水面に揺れるスタートライン 第3話
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「変な奴だよね、キミって。普通ならこんな結衣といたら逃げ出すのに」
椅子に座って足をぶらぶらさせながら高めの声で話す目の前の結衣は、今、結衣ではない。りのという18歳の少女だ。彼女は自由奔放で、失礼なことも平気で口にする。結衣が話したくないであろう結衣の話も、全部彼女からだだ漏れだ。彼女は頻繁に現れた。結衣の人格の中で、一番結衣のことを知っているようだった。とはいえ、りのの話が真実なのかは、不明だ。やたら結衣を貶めることを言うし、敵意とまではいかなくとも悪意は度々感じた。それでも、結衣が知らないこともなぜか知っていたりするし、僕にとっては結衣を知る手がかりになる。だから僕は、彼女も結衣の一部だと思って、真剣に向き合っていた。
「りのちゃんも知ってるんでしょ? 『ヤツ』のこと」
「あー……あれかぁ」
りのは顔を曇らせた。やはり、りのも脅威に感じているのだろうか。
『ヤツ』というのは、結衣に最も恐怖を与えている存在だった。彼女の話に度々出てくるので、結衣が恐れているものとしての認識はあるのだが、正体はもちろん、その詳細は僕にはわからない。結衣が『ヤツ』の話をする時は、大抵錯乱状態だからだ。けれど、りのの様子を見る限り、他の人格にも少なからず影響を与えていると考えて良さそうだ。
「不気味なんだよね、あいつ。ブラックホールみたいで」
どこか他人事のような口調で、それでいて思い出したくない嫌悪感のようなものを見せながら、りのは答えた。
自分の中に存在するブラックホール……。どんな感覚なのだろう。結衣になってみなければ、わからないことだらけだった。
緑色の顔をした作業服の男が、散弾銃を構えてゆっくり、ゆっくり追ってくる。すごく動きは鈍いのに、私は絶対に逃れることができないと知っている。それでも必死に逃げる。広すぎる洒落た通り。足元に血に塗れた死体が無数に転がっている。私たち以外に生きている者は誰もいない。男は恍惚とした表情を浮かべて、大きく息を吸い込みながらゆっくり迫ってくる。まだ撃たない。愉しんでいるのだ。私は転がった死体を踏みつけ、足首がぐにゃりと曲がる。重なった死体の上に尻餅をつく。手をついた先は、死体の頭、血のりで固まりかけた髪の毛。もう逃げられない。膝が震えて動けない。殺すなら早く殺してほしい。解放されたい。目の前の男は、まだ撃たない。
目が覚めた……はずなのに。ベッドの脇に作業服の男が立っている。緑色の顔がゆっくり口角を上げ、汚らしい歯を見せた。息もできず、膝の震えが止まらない。私が硬直していると、男の姿は徐々に消えた。私が残されたのは、いつもの奏斗の部屋だった。安全な場所。安全な場所? 男がいたのに。私に安全な場所なんて存在しない。私の中に『ヤツ』がいる限り。
生きている心地がしない。本当に私は生きているのか? どこに? 自分が生きている世界がわからない。腕の古傷に触れる。私の腕には、ケロイド状になった深い傷が無数に走っている。これは私が、自分がどこに存在しているのかわからず、生きていることを確認するために切りつけたものだった。今はそんなこともしない。溢れた血を啜っても、自分が「どこに」存在しているかはわからなかった。全て、『ヤツ』のせいだ。
『ヤツ』は私が学生の頃から、私の中に存在していた。その頃はまだ私は自分を保っていられたが、『ヤツ』は次第に私の中で膨れ上がり、私は『ヤツ』に破壊された。
私は常に『ヤツ』に監視されている。中から全て見通されている。逃れることができない絶対悪。いつも不気味にうすら笑っているのを感じる。絶対悪に憎しみなんて可愛らしいものは存在しない。ただ、私が発狂するのを愉しみ、いつか私が私を放棄するのを待っている。それまで内側から徐々に侵食されていき、いつか私は『ヤツ』になってしまう。
悪夢は『ヤツ』が私に仕掛ける唯一の攻撃だ。私が全壊するまでは、決して表には出ない。その姿を強いて表現するなら、大きな目玉。瞬きひとつしないで、睨むわけでもなく、ねっとりと監視を続ける。私の身に起こることは、全て『ヤツ』に仕組まれている。
柴崎先生は、『ヤツ』のことを「人格にならない強い感情の塊」と言っていた。『ヤツ』を生み出したのは私なのだろうか? 信じられない。自分に自分が侵食されるなんてことがあるだろうか?
大きく息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。激しい鼓動を鎮めたい。私はすごく冷静だ。胸の中はぐちゃぐちゃだけれど、頭は必要以上に冴えている。しっかりしないと、『ヤツ』に食い潰されてしまう。
プロジェクトが順調に進み、最近は仕事に少し余裕が持てる。しかし、僕には不安があった。この業界は閑散期と繁忙期の差が激しい。プロジェクト末期になったら、ほとんど泊まり込みで作業することになる。そうなったら結衣をどうしようか。幸い、現在は大きなプロジェクトに所属しているため、当分泊まり込みになるようなことはなさそうだ。問題を後回しにするのは好まないが、今は考えても仕方ない気がする。その時の結衣の状況次第だ。
帰宅すると、結衣はベッドに横になり、スマホをいじっていた。具合が悪そうなのはわかっていた。元気な時は、玄関まで顔を出すからだ。
「またネット見てたの?」
「んー……」
結衣は怠そうに画面から目を離して、スマホを投げ出した。
「こういう人たちと一緒にされたくない」
また、SNSかなんかを見ていたのだろう。彼女はネットに蔓延る精神障害者を嫌悪していた。僕はバイト時代、彼女にストーカーになった元カノの相談をした時のことを覚えている。結衣はメンヘラと言って、そういう人種を嫌悪していた。実際、元カノは精神障害者ではなかったけれど、いわゆる「メンヘラ」と呼ばれる類の女の子だったようだ。元カノのように、SNSに傷つけた手首の画像をアップしたり、不特定多数の人に向けて「死にたい」と呟いたりするのは、確かに結衣が言っていた通り、かまってほしいだけなのかもしれない。
でも、実際の精神障害を抱える人でも、自分がどんな状況なのかSNSやブログ等に吐き出して、それに共感する者たちで理解しあったりする。彼女はそういうのが嫌いなのだ。実際には多かれ少なかれ、身内の助けは必要だったにしても、彼女はなるべく苦しむ姿を隠す努力をしてきたつもりだという。それは余裕のない彼女にとって、周囲への気遣いではない。病気の自分を受け入れられない故に、自分を害悪だと思い込み、その姿を可能な限り隠してきたのだろう。そんな彼女だからこそ、不特定多数の人間に理解を求めることに対して、抵抗がある。
「同じ病気だからわかるとか、ありえない」
前に彼女が言っていた。入退院を繰り返していた彼女は、妙な仲間意識を持って近づいてくる人たちをたくさん見てきたようだ。理解なんてし合えない。それが彼女の結論だった。考えてみれば当たり前だ。それぞれ環境、病状も異なるわけで、言ってみれば「君どこ中? まじ? 一緒じゃん。あいつ知ってる?」みたいなノリで近づいてきてほしくないのは理解できる。そもそも、彼女は自分と同じ病気の人に出会ったことはなかった。ただ同じ、精神疾患を抱える者同士。傷を舐めあっても、何の解決にもならない。彼女らしい考えかもしれない。
しかし、だ。ならなぜ見たくないネットを見る? 何度も見るなと言った。いつも具合が悪くなるからだ。彼女の同族嫌悪は理解できない部分があった。一体何を求めてネットを開くのか。見たくない世界を覗く行為は、自らを傷つけるという点で、ある意味自傷行為のようなものなのではないか?
「奏斗が帰ってくるまで時間が重くて……ついネット見ちゃうの」
時間が重い。彼女がよく使う言葉だ。辛く苦しい時間をやり過ごしたいのだろう。元気な人が聞いたら、なんと勿体ないことかと嘆くかもしれない。多くの人にとって大事な時間を、ただ重い時計の針を進めるためだけに費やすなんて。
でもそれが彼女の日常だった。よく耐えたね、と褒めてあげるしかない。僕は着替えもせず、そっと彼女の隣に横たわり、抱きしめた。倉橋にバカにされた「抱っこ」だ。いつものように、強張った彼女の身体から力が抜けていくのを感じた。
すすり泣く声で目が覚めた。いつの間にか寝てしまっていたらしい。
「結衣?」
寝ぼけながらそっと結衣の頭を撫でたが、手の甲で涙を拭う仕草、軽い嗚咽と表情で、結衣じゃないことがわかった。
「ゆきおくん?」
ひっく、ひっくとしゃくりあげているのは、ゆきおという6歳の男の子だった。
「どうした? また怖い人がいたの?」
僕は努めて優しい声で尋ねる。頷きながら、しゃくりあげる。僕はそっと指先で涙を拭ってあげた。
「怖い人がボクのこといじめるの……いつも……いつも……」
怖い人というのは『ヤツ』のことなのか? それとも別の人格のことなのか。ゆきおがいる世界がよくわからない。ゆきおはいつも何かに怯えていた。慰めようと話を聞こうとするのだが、主語と述語がはっきりしていなかったり、形容詞が独特だったりして、彼の身に起きていることをいまいち把握することができなかった。なんとか推し量って、幼い子どもに接する。今まで子どもと接点がなかった僕にとって、それは骨の折れる作業だった。
僕は枕元にあったクレーンゲームのぬいぐるみを手に取った。青い猫のような、モンスターのような、よく分からないマスコット。前にゲームセンターに行った時、結衣が欲しがって千円つぎ込んでゲットしたものだった。
「ほら、ゆきおくんの友達だよ」
こんな子ども騙しの手法でいいのだろうか。誰も見ていないのに、少し恥ずかしさもあった。ゆきおは涙を拭って、じっとぬいぐるみを見つめる。そして手を伸ばし、軽く触れた。
「かわいいでしょ?」
「……かっこいい」
とてもかっこいいとは言えないぬいぐるみだったが、彼にはこれがかっこよく見えるらしい。ならば、こうだ。僕はほとんど自分を捨てて、ぬいぐるみを軽く振りながら語りかけた。
「ゆきおくん、僕が悪い奴を見張っててあげる! 僕に任せて!」
「うん……」
ゆきおはぬいぐるみに向かって頷いた。
「よかったね、ゆきおくん。もう大丈夫だね」
「うん……」
ゆきおはぬいぐるみを握りしめて、眠りについた。
僕はゆきおの髪を撫でながら、不思議な感覚に陥る。僕の前にいたのはゆきお。僕の目にはゆきおに見えた。でも、それは彼ではなく彼女、結衣なのだ。そう思って目の前の寝顔を見ると、いつもの結衣だった。どう接するのが正解なのだろう。でも、他の人格たちにも心を開いてもらわなければ、僕も何かとやりづらい。本当に全てが手探りだった。
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