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水面に揺れるスタートライン 第4話

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 仕事を早めに切り上げて、地元の駅に着いた。結衣ゆいとカフェで待ち合わせをしている。カフェは駅と自宅の中間あたりにある。結衣はもう店に着いているだろうか? 連絡をしようとスマホを取り出しながら歩いていくと、軽い人だかりができていた。喧嘩だろうか? 怒鳴るような声、ガシャーンと自転車か何かが倒れる音。結衣がこんなものを見たらまた具合が悪くなる。店へ急ごう。遠巻きに見ている人の隙間から、ちらっと覗いて、ハッと息を呑んだ。白いダウンを着た金髪の男と、その胸ぐらを掴んでいるのは――倉橋くらはしだ。
「倉橋!」
 ちょうど自転車で通りがかった警官と僕が、ほぼ同時に止めに入った。
「何こいつ、マジやベー」
 胸ぐらを掴まれていた金髪の男が引きつった笑いを浮かべた。
「倉橋、やめろ」
 僕が倉橋の腕を掴むと、初めて倉橋は僕に気づき、男から手を離した。
「俺は悪くねぇぞ! こいつがあいつに絡んできたんだ! あいつをバカにして絡んできたのはこいつなんだよ!」
 倉橋は興奮していた。僕は何となく状況を把握した。男は「やベー」を連呼している。実に頭の悪そうな男だった。おそらく、本当にこの男が先にちょっかいを出してきたのだろう。でも手を出したのは倉橋。胸ぐらを掴んだだけで終わったからよかったものの、僕が一歩遅かったら……。
「ちょっと事情を聞かせてね。ほら、こう、揉め事は放っておくわけにいかないから、一応ね」
 頼りなさそうな小柄な警官が割って入った。倉橋が唇を噛んだ。警察沙汰になってしまったのは、本当に運が悪かった。
「倉橋、僕はお前を信じるよ。守ってくれたんだろ? 結衣を」
 倉橋は足元に視線を落とし、舌打ちをして地面を蹴った。
「えっと……倉橋……さん? 名前をフルネームで」
葉山はやまです」
 僕が答えた。

「葉山結衣」



 その後、軽く職務質問をされて、僕たちは解放されるはずだった。結衣が知らないうちに全て片づくはずだった。しかし、警官とのやり取りを一通り終えた瞬間、倉橋が消えたのだ。「悪かったな……」悔しそうにそれだけ言い残して、彼は自分の世界へ帰ってしまった。ぐらっと身体のバランスを崩した結衣を僕が支える。ゆっくり意識が戻ってきた結衣は、周りの状況が掴めないでいた。自分を奇異の目で見る人々。隣に立つ警官。何かが起きた、ということは理解したらしい。
「大丈夫だよ。もう大丈夫だから」
 僕が肩をしっかり持って言い聞かせても、結衣は力なく僕にもたれかかったまま、呆然としていた。不意に、結衣は手で顔を覆って、声もなく小さく震えながら泣きだした。そんな結衣の変容を周囲は楽しんでいるような気がする。スマホで撮影されるなんて最悪の事態にならなかったのは救いだったかもしれない。戸惑いながら心配する警官に、「大丈夫だ」と伝えて、結衣を支えながらゆっくりその場から離れた。

「何があったの……?」
 何とかたどり着いた自宅で、力なく背中を丸めてベッドに座った結衣は、少し落ち着きを取り戻していた。僕は彼女にインスタントのあったかいココアを作り、スプーンでカップの中をゆっくり混ぜながら、隣に座った。僕が差し出したカップを両手で受け取り、口をつけずに僕の言葉を待つ。
「守ってくれたんだよ、倉橋が」
 どう説明するのが正しいのかよくわからなかった。僕もその現場を最初から見ていたわけでもなかったし、絡まれたのは結衣、本人のはずだ。それが意識のないうちに警察沙汰になっていて、「守られた」というのもおかしな話だ。
「倉橋が暴れたの?」
 結衣は不安に顔を歪めながら尋ねた。彼女は瞬時に「守ってくれた」を「暴れた」に変換した。結衣の中では、倉橋は「乱暴な男の子」という認識で、自分を守ってくれるような存在ではなかったのだ。僕にとっては、割と話せる男友達のようなものになっていたが、倉橋はかねてから彼女の不安の種だった。それは過去に、彼女が入院していた時期、倉橋が暴れてパイプ椅子を投げつけたり、何かと問題を起こした経験があったからで、僕もその話を聞いて、初めて倉橋と対面した時は、少々警戒した。しかし、話してみると意外と筋が通っていて、「ただの乱暴者」ではないと感じた。それを今まで何度か結衣に話して、安心させようと試みたのだが、彼女の不安を完全に消すのは難しかった。だから今日の事件は、彼女にとって他の人格に対する不安がさらに膨れ上がる結果となったのだ。
 結衣の頬に再び涙が流れた。今度は手で拭うこともなく、両手でカップを包みながら、ただ静かに泣いていた。
「ねえ」
 こういう時の「ねえ」に続く言葉は、大体ろくなものじゃない。「ん?」と答えながら、軽く彼女の髪を撫で、何が来るだろうと身構える。
「別れよう?」
 結衣が別れを切り出すのは、初めてではなかった。彼女が別れ話を持ちかけるのは、決まって彼女にとって僕が必要な時だった。それでも、別れ話はいつも本気だということを知っている。彼女は自分がこれ以上迷惑をかけることを恐れているのだ。ただでさえ低いのに、著しく低下する自己肯定感のせいだろう。僕にとって「迷惑」だなんて思ったことは一度もないのに。
「私といたら、奏斗かなとまで変な目で見られるよ」
 今日、僕たちを見ていた周囲の目は、結衣の心に突き刺さっていた。彼女は今まで幾度もこのような視線に晒されていたはずだ。彼女自身は、もう周囲の目を気にする段階は過ぎていた。でも、僕を巻き添えにするのを彼女は未だに拒む。僕もそんな段階はとっくに過ぎているのに。
「大丈夫だよ。僕はそんなの気にしたこと一度もないって、いつも言ってるでしょ?」
 本当のことを言うと、最初の頃はかなり気にしていた。僕が、というより、彼女が変な目で見られることが耐えられなかった。でも今は割り切っている。結衣が大丈夫なら、僕も大丈夫だ。
 実際に自分だったら、と考える。自分がもし街中で結衣のような人を見かけたら。やはりどうしても気になって、見てしまうだろう。それは決して好奇の目ではなく、純粋に心配だからだ。でも、その人に何かしてあげることはできないだろう。流石に危険な状態になったら何か自分にできることを探すだろうけれど、それまでは何も手を差し伸べることはできない。
 多分、大多数がそういう人なのだと思う。そう信じたい。……なんて思っていたけれど、現実はそんなもの綺麗ごとで、悪意の有無はともかく、やはり面白がる視線も少なからず感じる。それに対して僕が抱く感情は、恥ずかしさではなく悔しさだったけれど、そんな思いは何の戦力にもならないと気づいた。ただの好奇の目は相手にしない。実際、錯乱状態の彼女を前にして、他人の目を気にする余裕もなかった。勿論、悪意のあるスマホが向けられたりなどしたら、何があっても彼女を守るだけだ。
「別れよう?」
 彼女はもう一度言う。まるで自分の傷口に何度も爪を立てているように感じた。
「私を信じないで」
 結衣が不安に耐えられなくなった時によく言うセリフだ。僕は黙って、彼女の髪を撫でながら考える。ここから抜け出す解決策。
「私……何をするかわかんないよ」
 自分の意識がないところで、何かが起きている。そんなことが続いたら、自分でも自分を信じることはできないだろう。それは彼女の中に、当たり前に存在する不安だ。極端に言えば、知らないうちに誰かを殺してしまうかもしれない、そんな恐怖を常に抱えている。でも、僕はいつも彼女に言うことがある。すべて結衣なのだと。他の人格もすべて結衣だ。結衣の中から生まれたものだ。だから自分が絶対にしないことは、他の人格もしないのだ、と。それでも彼女の不安は消えない。実際に自分がしないようなことを、他の人格がするからだ。でも、僕は思う。「自分がしないこと」ではなく「自分にはできないこと」なのではないかと。自分では言えないことを、他の人格が代わりに言う。自分の怒りを、他の人格が表現する。自分の涙を、他の人格が流す。そういうことなのではないか。彼女はただ、極度に不器用なだけなのではないか。もしかしたら、僕は彼女の病気を全く理解していないためにこのようなことを思うのかもしれない。自分にとって都合がいいように、病気を解釈しているのかもしれない。それでも、これは「すべての結衣」を愛している僕の考えだ。僕にとってはそれでいい。誰にも文句は言えないはずだ。
「ねえ、結衣」
 僕は彼女の肩に手を置いて、自分の思いをゆっくり整理しながら言葉にした。
「結婚しよう」
 彼女は目を見開いて驚いた。突然のプロポーズ。別れを切り出した後のプロポーズに戸惑っている。普通に考えたら、おかしな話だ。「別れたい」「じゃあ、結婚しよう」と言っているような、彼女が投げたボールを、グローブで打ち返したようなものだ。でも、結衣が別れを切り出したのは、僕のためであって、彼女の意思ではないと思っている。それって、僕への愛だと解釈しても良いのではないか?
「無理だよ……」
「なんで無理だと思うの?」
 彼女が僕を愛していると信じきっている僕は、頭にお花が咲いているのだろうか。問題は複雑だというのはわかっている。どんな問題も、愛で乗り切れるわけじゃない。それでも。その問題は僕たちを隔てる理由には不十分だ。
 結衣の手からカップを取り上げ、頼りなく細い身体を抱きしめた。
「無理じゃない」
 僕は彼女と、そして自分に言い聞かせるように言った。
「結婚しよう」
 もう一度、言葉に力を込める。彼女は僕の胸に顔を埋めたまま、強く僕の体を抱きしめた。
「……ありがとう」
 そしてその後、「ごめんね」と続けた。「こんな私で、ごめんなさい」……全然構わない。そんな結衣だからこそ、一緒にいたいのだ。



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