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軽んじられるのが怖かっただけの話

私は、賢くなりたかったわけじゃない。
バカだと思われたくなかっただけだ。

これが、私の沈黙の理由だった。

だからだろうか。
「構造」とか「理解」とか、そんな言葉を
使って文章を書きながら、
どこかでずっと思っていた。

――私がこんなことを書いていいんだろうか。

知識が足りない気がする。
分かったつもりになっているだけかもしれない。
もっと学んだ人が語るべきなんじゃないか。

そうやって、自分の理解に
自分で保留をかける癖があった。

けれど最近、妙な感覚が増えてきた。
新しく勉強したわけじゃないのに、
「あれ私わりと分かっているかもしれない」
と思う瞬間がある。

自信がついた、というより
前提が崩れ始めた感覚だった。

これまでは、自己犠牲をすることで
自信のなさを埋めていたのだと思う。

はっきり分からないまま、
霧の中を必死で進んでいるような
感覚だった。

けれど、「構造」を書き始めてから、
私は自己犠牲をやめる方向へと舵を切り始めた。

すると不思議なことに、
視界が急に開けた。

知識の量が増えたわけではない。
けれど言葉にしたときの説得力が変わった。

それは理解が増えたからではない。
点として捉えていたものを、
流れとして捉えられるようになったからだ。

それまでの私は、
「私に理解できるはずがない」という前提を持っていた。
だから「こういうことでは?」と浮かんでも、言葉にする直前で止まってしまう。 

私の理解なんて低レベルだ。
間違えるのが怖い。
知ったかぶりになるのも怖い。
だから、理解していても採用しない。
確信が持てるまで黙る。
それを私は、謙虚さだと思っていた。
だが違った。

言わないことは美徳ではなく、
構造を見えなくする行為だったのだ。

例えば組織の中でも同じことが起きる。

誰かが自己犠牲を重ねれば、
表面上は組織は回る。

けれどその歯車が失われたとき、
組織は一気に崩れる。

回っていたのではなく、
無理に回していただけだからだ。

一方で、事前に言語化された組織は違う。
問題が可視化され、
危機は体感として共有される。

自己犠牲は美しく見える。
だが実際には、
構造の弱さを隠しているだけだ。

黙ることで起こる現実の方が、
はるかに不幸である。

個人は削られ、
組織は弱っていく。

けれど私は、その事実を知りながら
ずっと黙り続けていた。

怖かったのだ。

間違えることが、ではない。
軽んじられる自分が怖かった。

私は自己犠牲をしながら、
自分のコンプレックスを守っていたのだ。 

大事だったのは、
時間の中で自分が何を築いてきたかという
ことだった。

必要だったのは資格ではなく、
経験のエビデンスだった。

自分の経験の中にある言葉なら、
言語化は許される。

むしろ――
言語化が必要になるフェーズがある。

「分かったつもりが怖い」という感覚は、
学歴という初期装備を引きずっていただけ
だったのだ。

人は初期装備のままでは生きない。
経験の中で装備は更新される。

その進化を受け入れたとき、私はようやく
今の自分に見合った装備で現実に立つことができたのだった。


——  

これは主軸の観測ではないけれど
#観測記録
#言葉の魔法   
(少し違う温度の観測)


——  

静かに観測を続けています。

別の角度の観測は
プロフィール記事からどうぞ🕯

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