見出し画像

水面に揺れるスタートライン 第1話

 かつて憧れの存在だった結衣。
 忘れた頃に偶然再会したが、その姿は変わり果てていた。

 何が彼女を苦しめるのか、その正体も掴めないまま、自分が支えていこうと決意した。毎日違う顔を見せる彼女に、手探りの日々。でも自分は本当の結衣を知っている。あの頃の彼女にまた会える日が来るだろうか。
 結衣の不安の対象、恐怖の対象は、彼女自身の中にある。自分が知らないうちに、何をするかわからない……。
 どうしたら安心させてあげられるだろう。全部君なんだ。君が絶対しないことは、きっとあの子たちもしない。

 全ての結衣を愛しているけれど、なぜこんなことになってしまったのか、この時はまだ、誰にも分からなかった。


 夕日が射し込む窓際のボックス席で、僕は倉橋くらはしに人生相談とも恋愛相談ともつかない話を聞かせていた。軽く暖房のかかった店内の居心地は悪くない。周囲の雑音が僕たちを包んでいて、これも僕にとっては都合が良かった。今の時代、喫煙可能なカフェなんて滅多にないので、この店は貴重だ。正直、非喫煙者の僕にはいいことなんて何もないが、落ち着いて話すためには欠かせない環境であり、そして、この煙たい空気にはとっくに慣れていた。久しぶりに会ったのにこんな話で倉橋は退屈そうだったが、僕にとってはこのチャンスを逃せない。こんな話を相談できる相手は限られているからだ。
「で、どう思う? その間の彼女の記憶はないんだよ。どうすればいいかな。起こったことを話す? それとも……」
 僕は言葉を切った。倉橋は、僕の話を聞いているのかいないのか、窓の外の車道を眺めながら、乱暴に組んだ足をぶらぶらさせてタバコをふかしている。
「倉橋——」
「聞いてるよ。知らない方がいいことも沢山あるだろ。話す必要ねぇんじゃねーか?」
「でも……記憶がないって僕らが思うよりずっと不安なことなんだ。いや、不安というより恐怖だよ。だって例えば僕が——」
「じゃあ、話せよ。お前の中で答え出てんじゃねーか」
 めんどくせぇ奴だなぁ、と呆れたように呟きながら、倉橋はコップの水を口に含んだ。
「ああ、ごめん。僕はただ、彼女に安心して欲しくて……。そのための手段を探しているんだ」
 僕は生温くなったコーヒーに少し口をつけて、間を埋める。倉橋は大きく煙を吐き出しながら、短くなったタバコで灰皿を引き寄せ、揉み消した。
「何でもかんでも俺に聞くなよ。俺はその現場見てねぇんだし、お前の話だけじゃなんとも言えねーよ。俺なんかを頼りにするな」
 あっさりと突き放されたと思ったが、僕が黙っていると、仕方なさそうに倉橋は続けた。
「でも……『抱っこ』すりゃ落ち着くんだろ? なら毎回してやればいいんじゃねーの、『抱っこ』」
 倉橋の口調にバカにされた気もしたが、僕は真剣だった。
「してるけど……一時凌ぎなんだよ、結局。そういうことじゃなくて、もっと根本的な解決法。彼女自身への信頼があれば、不安も少しは和らぐと思うんだ」
 倉橋はため息をつくと、呆れたような、面倒臭そうな、なんとも言えない顔をして黙った。僕を見る目が気の毒そうに見えた。けれど彼は僕に同情しているわけではない。僕は彼に同情されるような関係ではない。彼にはもっと複雑な感情があるはずだ。僕のように単純明快で直線状な感情ではなく、倉橋の思いは螺旋を描くようなものかもしれない。それを言葉にして伝えようとはしないのが倉橋なのだが。
 隣の席に座っていた女性が立ち、横目で僕たちを盗み見ながら脇を通り過ぎる。聞いたことのある男性アイドルグループの曲が流れる店内に、ポキ、ポキと倉橋が細い指を鳴らす音が響く。僕から視線を逸らして、彼は考えながらゆっくり話した。
「お前の気持ちもわかるけど……お前にできることは限られてるだろ? 全て抱え込もうとすんなよ。ほんとはただそばにいるだけだって大変なんだ。あいつの親のこと考えてみろよ。仕事が忙しいからってお前に任せたらそれっきりじゃねーか。様子を聞きに連絡もしてこねぇんだろ?」
「それはいいんだよ」
「よかねーよ。お前はあいつの家族でもねぇんだし、そんなに負担を——」
「負担じゃない」
 僕は倉橋の言葉を遮った。
「少しも負担じゃないよ。むしろ僕にしかできないことを探してる。だからこうやって相談してるんだよ」
「そっか……」
 僕が急に熱くなったためか、倉橋はそれ以上言わなかった。相談したかったのはこんなことじゃない。それは倉橋にもわかっているだろう。彼は僕のことを心配してくれているのだろうし、間違ったことも言っていない。でも僕が求めていたのはそんな中途半端な理解ではなかった。倉橋なら……と僕が期待し過ぎていたのだろうか。
「悪いが……俺にはわかんねぇ。相談事とか得意じゃねーし。でも、お前がそういう気持ちでいるってだけで十分支えになってんだろ。そばにいるだけで伝わるもんじゃねーの? お前の温度ってやつ」
 半ば投げやりな言葉のようだったが、僕は少しだけ救われた。これが倉橋の言葉だからだ。
奏斗かなと
 真っ直ぐ僕の目を見て、低めの声で僕の名を呼んだ。
「やられんなよ」
「大丈夫だよ」
 僕は軽く笑って答える。
「じゃあ、またな」
 唐突に別れを告げられて僕は慌てた。
「今度いつ会える?」
「女みたいなこと聞くなよ」
 僕と倉橋はいつもこんな感じだった。彼はとても年下とは思えない肝の据わった奴だが、少々乱暴なところもあるので危なっかしくもある。それでも、僕は彼を信頼している。嘘をつかない、真っ直ぐな性格。自分の中に彼なりの正義を持っていて、男気を感じる。優しいところもあるのに、不器用なため誤解されやすい。僕も最初の頃は少々警戒することもあったが、今だからこそわかる。倉橋はなかなかいい奴だってこと。

 僕の睡眠は決して十分ではない。質もいいとは言えないだろう。仕事で起床時間は決まっているのに、夜はなかなか寝つけない。彼女が煌々と明かりをつけているせいもあるが、それだけではない。僕が寝ている間に彼女に異変があるのではないかと、安心して就寝できないのだ。それでも結局、最終的には睡魔がしびれを切らして僕を襲ってきて、睡眠負債を返済しにかかる。しかしそれも、数時間も経たないうちに目を覚ますことになる。何かがあった時も、何もなかった時も。寝たり起きたりを繰り返して、決まって一番眠い時に目覚ましのアラームが鳴る。薬を飲んで熟睡している彼女を起こさないように、僕は出かける準備を済ませ、仕事に向かう。こんな状況でも仕事中に寝たことがないのは僕の誇りというか、意地だった。彼女を言い訳にしたくない、ただそれだけだ。


 手首から先がないお相撲さんたちが大きな船の甲板に溢れかえっている。破れた帆が引っかかっている帆桁の上に一列に並び、お相撲さんたちが次々と海に飛び込んでいく。海の色はどす黒い赤色で、無数の手首が浮いている。その海にプカプカと浮いている私。血と海の混ざった臭いで息ができない。どろりと生温いものが身体に絡まり、全身を舐め回す。海に浮いた手首が頬に触れて心臓が硬直する。そんな状態で飛び込んでいくお相撲さんを眺めている。空の色も、海と同じどす黒い赤色。血の雨が降ってくる。

 ――苦しい。ここはどこだろう。見たことがある。安全な場所?

 ――確か……あ、奏斗の部屋か……。夢……だったのか……。

 私はしばらくベッドの上で動けずに天井を眺めている。焦点が合わないのは眠気のせいではない。さっきの光景、臭い、頬に触れた感触に身の毛がよだつ。まだ現実に戻れない。ありえない世界なのにリアル過ぎた。現実ではないことはわかるが、夢の世界とは違う気がする。私の世界なのか……? これもきっと『ヤツ』の攻撃だ。私を狂わせるために……。どうしよう、このままじゃ私が奪われてしまう。奏斗……奏斗はどこ?
 窓の外はどす黒い赤色ではなく、薄く紫がかった赤だった。朝日と夕日の区別がつかない。今何時だろう。奏斗……。
 ゆっくり体を起こして部屋を見回す。テーブルの上は郵便物や電子機器や雑誌が無理矢理端に寄せてあり、辛うじて食事のスペースが確保されている。薄い背中と足元に埃を被ったテレビ。クローゼットからはみ出した服。引き出しが引き出されたままのタンス。いつも通りの散らかった狭い部屋だった。時計を見ると午後4時半。夕方まで寝ていたのか。奏斗が帰ってくるまで、今日はどうやり過ごそう。とりあえずベッドに座り直した。
 インターホンが鳴り、少し緊張が走る。足音を立てないように恐る恐るモニターを見ると、作業服の男が片手に書類を抱えて立っていた。なぜか鳥肌が立つ。怖い。
 身体を硬くして息を潜めていると、作業服の男は不在だと思ったのだろう、モニター画面から消えた。
 奏斗――。

 ゆっくり視界が広がる。寝ていたのだろうか。
結衣ゆい? 大丈夫?」
 覗き込む顔。
「奏斗……?」
 私は待ち焦がれていた姿に泣きそうになりながら、彼の首に抱きついた。奏斗はゆっくり背中を撫でてくれた。安心する温もり。華奢な身体。服越しにも、彼の手がひんやりしているのが伝わった。奏斗の手はいつも冷たくて少し湿っている。
「夕飯、買ってきたから」
「ありがとう」
「もう冷めちゃったかも。温め直して食べようか」
 彼はそっと体を離して、私の頭に手を置いた。私は短めの髪を手で整えながら、奏斗の姿を目で追う。
「さっき、りのちゃんに会ったよ」
 奏斗は着替え始めながら言った。
「え……」

 りのちゃんという女の子。私は会ったことはないが、奏斗の口から聞いて、よく知っている。でもそれ以上に彼女の方が私のことをよく知っている。彼女が私のことをどう思っているのかはわからない。よくは思っていないだろう。ペラペラと私のことを勝手に人に話し、私も彼女のことをよく思っていない。正直迷惑だし、面倒なことになった経験も何度もあった。奏斗はりのちゃんとどんな話をしたのだろう。
「大した話はしてないよ」
 私の心を読んだかのように、奏斗は言った。
「メロンパンが好きらしい」
 確かに大した話ではなさそうだ。着替え終えた奏斗は、私の頭を軽く撫でた。
「心配しなくて大丈夫だから」
 そう言われても、奏斗から話を聞くだけでは彼女がどんな子なのかわからない。自分にとっては、彼女も恐怖の対象なのだ。



第2話


第3話


第4話


第5話


第6話


第7話


第8話


第9話



いいなと思ったら応援しよう!