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水面に揺れるスタートライン 第5話

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 目が覚めた時、外はまだ明るかった。普段の私なら、もう一度ベッドに潜る。何もすることができなくて、不安の波が襲ってくる前に眠りについて、時計の針を進めるのだ。そうしているうちに奏斗かなとが帰ってくる。私の一日はそこから始まり、奏斗が眠りに就いた時に一日が終わる。短い一日だ。そして次の日が始まるまでの受難の時間が果てしなく長いのだ。
 奏斗と結婚の約束をした。奏斗は私なんかより、他の女性と一緒になった方が絶対に幸せになれるのに。私が奏斗にしてあげられることより、奏斗にしてもらうことの方がずっと多い。なぜこんな私と結婚の約束なんてしてくれるのだろう。いや……なぜ私はこんな害悪の塊になってしまったのだろう。いつから? こんなはずじゃなかったのに。
 奏斗と出会った頃までは、私は自信に満ち溢れていた。夢を追いかけ、その夢をつかむことができると信じていた。誰にも負けないと思える武器だって、ひとつやふたつじゃなかった。自分に魅力があることを知っていた。だから誰とでも打ち解けることができた。嫌いなものは嫌いとはっきり言えた。それを口に出しても、誰からも非難されることはないと思っていた。若さだったかもしれない。子供だったのかもしれない。それでも、今よりずっと人間らしかった。苦しい時間はいつまでも続くものではないと思っていた。毎日やることがたくさんありすぎて、そんな充実した日々を送りながら、さらに上を目指していた。

 なぜだろう。過去のことを思い出すと、楽しかった記憶も胸を締め付ける。苦しく辛かった記憶が後には懐かしくなったり、幸せだった記憶を思い出すのが辛くなったりするのは、多分、過去と現在のギャップによるものだ。過去の私は、自分から見てもかっこよかった。クールな生き方ができていたと思う。あれが本当の私のはずなのに。……いや、今のこんな私が本来の姿なのか? 鎧を剥ぎ取られて、本来の醜く脆い自分が晒されているのだろうか。過去の記憶に頼っても仕方がない。記憶なんて所詮、書き換え可能なデータファイルだ。本当は今思うほど、昔の自分はかっこよくなかったかもしれない。過去の私はそこに生きていて、それを振り返っているのは今ここに生きている私。違う世界に生きているのだ。その世界の間には時間という名のフィルターがかかっていて、現在の私がフィルター越しに過去を覗き、記憶というものを作っている。そこには自分の思いや希望も加わって、過去の私が今の私に料理されている。それが記憶というものではないか。そんなものに頼って生きるのは、現在の自分が認められない証。私は未だに、自分の病気を受け入れることができなかった。我ながら情けない。今のこの、何もできない無様な私が全てなのだ。それ以上でも以下でもない。もっとも、これ以下は今は考えられないけれど。
 ……いや。奏斗がいてくれる。これだけで今は十分だ。幸せを幸せと感じられないのが不幸なのだ。ちゃんと現在を見てみよう。幸せなはずでしょう?

 幸せなはずなのに、なぜ具合が悪くなるのか。私を不安にさせる要素が多すぎる。常に何かに怯え、苦痛を感じている。全てが恐怖の対象になってしまうけれど、一番の恐怖は自分自身の中にある。私の中身が恐ろしい。この身体を喰い破って表に出てきてしまわないよう、必死に中身を飲み込んでいる。酷く疲れた。薬を飲んだら落ち着くだろうか。いつから私は薬なんかに頼るようになったのだろう。そもそも、解離性障害という病気に効く薬は存在しなかった。次々と顕れる症状に対処するための薬を飲むしかない。それはドーパミンを抑える薬だったり、抗鬱剤だったり、症状が増えるたびに薬は増えていく。最初の頃は、薬を飲むことに強い抵抗があった。風邪をひいたから風邪薬を飲む、というのとはわけが違うと思った。頭の中をコントロールされるのだ。こんな小さな錠剤に。頭の中というのは、すなわち自分自身なわけで、思考や感情を薬でコントロールされるというのは自我を破壊されるのと同じだ。実際、すでに破壊されているから薬で修復しているのかもしれないけれど、それにしても。薬でコントロールされたら、真の自分の姿がますますわからなくなる。薬のせいでこうなっているのか。薬のおかげでこうなっているのか。自分の感情が信じられないという恐怖を、薬を処方する医師たちはどれだけ理解しているのか。

 ――でも。ふと思い出す。 

 昔、物語を作ったことがあった。病気になったばかりの頃、急に何もできなくなって、そんな自分が許せず何かしたくて堪らなかった。もがいた末に、お話を作ることならできるのではないかと思って、何となく物語を作ってみたのだ。それは小説なんて言えるような大層なものではなく、本当にただ「お話」を作っただけのものだった。ヒーラーという化け物と、精神科医の男の話。患者を苦しめる感情は不要なものだと主張して、心を病んだ人々の感情を喰らうヒーラー。それに立ち向かう精神科医。どんな感情だって不要なものは何ひとつない。いつか笑顔になる日だって訪れるのに、お前はその笑顔まで喰ってしまった――。確かそんな話だった。けれど、ラストがどういう結末だったのか思い出せない。精神科医が正義だったはずだけれど――。少なくとも今の自分の感情は、不要なものばかりに思えた。薬はヒーラーの役割りを果たすものなのだろうか。笑顔も共に、喰ってしまっていないだろうか。

 私はベランダに出て、タバコを咥えた。「時間が欲しい」と言っている人が羨ましい。私の時間を分けてあげたいくらいだ。何もできない自分の身体を持て余す。何もできない。何もできない? こんな言い訳をする自分に嫌気がさす。私は自立したくて、長いこと、今の自分にもできる何かを必死に探し求めてきた。しかし、片っ端から手をつけては、諦め、また新たなものを見つけては、挫折し、いつしか自分には何もできないのだと悟ってしまった。それでも、自分で「何もできない」と開き直ってしまうのには抵抗がある。病気の自分を認められないくせに、その病気を言い訳にするのは卑怯だろう。何度挫けても、プライドと自立心は人並みに残っていた。「何もできない」なんて、もがくならまだしも、開き直るわけにはいかない。
 今、何かできるものがあるだろうか? 部屋の片づけくらいならできるのではないか? ほんの些細なことでも、自分の存在意義を確かめたい。そうだ、部屋の片づけをしよう。今ならできそうだ。急に気持ちが昂ってきた。奏斗もきっと喜んでくれる。褒めてくれる。何かできる時にやらなくちゃ!

 今から帰ると連絡しても、結衣ゆいから返信はなかった。既読もついていなかった。僕は不安に駆られ、駅に着くと早足で自宅に向かった。マンションの動きの遅い旧型のエレベーターを待っていられず、階段を駆け上った。運動不足で動悸が激しくなり、その鼓動に不安な気持ちが煽られた。ドアを開けると、玄関は真っ暗だった。
「結衣!?」
 ドカドカと短い廊下を進んで部屋に入ると、キッチンの窓から差し込む街灯にほんのりと照らされた人影を見つけた。結衣だ。結衣がシンクを磨いている。僕は慌てて電気をつける。結衣が眩しそうにこちらを振り向いた。
「奏斗! おかえり!」
 洗剤のついた手をいそいそと洗って、僕の元へ駆け寄ってくる。
「お部屋の片づけしたの! 見て!」
 誇らしげな結衣を前に、とりあえず、彼女が無事だったので安心はしたが、また別の不安が出てくる。結衣はひとつのことをやり出すと、没入してしまう傾向があり、これも症状のひとつだった。複数の人格を抱えることによって脳に負担がかかり、疲労する。そのためドーパミンが過剰に放出され、没入してしまうのだ。難しいことはよくわからないが、薄暗い中、明かりもつけずに夢中になってしまうなんて、あまりいい状態ではないのは明らかだ。
 結衣に急き立てられ、部屋を見回すと、確かに見違えるように綺麗になっていた。明かりがついていなかったということは、まだ外が明るいうちからずっとやっていたのだろう。結衣はぴょんぴょん飛び跳ねたりしていて、とても楽しそうな様子だが、少し落ち着かせた方がいい。
「結衣、ごはん食べてゆっくりしよう?」
「あ、ごめん、まだコンロのとこやってないから先食べてて!」
 これは強引にでも休ませなければならない。僕はなんとか説得して、渋々ついてきた結衣の手を引いて、コンビニに向かった。外に出ると、結衣のテンションは落ち着いてきた。僕が無理矢理手を止めさせたから、落ち込んでいるのかもしれない。僕は、いつもよりなるべく優しく彼女に接することにした。こういう時の彼女は、とても繊細だからだ。

「へー、部屋きれいになってんじゃん」
 食事を終えて間もなく、りのが登場した。テンションの高い結衣のようだが、この軽い調子はりのだ。彼女は、物色するように部屋を見て回り、ベッドに落ち着いた。僕は椅子に座って、そんなりのを目で追っていた。
「ねー、結婚するんでしょ?」
 よくわからないが、彼女は結衣を通して、いろいろなものを見て、聞いている。だから僕がプロポーズしたのも知っているのだろう。りのはニヤニヤしながら僕を見る。どうせ揶揄からかわれるのだろう。ふたりきりでいた時にプロポーズしたのに、実はどこかにカメラが仕掛けてあって、たくさんの人にモニターで見られていた、そんな気分だ。
「ね、キミたちってさ。プラトニックだよね」
 そういう方面の話をされるとは思わなかった。
「結婚するのにやんないの? やんないまま結婚するの?」
 露骨に興味津々な表情で、りのは畳み掛けるように尋ねてくる。そんなことをりのと話すつもりはなかった。いくら結衣の人格だと言っても、とてもプライベートな問題だ。そもそも、結衣ともこういう話はあまりしなかった。なるべく避けてきたのだ。勝手な憶測だが、彼女はそういうのが苦手だと思っている。つまり、性行為をしたくないのではないかと。
 今まで、何度かそのチャンスはあった。一緒に暮らしているのだから当然だ。僕も男だし、そういう欲は人並みにある。でも、毎回途中で手を止められるのだ。服を脱がそうとした時、胸に触れようとした時、さりげなく手を止められ、「また今度にしよ?」と流される。僕はなんとなく察するしかなかった。「抱っこ」はしたいけれど「セックス」はしたくないのだと。
「結衣に手が出せないの?」
 りのが面白そうに尋ねてくる。
「だって……彼女はそういうの嫌なんだろ?」
 さりげなく僕は、りのから情報を引き出そうとしていた。
「そんなことないと思うよ? 前は結構男関係派手だったし」
「え、そうなの?」
 そんなことは初耳だった。
「狂ったようにセックスしてたよ」

 僕は言葉が出なかった。なんという感情だろうか、これは。嫉妬? いや、もっと複雑だ。裏切られたような気持ちもある。過去のことなのだから裏切りもないのだが、僕の中の結衣が、汚された気がした。
 そんな僕の反応を面白がるように眺めているりのが許せなかった。バカにされている気もした。僕はずっと、結衣を傷つけたくなくて、壊れ物に触れるように大事に扱ってきたつもりだ。狭い部屋の中、目の前で着替える結衣、無防備な結衣の姿に何度欲情したことか。ずっと抑えていた自分。結衣を傷つけたくない一心で。僕が可笑しいか? 滑稽か?
 その後、りのが何か言ったが、僕は返事をしなかった。聞こえないわけもないのだが、聞こえないふりをした。「話したくない」を言葉にしないで表現する手段は、これしかなかった。
 りのは去り、結衣が戻ってきたが、僕はうまく話せなかった。不安そうに僕の心配をする結衣。僕は「なんでもないよ」と言って、結衣の頭を撫でた。僕の大事な結衣。笑われてもいい。僕は結衣を傷つけたくない、それだけだ。今の彼女が嫌がるのなら、僕はそれ以上手を出さない。



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