虐待認定という教訓 ― 過剰な人員配置という賭けと、組織再生の痛み
【前回までのあらすじ】
「虐待認定」という最悪の事態。私は「体裁を整えて逃げる」のではなく「全てを根本から洗い直す」という茨の道を選びました。
収益性を捨てて「20名定員」への切り替えを断行し、第三者を招いた委員会を設立。しかし、現場との意識のズレや赤字経営という現実に、私の心身は限界を迎えようとしていました。
地獄の中で私が何を見、どうあがいたのか。泥沼の改善の日々を記します。
委員会に対して進展を報告し、信頼を回復する。
そのために必要な改善策を模索する日々が続きました。
会社のためというよりも、組織が生き残るための必死の模索でした。
埋まらない「ズレ」との闘い
委員会の求めるものと、会社が実行すべきこと。この二つの間には、常に大きな「ズレ」がありました。
私は委員会に納得してもらうための対策と、会社を立て直すための経営判断、この両方を満たす方法を必死に模索し続けました。
しかし、現場の職員たちには私の苦悩や意図など伝わっていません。
あの時、私は虐待認定を受けて追い詰められた結果、20名定員への切り替えという苦渋の決断を下しました。
利用者、職員が困らないために・・・
ほとんどの児発、放デイが10名定員だと思う。
というのも20名定員では単価が極端に下がり、経営を成り立たせることが難しいからだ。
しかし、当時の私は経営状況が悪化している赤字の事実を、現場の職員に詳細には伝えていなかったのです。
不安を煽りたくなかったという私の配慮は、現場にとっては真逆の解釈を生むことになりました。
「事業所を閉鎖して、自分たちの売上を確保するために、利用者を無理やり一箇所に押し込んでいるのではないか」
「そんな事業所だとは思いませんでした」
去っていった職員から、数年が経ってからふと打ち明けられた言葉です。
当時は何も言わずに、ただ静かに去っていきました。
説明はしていたつもりでした。
ある程度のことは正社員には伝え、全員に共有するように指示もしていました。
説明しなくともわかってくれる、そう信じていた私の「甘さ」と「傲慢さ」が、また現場との間に決定的な溝を作っていたのです。
後になって、「説明してくれたら、残ったのに」とも言われました。
あの時、本当のことを話していれば、彼らは納得してくれたのかもしれない。そう思うと、今でも胸が締め付けられます。
現場の空気を変えるための「過剰な投資」と決断
離れていく職員たちを前に、私はさらなる策を講じました。
人員を手厚くし、負担を減らすこと。余裕をもって支援することで、何が「良い支援」なのかを現場自身に考え直してもらうためです。
管理者の一部を刷新し、職員たちが現場を改善できるようある程度の裁量を与えました。
しかし、現実は甘くありませんでした。
3人の利用者に対して5人の職員を配置してもなお「人手が足りない」という声が上がる。
職員たちは確実に誰もが現場の支援を「完璧なもの」にしたいと願っていました。
そのひたむきな熱意は、素晴らしいものです。
しかし、支援の質をどこまで追求するかという「理想」と、会社としての「経営」との間には、どうしても埋められない溝がありました。
彼らにとっては「より良い支援のために、もう少し人が必要だ」という切実な要求も、経営の視点から見れば採算を度外視した過剰な配置にならざるを得ない。
限られた人件費の中で、どこで線引きをするか。
その判断のたびに、現場の「もっと余裕を持ってやりたい」という本音と、私自身の板挟みになり、心身ともに削られる日々が続きました。
赤字を垂れ流す大きな要因の一つとなっていましたから。
また、当初から私と共に走り続けてきた管理者がいました。
その人を信頼し、事業所の全権を任せ続けてきましたが、今思えば、その信頼こそが組織の改善を遅らせる要因になっていたのかもしれません。
情と理の狭間で揺れながら、組織を立て直す難しさを痛感しました。
その他にも、様々な手を打ちました。
意見の匿名収集: 現場の不満を吸い上げる仕組みを作る。
能動的な研修: 職員が本当に受けたいと思う研修を選び、時には外部講師を招き、時には職員が自ら教壇に立つ。
「休所日」の設置: 今も続いていますが、月に一度、利用者を一切受け入れず、職員全員で研修と会議に集中する日を設けました。
泥沼を泳ぎ切る
そもそも、虐待通報をした職員を守る義務が会社にはあります。
今回のケースでも、誰が何をして、結果どうなったのか。本来であれば役所からも一定の説明があったようなのですが、当時の私は疲弊の極みにあり、それすらまともに聞く余裕がありませんでした。
それどころか、会社を意図的に崩壊させようとする職員への対処も必要でした。
そんな職員ほど声が大きく、「自分がこの事業所を支えてやっているんだ」と公言する。
その言葉にどれほど心が折れそうになったか分かりませんが、私は耐えました。
不当解雇と叫ばれないよう、他の職員と同等に扱いながら、穏便に退職へと導く調整をする。
自分の心身の疲弊などお構いなしに、ただトライアンドエラーを繰り返す日々。
あの頃の私は、顔から血の気が失せ、ただの「経営の道具」になり果てていました。
1日3食、食べないと身体がもたないと自分に言い聞かせて用意するものの、一口も喉を通らない。食材は次々と無駄になり、空腹感すら感じない。
酒だけは喉を通るから、現実を紛らわせるために毎日飲んで寝る。
むしろ飲まないと頭の中がグルグル回って寝つけないそんな毎日でした・・・
すべての始まり
私が慢心し、すべてを破壊するきっかけとなった「あの頃」については、こちらの記事に綴っています。
最後に
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今振り返れば、あの頃の私は経営者としての矜持と、現場の現実との間で完全に引き裂かれていました。
何をしても裏目に出るような、出口のない日々。それでも、一つひとつ泥水をすくい出すようにして進むしかなかったのです。
自分の至らなさが原因で招いたこと、大きな問題を起こしたにも拘らずまだ成長しきれない自分。
もがき苦しんだ日々を、もう少しの間書いていって、すべてさらけ出します。
きっといつか、立派になったと思われるような出来事が書けるようになるまで。
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