三上於菟吉原作、映画「百万両秘聞」をめぐって 湯浅篤志
※次に掲げた文章は、2024年5月20日に発行された、『北方人』44号(北方文学研究会)に掲載された「三上於菟吉原作、映画「百万両秘聞」をめぐって」の転載となります。転載に際して、適宜加筆修正を施しました。ご了承ください。
※今回の記事は、映画「百万両秘聞」の内容には、あまり触れていません。「百万両秘聞」をめぐる状況について考えてみました。映画の内容と小説原作との比較などについては、2025年2月1日に埼玉県春日部市のハルカイト(大凧文化交流センター)でおこなわれた、三上於菟吉顕彰会・春日部市郷土資料館共催の歴史文化講演会において「『百万両秘聞』の中の春日部」の中でお話しをしました。いずれ、文章にしようと思っています。

映画「百万両秘聞」と〈日本新八景〉
三上於菟吉の時代小説「百万両秘聞」は、『面白倶楽部』昭和2(1927)年5月号から12月号まで連載され、翌昭和3(1928)年には平凡社で単行本化された。雑誌連載の途中であったが、「百万両秘聞」は、昭和2年9月上旬くらいからマキノ御室映画によって映画化の準備もされている。監督はマキノ省三、脚色は山上伊太郎、撮影は松浦茂であり、そして主人公の春水主悦役に嵐長三郎(嵐寛寿郎)があてられていた。
同年10月には、〈日本新八景〉で映画「百万両秘聞」のロケーションをおこなうために出張するという情報もあった(「日本各社撮影所通信 マキノ御室通信」『キネマ旬報』昭和2年10月1日号より)。「百万両秘聞」の映画予告(『キネマ旬報』同号)にも、「大毎主催日本新八景に当選の内十和田湖及北海道狩勝峠を背景として目下大々的撮影中のマキノ秋季大雄編」とあった。
この〈日本新八景〉とは、昭和2年に大阪毎日新聞及び東京日日新聞が主催し、鉄道省が後援となり、一般読者からハガキ投票をしてもらい、最終的に名士たちの審査で日本の優れた八つの景勝地を選ぶという企画だった。温泉、山岳、渓谷、瀑布、湖沼、河川、海岸、平原の八つのジャンルから、それぞれ景勝地を選ぶというものであった。
大正14(1925)年には、敷設された鉄道の距離が一万里(約39273km)になったのを記念して、東京日日新聞社で元旦の新聞付録に「大日本交通全図」(朝鮮、樺太、台湾を含む)をつけていた。「鉄道競争すごろく」というゲームもあった。
元旦に、そういう付録に付けることは、お正月に日本全体の鉄道を楽しんでもらうだけでなく、鉄道に乗り、いろいろな観光地に行って欲しいという思惑があったにちがいない。人々の観光熱を高めようとしていたのだ。この東京日日新聞社がやってきた企画を見てみると、〈日本新八景〉も、つまり、観光地情報のために新聞を買って読んで欲しいことをもくろんでいたといえるだろう。
〈日本新八景〉のハガキ投票は、昭和2年4月10日から5月20日までおこなわれ、6月10日付の『東京日日新聞』で147箇所の候補地が発表された。投票総数は、約9300万通に及んだらしく、当時の日本人口の約一、五倍であった。非常に大きな反響を呼んだ企画だったのだ。
新聞社も、その翌々日の『東京日日新聞』昭和2年6月12日付から、「新八景候補地の旅」という連載コーナーが作り、その一回目として、東京日日新聞の記者、井澤弘「五湖を巡りて(一) 緑に抱かる河口湖」を始めている。紙面を使って、さらにたくさんの読者の興味を惹こうとしているのが読み取れる。
最終的には、7月5日に〈日本新八景、二十五勝、百景〉が決定された。もちろん、その中には、前述した「百万両秘聞」映画予告のロケ地、十和田湖、北海道狩勝峠が含まれている。ということは、新聞読者投票によって選ばれた〈日本新八景〉を映画「百万両秘聞」の背景に写し込むことで、〈日本新八景〉に興味を持つ、あまたの新聞読者さえも、映画館に引きずり込もうとする方針だったことが考えられる。マキノ映画のしたたかな戦略であった。

映画「百万両秘聞」の制作手法
映画「百万両秘聞」は、全三編作られた。第一編の上映は、昭和2年10月29日から11月2日まで、東京浅草公園の千代田館、京都新京極にあるマキノシネマ、大阪新世界の第一朝日、千日前の南座、神戸新開地の二葉館(大阪、神戸は11月3日まで)などで封切られている。(「各地主要常設館番組一覧表」『キネマ旬報』昭和2年11月1日号、11月11日号より)。
この第一編は、2009年7月に復刻のDVDが発売されていて、そのケースの説明には「幽霊野という荒野にのぞむ老夫婦の家、そこに立ち寄りひとりの若侍・春水主悦(嵐長三郎)が荒野に旅立っていった。その夜、夫婦の息子である通り魔の平次(市川小文治)も家を訪ね、若侍が幽霊野にいったということを聞いて後を追う。ふたりは古塚に隠されたという百万両の隠し場所を記した絵図を探していたのだ…」とあった。
しかし、これでは最初の場面説明だけになり、あらすじにはならない。あとは見てのお楽しみということなのだろう。
初回上映当時の映画感想について、『キネマ旬報』の記者、山本緑葉は「主要日本映画批評」(『キネマ旬報』昭和2年11月11日号)の中で、「面白倶楽部に連載された三上於菟吉氏の大衆文藝作品を歌舞伎映画以外余り手を出さなかつたマキノ省三氏が自ら監督したといふので、玄人筋から相当注意を払はれた作品である」と述べていた。理由として「映画劇としてのそれではなく、商品映画、殊にこうした長編ものの映画化の範を示した点である」としているが、どういうことなのであろうか。
山本緑葉にいわせると、「もし原作に忠実に作つて居たらきつとだれるに決つて居る。そこでマキノ氏はだれそうな所を全部けづつてぐんぐん筋を進める事に努めたのだ。新聞ものや長編ものにはこのやり方が最も当を得たものだと思つた。だが只簡略にする丈で面白くなかつたら仕方がないが、本編は中々面白く筋を運んで行き、且手法も相当考へてあるから尚好いと云ふのである」ということだった。
このやり方は、長編の原作を削ってしまう簡略化のことであった。しかし、できあがった映画を見ると、筋も面白く運んでいて、観客を飽きさせることはなかった。
つまり、マキノ省三監督の「商品映画」を作る手法とは、雑誌や新聞の長編小説を映画化するときに、観客を飽きさせないために、原作を改変することだったのだ。それが映画制作者=「玄人筋」にウケた。
極端に言えば、原作を読んでいなくても、映画そのもので楽しめることをめざす制作の仕方であったのである。「百万両秘聞」という映画は、そういう意味で「玄人筋」に受け入れられ、マキノ省三が製作する「商品映画」というスタイルで成り立っていた。脚色の山上伊太郎の力も、大きいかもしれない。
しかし、同欄での「興行価値」の説明になると、原作を削って面白くした映画といいながら、「原作が講談社発行の「面白倶楽部」で受けて居る大衆文藝もの丈何と云つても得がある」とし、「大平原と沼を背景として居るので新日本八景に当選した狩勝峠や十和田湖へロケーションに出張したと云ふマキノの宣伝を利用するも好かろう」と、映画の付加価値への言及によって映画の興行価値を上げることが述べられていた。
言い換えれば、映画館へ来てもらうために『面白倶楽部』の読者や〈新日本八景〉を見たい新聞読者を利用することを勧めていたのである。雑誌や新聞というメディアを使って、映画に興味を抱かせる手法を肯定していたのである。
原作を簡略化しても、原作が掲載されているメディア媒体の読者を利用し、映画内容の背景に、新聞社の主催するイベントの風景までも取り込もうとしていた。この手法は、映画制作と同時期に流行しているものを映画に取り込んで、人々に映画館へ来てもらうための「商品としての映画」作りを徹底したものだといえるだろう。映画制作者も評論家も、こうした手法を認めていたのが興味深い。
だが、このやり方では、原作小説の「百万両秘聞」と映画の「百万両秘聞」は同じ題名であるにもかかわらず、別物になってしまう。
映画「百万両秘聞」の評判
映画「百万両秘聞」の第二編は、11月18日から24日まで、浅草公園の千代田館と新開地の二葉館で、11月17日から23日まで新世界の第一朝日、千日前の南座で、11月19日から24日まで新京極のマキノシネマでそれぞれ上映されていた。また、この頃になると、名古屋大須公園の港座のように11月18日から24日までが第一編、11月25日から30日までが第二編として、日を空けないで続けて上映されるケースも見られた(「各地主要常設館番組一覧表」『キネマ旬報』昭和2年12月1日号より)。
第三編(終編)は、12月1日から7日まで、上述の千代田館、二葉館、第一朝日、南座、マキノシネマ、港座でそれぞれ上映されていた(「各地主要常設館番組一覧表」『キネマ旬報』昭和2年12月11日号より)。主要都市では、ほぼ上映されているといってよいだろう。
これらの第二編、第三編は、一つにまとめて、前述した第一篇と同じように、2009年7月に復刻DVD『百万両秘聞 第二編』として発売されていた。ケースの説明も、第一編と同じものだった。
映画「百万両秘聞」全四〇巻は、昭和2年の年内に、三編に分けて無事に上映されていたのである。しかし、「玄人筋」にウケたかどうかわからないが、一般大衆の観客にはウケが悪かった。
キネマ旬報社が主催する昭和二年度日本映画の〈優秀映画〉ベスト3が、『キネマ旬報』昭和3年3月11日号で発表されたとき、映画「百万両秘聞」のハガキ投票は、たったの9票だったのだ。誌面に載った作品のうち、最低票数が6票だったので、うしろから数えた方がはやかった。
第一席は1201票で「忠治旅日記(血笑編)」(日活)であり、第二席は842票で「彼をめぐる五人の女」(日活)、第三席は836票で「尊皇攘夷」(日活)であった。
三上於菟吉原作・松竹蒲田製作、現代劇の映画「炎の空」も、同じ年の10月に各地で上映されたのだが、こちらは55票獲得で33位であった。現代劇がウケないといわれていた頃なので、ある意味、この順位は素晴らしいといえる。
しかし、映画「百万両秘聞」が、これほど一般観客にウケないのは、何か原因があるのだろうか。
一つ考えられるのは、主役の嵐長三郎に、魅力が少ないということである。もちろん、映画の中でそのように見えるということである。前述した「主要日本映画批評」の中で、山本緑葉は嵐長三郎の役柄について「嵐長三郎氏の主悦は題名の肩書にある美少人録を想ひ出すとそれらしくないが、それさへ気にしなければ立派な主役振りである。だがどうも此人には未だ魅力がない様に思はれる」といわれていたからだ。
三上於菟吉作品の主人公には、美青年がよく似合う。俳優のメイキャップのやり方もあるが、嵐長三郎もまた美青年であるといえるだろう。もし「魅力がない」とするならば、演技の調子が美青年を引き立てていないからだと考えられる。その点で魅力がないように映ったのかもしれない。
「玄人筋」にウケる映画と一般観客にウケる映画の違いは、主役の輝きにあるかもしれない。美しい青年の格好いい演技。そこから生まれる、まばゆいばかりの主役の輝き。
もちろん、物語の内容や監督の演出、脚本の出来なども絡まってくるのは当然のことなのだが、少なくとも映画「百万両秘聞」の場合には、主役の魅力が乏しかった。それは演技の内容によるものであろう。それゆえ、一般観客に人気の出なかったことが考えられる。また、三編に分けて上映したため、観客が第三編まで見なかったことにも、原因があるのかもしれない。
ところで、映画「百万両秘聞」と同時期に、マキノ御室映画で製作されていた作品に、直木三十五原作、高見貞衛監督、片岡千恵蔵主演の「烏組就縛始末」(七巻)という作品があった。この作品は、直木三十五の原作が『週刊朝日』に掲載され、それを映画化したものだ。
前述した山本緑葉は、「主要日本映画批評」の中で「週刊朝日所載や直木三十五氏の原作云々だけでも可成りの利得がある」とし、片岡千恵蔵の演技に対して「片岡千恵蔵氏の浅虫(主人公)は未だ演技は生硬であるが、柄に嵌つて居るのと扮装が好かつた点では、マキノ入社以来最も好意を持てた役であつた」と評価をしていた。
ここでも、『週刊朝日』というメディアとの相乗効果を述べ、また主役片岡千恵蔵が魅力的に映っていたことが読み取れる。「烏組就縛始末」は、キネマ旬報社の昭和2年度〈優秀映画〉投票でも、36票を獲得していて、映画「百万両秘聞」の9票に比べると、4倍にもなっていた。ということは、その順位の差は、単純にいえば、主役の魅力の映り方の違いということになるのかもしれない。
ちなみに、片岡千恵蔵は、「百万両秘聞」のほうにも出演する予定だったようだ。「マキノ御室通信 9月18日調査」(『キネマ旬報』昭和2年9月21日号)を見ると、「マキノ省三氏は既報「百万両秘聞」の監督に着手した。俳優は既報の内片岡千恵蔵氏が武井龍三氏に変更され」とあった。
ところが、武井龍三は「百万両秘聞」に、どういうわけか、キャスティングされていなかった。しかし、同時期に製作された「妖婦」には出演していたのである。何らかの都合で、そちらの方に移動したのかもしれない。
もし、片岡千恵蔵が「百万両秘聞」に出演していたら、主役の嵐長三郎も、千恵蔵との掛け合いで活き活きとした姿をみせてくれたことだろう。嵐長三郎の評価もまた、異なったものになっていたと考えられる。
息の長い映画
映画「百万両秘聞」は、その後、昭和3年に入ると、第一編から第三編までがまとめて上映されることが多くなった。それは「百万両秘聞大会」と名付けられ、東京浅草公園の千代田館で昭和3年5月4日から10日まで、さらに翌昭和4年9月27日から29日までも上映されていた(「各地主要常設館番組一覧表」『キネマ旬報』昭和3年5月21日号、昭和4年10月11日号より)。
また、地方の映画館でも、ぽつぽつと上映されていたのが散見される。もしかしたら、映画「百万両秘聞」は、息の長い作品といえるのではないだろうか。
戦後の昭和32(1957)年11月に、映画「百万両秘聞」はリメイクされて蘇った。なんと「幽霊沼の黄金」と題名を変えて、新東宝で製作されたのである。
雑誌の映画紹介でも多く取り上げられ、たとえば「原作は三上於菟吉の「百万両秘聞」で、すでに映画化されたこともある。今回は三村伸太郎が脚色し、演出は「桧山大騒動」での第一回監督から好調の新人山田達雄。勤王の志士が若山富三郎で、その恋人にはニューフェースの瀬戸麗子が抜てきされ、ほかに中山昭二、日比野恵子などが出演」(「タウン」欄『週刊新潮』1957年9月30日号より)とあった。
もちろん、この作品も原作と内容が変わっていると思われるが、田山力哉の「日本映画批評」(『キネマ旬報』1957年11月上旬号)の「興行価値」によれば、「内容にコクがないばかりでなく、宣伝するにもそのポイントも見当らない。三本立用にしか使えない」とあって、かなり手厳しい評価になっていたのも見逃せない。
しかし、戦前の昭和2(1927)年の作品がリメイクされるということは、三上於菟吉の原作「百万両秘聞」には、一定の需要があるわけであり、映画を製作する際の原作に適していたということになるだろう。三上於菟吉の作品は、やはり視覚的効果に優れていたのである。
1970年代に入ると、映画「百万両秘聞」のリバイバル上映がおこなわれるようになった。「年忘れ活弁大会」として、1971年12月29日午後6時から東京新宿紀伊國屋ホールで、第一編から第三編まで一挙上映がおこなわれた。1980年代には、「懐しの無声映画祭」として、1985年8月18日午後0時半から大阪府労働センターで全三篇が、「若き日の嵐寛! 百万両秘聞」として1988年9月1日午後2時、7時の二回にわたって東京田原町センタービル5Fプレイス24で、それぞれ上映されていた。
1990年代では、1993年6月18日18時30分から門仲天井ホールで、弁士の澤登翠も出演し、全三編が上映されていた。1997年12月8日13時30分からは、「京都映画祭」の催しとして京都会館でも上映されていたのだ。これらは、いずれも『キネマ旬報』の「シネガイド」で調査したものだが、見落とした情報もあるかもしれない。
しかし、このように、マキノ省三監督、嵐長三郎主演の映画「百万両秘聞」の息は長く、上映され続けるということは、映画自体に力があるということだろう。
2000年代に入ると、すでに述べたように、2009年7月に「日本名作劇場」(発売元 ディスクプラン)と銘打ったDVDの中に、映画「百万両秘聞」第一編、第二篇、終編も収録されて発売されている。
――2024年の現在、もう、それから15年も経っている。新たな映画「百万両秘聞」の企画を、誰か、やってくれないものだろうか。
※三上於菟吉の作品は、ヒラヤマ探偵文庫でも発行しています。以下のサイトをご覧ください。
