけれど……泣いているのだろうか。
本当に覚えていないんだ。戸惑う結衣の仕草に、胸が絞られるような痛みを感じた。ふと触れた耳がピアスだらけで、驚いている。鏡を見て、「これが私?」と、ショックを受けているようだった。こんなことってあるだろうか。記憶ってこんなタイミングで簡単に失ってしまうものなのだろうか。僕たちがふたりで戦ってきた日々は、風に散っていく花びらのような、そんな薄弱なものではなかったはずだ。彼女は僕のことを全く覚えていない。何年も前から、彼女の時間が途切れてしまったようだ。
彼女は忘れてしまった。すべて……。彼女の病気について調べていた時に、抱えきれない苦痛がキャパオーバーして、自身を守るために記憶ごと失うことが稀にあると見かけたのを、ぼんやり思い出した。辛いことを覚えていないのだから、これでいいのだろうか。目の前の彼女は、毒気のようなものが消えたのか、幼く見える気がする。それとも記憶を失う以前の結衣に若返ったのだろうか。嘘みたいな現実に僕は戸惑って、僕の知っている結衣の話を、とりとめもなく話すことしかできなかった。突然身に降りかかった悲しい事故。何が起きても不思議じゃないと、彼女と暮らす時に覚悟していた。それにしても。こんな残酷なことがあるだろうか。
僕を見る彼女の目は、僕の知っている結衣の瞳ではない。他人を見る目、警戒と不信感。そして恐怖と衝撃。彼女にとって、僕は「知らない人間」。ずっと、誰よりもそばにいたのに。
僕は、「僕の知らない結衣」に何度も出会った。その度に「初めまして」の挨拶を交わし、ぎこちない会話をしても、しばらくするといつもの結衣が戻ってきた。戻ってくるという安心感があった。でも今回は、そんなに都合よく行かなそうだ。だって、彼女は結衣だから。
「ごめんなさい」——謝らないでほしい。遠ざかった距離を痛感してしまう。君のせいじゃない。誰を責めることも、何を呪うこともできないこの状況。せめて、僕の前でもう少し安心してほしい。
彼女の中から、僕が消えた。共に過ごした時間が、僕だけのものになった。「v」のサインも、目潰し焼きも、僕だけの記憶。なぜだろう。辛く苦しかった日々も、とても愛おしい。
僕が、消えてしまった。
こんな形で、忘れられてしまうとは思わなかった。ページをめくるように、結衣と過ごした時間が、ワンシーンごとに蘇る。とめどなく僕の中を流れていく記憶が、どれも儚いものだと知った。それでも、僕は覚えている。ずっとそばにいた結衣。僕だけの記憶。僕だけの結衣。
泣きそうになるのを必死に堪えて、僕は結衣を海に誘った。結衣が見たがっていた海。彼女は、戸惑いながらも僕についてきた。手を繋ぐこともなく、僕から少し離れて歩く結衣。僕たちが結婚の約束をしていたことは、話せないままだった。これからまた、一緒に記憶を作っていくことができるのだろうか。
もうすぐ陽が昇る。風の音、波の音。ゆっくり昇ってきた始まりの明かりに照らされて、水面がキラキラと輝いていた。
「海が生きてるみたい……」
結衣はそう、呟いた。
【了】
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最後までお読みいただきありがとうございました。
過去の亡霊たちへ、愛を込めて。
葉月Lエンデ
あとがき的なやつはこちら
