水面に揺れるスタートライン 第2話
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僕が結衣と出会ったのは、学生時代にバイトをしていたカフェだった。彼女は当時、フリーターをしながらジャズのミュージシャンを目指していて、夢に向かって真っ直ぐな、ふたつ年上の彼女が僕にはとても眩しかった。明るく気さくで、年齢問わず誰とでもすぐ仲良くなれる。そんな彼女はバイト先でもちょっとした有名人で、週に2日くらいしか入らない学生バイトの僕は影が薄く、彼女と接点はほとんどないはずだった。でも、僕も当時はタバコを吸っていたので、休憩中、喫煙所で彼女と顔を合わせることが度々あったのだ。緊張のせいもあるが、もともと話すのがあまり得意ではなく、それに当時の僕はどこか冷めていたので、彼女と出会っても話すのはほとんど彼女の方だった。薄いブロンドのショートカットで、「かっこいいお姉さん」……そんな印象を覚えている。
「奏斗も結構ジャズ知ってるんだね。楽器とかやらないの?」
「僕は『聴き専』です。楽器はあまり興味ないんで」
やればいいのに、と言う結衣に、僕の母がバイオリニストだということは言わなかった。言う必要もなかった。僕は子どもの頃、母に見切りをつけられて、バイオリンを取り上げられた落ちこぼれだったからだ。
一度だけ、僕から彼女に相談したことがあった。当時、前につき合っていた女の子がストーカーのようにつきまとってきていて、結構本気で悩んでいた。でもそれを結衣に相談したのは、多分「自分はモテる」ということをアピールしたい気持ちがあったのだと思う。
「大変なんですよ。僕と別れてからリスカしたとか言って手首の写真が送られてきたり、薬を2シート飲んだとか連絡きたり……」
「うわ、きついね」
結衣は顔をしかめて、嫌悪感を顕にした。
「私、ほんとそういうの無理。ファッションメンヘラとか? あれって結局かまってほしいだけで死ぬ気なんかないでしょ? 本人も辛いのかもしんないけどさ、自分のことしか考えらんないんだよね。周り振り回して、いろんな人に辛いですアピールしてさ。……あ、ごめん、元カノなのに」
「いや、僕もそういうの嫌いなんで」
結衣の思ったことをストレートに言う性格も、気持ちがよかった。
「そういうのダラダラつきあうとろくなことないよ。中途半端な優しさ見せないで、はっきり迷惑だって言った方がいいと思う」
僕はその後、はっきりその子に言った。彼女は「死にます」とSNSに呟き、僕は酷い罪悪感に苛まれ眠れない夜を過ごしたが、数日後には何もなかったかのように他の男と仲良くやり取りをしていた。そのことは結衣には言わなかった。僕の「モテてるアピール」が薄っぺらくなってしまう気がしたからだ。そんな背伸びをしても届く気がしない、憧れの女性が結衣だった。
しかしそれから間もなく、結衣はバイト先から姿を消した。仲間もお客さんも寂しがって彼女に連絡をしたそうだが、消息は不明だった。僕からは連絡を試さなかった。そもそも、連絡先を知らなかったのだ。
結衣がバイトを辞めてからしばらくして、僕も就活のためにバイトを辞めた。卒業後、学生時代から決めていた、ゲーム業界に就職することができ、企画を考案するクリエイターになった。ゲームのプランナーというのは僕に向いていたらしい。それなりに自信もつき、大人としての責任も果たすようになった。
そんなある夏の日の午後。忘れかけていた結衣と再会した。僕は変わり果てた結衣に、はじめは気づかなかった。ただ、街中で目立っていたから、彼女の存在に気づいたのだ。正直、「見てはいけない人」だった。
「やめて……あっち行ってよ……!」
ひとりで小さな悲鳴を呟きながら、耳を塞いで立ち竦んでいるショートカットの女性。通り行く人々は、彼女を好奇の目で見たり、目を逸らしたりしていた。僕も自然と目を逸らしていたが、一瞬視界に入った姿が脳裏の何かと一致して、振り向いた。まさかと思った。でもそれは間違いなく結衣、かつて僕が憧れていた彼女だった。
「結衣さん……?」
周囲の目を少し気にしながら、僕は彼女の肩に触れた。ビクッと明らさまに身体を強張らせてから、恐る恐る視線を上げて僕の顔を見る。彼女の目は涙に濡れていた。
「僕……わかりますか?」
「かな……と……」
突然脱力したように呆けた顔の結衣は、真夏なのに長い袖が手の甲まで覆っていて、キャップを深く被り、ピンクのサングラスをかけていた。我ながら、こんな彼女によく気づいたと思う。僕の中にいた「結衣」という女性とは、だいぶかけ離れていた。
「私……おかしくなっちゃった……」
それは見ればわかった。影のようになった彼女は、妙なオーラを放ちながら、見えない何かと戦っていた。面倒ごとは避けたい性格。それなのに僕は、彼女を放っておけなかった。自分をひどく醜く分析するのなら、もしかしたら、あの結衣より自分が優位に立っているようで、気分は悪くなかったのかもしれない。いや、それは自分を卑下し過ぎだろうか。少なくとも、「彼女を守りたい」と思ったのは、純粋な気持ちだったと信じている。大人になった僕の手で、何かが壊れてしまった彼女を救いたかったのだ。これが恋愛感情によるものなのか、自分には判断ができなかったし、そもそも、そこまで彼女のことを知らなかった。なのに、なぜだろう。特別な存在になるチャンスを逃したくなかったのかもしれない。
しかし、結衣が抱えていたものは、僕が想像していたものを遙かに超越していた。決して安易な気持ちで「僕が助ける」と誓ったわけではない。ただ、状況を大して把握もせずに、自分にどうにかできると思ってしまったのは安易だった。短期間で人間が大きく変容するためには、必ずきっかけや原因が存在する。でも僕は、彼女がなぜ今こんな状態なのか、未だに完全には把握できずにいる。幼少期に電車の中で繰り返し痴漢に遭っていたことが原因だと考えられたが、なぜ今になって発病したのか。あの頃は、あんなに元気で強気だったのに。
「やめてください……」と小さな声で抵抗しても、その手が止まることはなかった。私が小学生の頃は、今ほどには世間が痴漢というものに対して敏感ではなく、その汚らわしい手は幼い子供にも襲いかかった。信じられないことに、そういうゴミのような大人はひとりやふたりではなかった。まともな世界に生きている人には想像もつかないだろう。塾に通うために乗っていた電車の中で、何度そのような目に遭ったことか。手が触れた瞬間にそれはわかる。どの指先も興奮に震えていた。下着を下ろされたこともあった。クズ共。私の敵は痴漢だけではなかった。見ているのに、助けてくれなかった大人たち。どんな気持ちで私を見てた? みんなクズだ。
結衣の病気は解離性障害というものだった。解離性障害には解離性同一性障害をはじめとして、幾つか種類があるのだが、彼女の場合、複数の症状が出ているので、総称して「解離性障害」と診断された。簡単に言うと人格の分裂や、自分を見失ってしまう離人感などが主な症状だ。しかし彼女は精神疾患のデパートのような状態で、それ以外にも双極性障害の症状や、パニックの症状、不安障害なども抱えていたので、彼女の病気を一言で表すのは困難だった。バイトを辞めて、僕と再会するまでに彼女は入退院を繰り返していたらしいが、次第に彼女は入院を拒むようになった。しかし結衣の家族は両親ともに仕事が忙しいらしく、日常生活もまともに送れない彼女を一人にすることが多い。だから僕は、彼女と再会して間もなく、一緒に暮らそうと提案したのだ。彼女も彼女の家族もとても驚いていた。正直、僕も自分に驚いた。でも、軽い気持ちで提案したわけではない。慈善事業の精神とも違う。単純に、強さも脆さも見せてくれた結衣に、気づけば夢中になっていた。僕にも仕事はあるが、彼女との生活と両立させる自信があった。仕事以外の時間を全て結衣に捧げる気持ちで――。
僕は、彼女と生活を共にすると決めてから、手探りで彼女の病気と向き合った。最初はネットから情報を得ていたけれど、結局は直接本人と向き合わなければ、実際に起こる症状は理解できない。彼女の中に存在する人格は現状把握しているだけで11人。頻繁にお目にかかれる人格から、レアな人格もいる。僕は全ての人格と出会ったわけではない。彼女の今までのデータから検出されたものだった。
一度、彼女の主治医、柴崎先生にも会ってみた。彼女が唯一、心を完全に預けられる存在。彼女にとって、なくてはならない人物だ。
柴崎先生と彼女の出会いは、不幸が重なった結果の幸運だった。バンド練習の帰りの電車内で突然発病した結衣。最初に現れた症状は、パニックの発作だった。それっきり家から出ることもできず、みるみるうちに著しく悪化していく急性期、異常に気づいた彼女の母親は途方に暮れて、近所のクリニックに手当たり次第連絡をした。しかし、どのクリニックも、彼女の状態を話すと受け付けてくれなかった。「うちではそんな重症な人は診ることができない」――訳すとそういうことだった。症状を説明すれば、ただのパニックではないことは明らかだったのだ。結衣の父親は彼女の病気を受け入れることができず、現実から目を背けていた。でも、どのクリニックからも断られて仕方なく、仕事で繋がっていた大学病院の副院長に連絡を取り、なんとかその病院の精神科に通院することが許されたのだ。
僕は初めて結衣と共に診察室に入った時、まず、柴崎先生がとても若いことに驚いた。しかし話してみると、彼女に対して真剣に向き合ってくれていること、彼女の精神状態をしっかりと理解していることが伝わった。結衣が「なんでも話せる先生」ということも納得だ。相性が大事な精神科医との関係。柴崎先生の熱心に寄り添う姿勢に、信頼関係はすぐに確立された。先生自身が心を病んでしまうのではないかと彼女が心配するほど、彼はまっすぐ向き合ってくれたという。僕も少し話しただけで、この人は信頼できる、そう思った。彼女と共に戦ってくれている同志だ。何より、彼女にそんな存在が身近にいて嬉しかった。
結衣と暮らしているといっても、まだ僕は彼女の身内ではない。柴崎先生は、「家族の方以外には詳細を話すことができない」と申し訳なさそうに説明したので、僕は「これから自分で理解していくから大丈夫だ」と答えた。いくら彼女が信頼する先生だとしても、普段の彼女を見ているわけではない。実際に生活を共にする僕にしかわからないことだってあると思った。
しかし結衣は、人格交代するだけでなく、いろんな顔を見せた。結衣が結衣でなくなった時、どう彼女に接していいのか最初はかなり戸惑った。そもそも、再会した時点で彼女はすでに、僕の知っている結衣ではなかったから、僕たちの関係も1からのスタートだったのだ。でも僕は本来の彼女を知っている。いろんな結衣を知ることができて、僕は少し得をした気分だった。
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