森下雨村と『新青年』編集局のストラテジー 湯浅篤志
※次に掲げた文章は、2003年12月31日に発行された、『新青年』趣味11号(『新青年』研究会)に掲載された「森下雨村と『新青年』編集局のストラテジー」の転載となります。転載に際して、適宜加筆修正を施しました。ご了承ください。
※『新青年』趣味25号(2025年5月5日発行)に掲載した、拙稿「森下雨村の大正一四(一九二五)年」において、大正14年の『新青年』の誌面変革に触れました。そのとき、雨村の大正14年の動向に注目をしたために、『新青年』編集局の姿勢の方をあまり述べられませんでした。また、雑誌メディアのあり方や既成文壇との関係にも目が届かなく、探偵小説界の動きがよくわかりませんでした。今回、ここに取り上げた「森下雨村と『新青年』編集局のストラテジー」はそれらを補完するものとなっています。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

雑誌の値段は安い方がよい?
大正14(1925)年の雑誌界における大きな出来事といえば、『キング』の創刊が挙げられる。前年の大正13(1924)年11月頃から発行元の大日本雄弁会講談社は、さまざまな媒体に『キング』創刊の大きな広告を出していた。この大衆に訴える大がかりな戦略を、佐藤卓己さんは「宣伝狂時代」と名付けていた。
佐藤卓己『キングの時代』(岩波書店、2002年)によれば、『キング』の発行は、製紙・印刷産業の側面や民主主義に支えられた思想宣伝面、あるいは出版界隆盛のための経済面において、「大衆公共性のメディア」の誕生と捉えることができるということだった。
娯楽色の強い総合雑誌の『キング』を売り出した大日本雄弁講談社の人々は、時代の流れを読み取って、どうすれば雑誌を大衆に訴えることができるかを考えていたのである。さまざまなメディアに効果的に広告を打ち、またいろいろな場所に出向き、直接に営業をおこなって、それが見事に当たったということになるだろう。
しかし、そこには広告に食いつく読者の欲望のことも考えなければならない。当時の評論家、千葉亀雄は、関東大震災以降、人々が物語に求める内容が変わってきたことを、次のようにまとめていた。
――悲惨な現実に直面するような生々しい実感を持つものは避け、作物の世界は現実とは差し障りのない歴史的過去を選んだほうがよい。または、理屈ばった物語ではなく、落ち着いて読んでいられる自分とは関わりのない仮の世界のほうがいい。たとえば、剣道の天才が人間を切りまくる剣劇小説、または探偵と悪漢が根の続く限りの知恵比べをする探偵小説を読んで、たまらない忘我境に引き入れられる小説を、人々は希求していた、というのである(「明治大正時代の文学」『太陽』昭和2年6月「明治大正の文化」増刊号より)。
要は、人々が浮世離れした「娯楽小説」を求めていたということである。しかし、そういう小説を読もうと思っても、雑誌の値段が安くならなければダメである。買えることも出来ないし、読める人も少なくなってしまう。もちろん、借りて読んだり、本屋での立ち読みも可能だろう。だが、それでは小説の面白みを味わうことが難しい。
この時期の雑誌の値段について、「大正12年の文藝界」(大正13年度『毎日年鑑』所収)では、次のようにまとめられていた。大正12(1923)年1月に創刊され、価格十銭で売られていた『文藝春秋』は、「とも角、定価の安いといふ一条件から、文学愛好者間に広く好評であつた」。
これと同じように、「大阪毎日新聞社発行『サンデー毎日』が年四回特別号として出す『小説と講談号』も、定価が安くて、しかも文壇大家及び新進作家の作品を多く集めてゐるといふ事で、これはたゞに文学愛好者のみならず、世間一般に広く好評を以て読まれ、専門家の間にも大に読まれたといふ事も、見逃してはならない」と述べられていたのだ。
『毎日年鑑』の記事なので、同じ出版社の発行する『サンデー毎日』の値段の安さを述べるのは仕方がない。しかし、違う出版社の『文藝春秋』までが値段の安さで取り上げられているのは、『文藝春秋』が実際に売れていたからであろう。つまり、関東大震災以前から雑誌の値段の安さが、読者へのアピールポイントになっていたのがわかるのだ。
しかし、先ほど述べた『キング』は、創刊号において五十銭という値段だった。この手の総合雑誌としては、どのような値段の印象なのであろうか。講談社から発行されていた『講談倶楽部』は、大正13年において、通常号で約416ページの厚さを誇り、通常号の値段は八十銭だった。さらに、2月、4月、6月、8月、10月と二ヶ月おきに増刊号が出ていた。それに対して、大正14年の『キング』は、だいたい352ページの厚さであった。
簡単には比較はできないが、単純に一ページあたりの値段に換算してみると、『キング』の方が、『講談倶楽部』の約七割少しの値段になるので、相対的には「安い」といえるであろう。
こうした「安さ」を売り物にする雑誌界の流れは、大日本雄弁会講談社のみならず、当時は、どの出版社もわかっていたことと考えられる。ここで問題にしたいのは、『キング』と同じ頃に探偵小説雑誌として名をなしていた、博文館発行の地方青年向けの総合雑誌『新青年』のことである。
第一次世界大戦後の大正9(1920)年に創刊された『新青年』。その頃はだいたい144ページくらいの厚さで三十銭という値段だった。発行される月号によっては、ページ数の少ないときがあり、そのときは二十五銭だった。240ページくらいに増えると、五十銭という値段になっていた。このような変動は大正11(1922)年の夏頃まで続いていた。
それ以降、増大号や増刊号などを除けば、約240ページと五十銭が標準になっていく。大正の終わり頃にはページ数も少し増えて、288ページで六十銭が標準となった。値段はページ数にだいたい比例していた。
このような雑誌の厚さと値段をみると、同時期の『キング』が352ページで五十銭なので、いかに安い感じをあたえていたのかというのが理解できる。しかも『キング』の発行部数が百万部を越えていたのである。『新青年』は、最大でも三万五千部くらいだといわれている。そういう視点から見てみれば、『新青年』における値段付けも頑張っている方だといえるかもしれない。
当時の『新青年』編集主幹の森下雨村は、このような関東大震災後の雑誌界の流れを敏感に察知していたという事実があった。しかし、それは、値段の安さを雑誌に求めているのではなかったのであった。
雨村は『新青年』大正12年10月号の「編集局より」で、「壊滅の後には復興がある。より明い、より希望に満ちた復興が! しかも、それは我等青年の双肩にかゝる一大事業ではないか!」と読者を鼓舞していた。それは『新青年』の内容に変化を求めることであり、『読売新聞』大正12年10月16日付の「よみうり文藝欄」の「探偵物の要求が今後/益す盛んになる」という記事の中では「欧州でも大戦後は却つて軽い娯楽読み物の要求が強くなつた。米国の探偵専門雑誌『デテクチー・ストーリ』や『プロツク・マスク』が盛んに売れるやうになり英国でも本年四月更に『デテクチーヴ・マガジン』の創刊を見るやうな訳で苦難のあとに肩の凝らないものを渇求することは今度の震災でも同様であらう」と語ってもいたのだ。つまり、のちに千葉亀雄が述べたような「より明い」「肩の凝らないもの」を雑誌に求めようとしていたのである。
ただ、こういった娯楽内容に雑誌の質を求める発言は、雨村独自のものではなく、どうやら雨村のいた博文館の方針だったようなのである。詳しくは、当時の博文館編集局長だった長谷川天渓の発言を参照して欲しい。6月9日付の記事である「長田幹彦と「蒼き死の腕環」」で言及している。
大正後期の『新青年』の動き
それでは、この時期、本や雑誌の売れ行きはどうだったのであろうか。
昭和3(1928)年において、作家の加能作次郎は「大正八九年頃から最近二三年前あたりまで七八年の間所謂文運隆盛時代文壇黄金時代の現出を見るやうになり」という言葉を残している(「旱魃時の樹木」『新潮』昭和3年8月号より)。これは、第一次世界大戦後の大正8(1919)年頃から大正15(1926)年10月頃の円本出版ブームの始まりまでのことだと思われる。その時期が「文運隆盛時代文壇黄金時代の現出」だったのであり、文壇作家の書いた作品には大きな需要があった。
しかし、その後の円本ブームはマスメディアの成長を促したが、逆に昭和3年以降の作家の経済を支えるためには、不利な状況を生みだしていたと言われている(山本芳明『文学者はつくられる』ひつじ書房、2000年より)。
もちろん、ここにはさまざまな位相があり、たとえば、出版社の広告の効果とその経費、返本をも含めた実売面、編集者の編集方針と出版社の都合、作家の信念や思惑と現実との葛藤、読者における本や雑誌の接し方など、いろいろと考慮に入れなければならない要素があった。また、一年ごとの時代の状況や都市や地方という場所の問題、幅広い年齢層や男女の問題などにおいて関わる流通メディアのあり方も同様であろう。
しかし、昭和に入り、円本ブームが過ぎ去ると、文壇にいる「文学者」と呼ばれる人たちは次第に生活難になっていったようなのである。加能作次郎の言葉ではないけれど、「旱魃時」になってしまった。
このとき、文壇作家たちは、どうしたのであろうか。従来から発行されていた婦人雑誌や大衆雑誌に、より多くの執筆の場を求めるようになったり、あるいは倶楽部雑誌へと生活の糧を得るために接近していったりしたと思われる。
出版社にしてみれば、円本の広告にお金をかければ、円本がいくら売れても、経費が多いためにあまり儲けにはならない。そのため、出版社は読者が求める娯楽雑誌作りに力を入れていくようになるだろう。地方においては文学系の雑誌の返本率は高いゆえに、発行部数の減らされていく場合が多い。そうなると、作家たちは、仕方なく自分の作品を載せてくれる雑誌を探していくようになるかもしれない。
既成文壇作家なら、そのネームバリューで載せてくれそうだが、新進作家の場合はむずかしい。いきおい生活のために娯楽雑誌に書く場所を求めていくことになる。このような事態が昭和3年以降顕著になっていったのである。
『新青年』では、関東大震災より前の大正12年1月号から海外翻訳探偵小説において犯人当て懸賞をおこなっていた。その前年の大正11年夏季増刊号では「十一の瓶」が掲載され、そこでも犯人当て懸賞があったが、本格的には大正12年1月号から増刊も含めて4月号まで掲載されたS・A・ドゥーゼ原作、鳥井零水(小酒井不木)訳「スミルノ博士の日記」においてであった。懸賞金は総額三〇〇円であり、当選者60名に五円の図書券をそれぞれ贈呈するというものだった。
予想外の応募があったので、『新青年』は気をよくしたと思われる。続けて、大正12年4月春季増大号から8月夏期増刊号まで連載された、ドゥーゼ原作鳥井零水(小酒井不木)訳の「夜の冒険」にも懸賞を発表したのであった。今回は六つの問題があり、答えの理由を箇条書きにして封書で送れという指示であった。ただし、懸賞金の分配は一律ではなく、全問正解のものには三〇〇円を与えるという厳しいものであった。以下、正解の数において賞金が減っていき、五等まであった。
懸賞の解答発表は、連載が終わってからの大正12年10月号で行われた。一等が八名、二等はいなかった。三等は二十二人で、その中には横溝正史や水谷準の名前もあった。発表を担当した記者は「解答の選後に」という文章の中で、「応募解答が多かつたことよりも、当選解答が意外に多かつたことは、全く予想外であつた」と述べていた。
この驚きは、探偵小説に興味をもっている読者の置かれている現実の状況を反映しているのではないだろうか。探偵小説おける犯人当てという「娯楽」は、読者自らが探偵になって、正義を発揮するという模倣的な遊びであるが、そういう欲望が活性化してきた事実を現しているといえるだろう。『新青年』編集局は、そうした読者の欲望をうまく掬い上げることができたのだ。
しかし、大正12年9月1日に関東大震災がおこった。大正13年は復興のときであり、大正14年に入ると、クロスワードパズルの大流行が訪れ、多くの新聞雑誌を賑わすようになった。知的なクイズの正解が、金銭という読者の欲望を上手に刺激することのできるほど世の中が不景気であり、世相が混迷した時代だった。『新青年』もまた、こうした不況を泳ぎ渡るために、読者の欲望をうまく掬い上げる誌面戦略で雑誌を作っていく。
だが、ここで問題にしたいのは、まだ円本の影響を受けず、雑誌が一定の割合で売れていた頃の、大正12年から大正15年くらいまでの探偵小説界のあり方である。その中で、斯界を方向付けようとしていた森下雨村を中心とした『新青年』編集局の姿をしばらく追ってみたい。そこに「探偵小説」というジャンルを売り出そうとする雑誌戦略が見えてきそうなのだ。
『新青年』編集局のストラテジー
『新青年』編集局は、創刊当時から読者に「探偵小説」を募っていた。西田政治や横溝正史、水谷準らの入選は、『新青年』のめざす探偵小説の方向にふさわしいものだった。これをさらに決定づけたのは、江戸川乱歩の投稿であったことはいうまでもないだろう。
大正12年4月増大号(探偵小説創作集)に乱歩の投稿作品「二銭銅貨」が掲載されたのである。前号の三月号の「編集局から」には「創作号に載する江戸川氏の『二銭銅貨』は予告にも述べたる如く、海外作家の作品と伍して何等の遜色なき傑作である。記者は、もし斯の如き作品が続々としてわが文壇に現るゝならば、海外の作品を翻訳し紹介するのは必要ないと敢へて言ふ」とあった。
これは、無署名の記事であり、森下雨村の言葉かどうか、わからないが、翻訳探偵小説に頼っていた現状が窺われ、乱歩の創作作品の素晴らしさが際立ったものであったことが理解できる。このあたりから『新青年』では、いよいよ本格的に探偵小説を募集するようになっていたのだ。
「探偵小説を募集す/=隠れたる作家の創作を慫慂す=」と題して、大正12年2月号で以下のように述べていた。
(前略)言葉を換へて云へば、海外の高級なる作品に接し、これに刺激されて、自ら筆を執つて立派な作品を提供してみたいと云ふ隠れたる作家があるやうな、またなければならないやうな気がせらるゝのである。いや、現に本誌に向て、海外作家に劣らざる傑作を寄せられた人もある位である。そこで本誌はかういう人々に向ひ、純然たる探偵小説の創作を慫慂し、傑作を得る毎にこれを誌上に発表して、文壇に紹介の労を取りたいと思ふ。純文藝的作品を取扱ふは本誌の任でない、然りながら探偵小説の紹介に於ては、本誌自らにその任にありと言ふも決して誇称ならざるべきを想ひ、ここに隠れたる未知の作家の発憤と努力を冀ふ所以である。
引用部にある「純然たる探偵小説の創作を慫慂し、傑作を得る毎にこれを誌上に発表して、文壇に紹介の労を取りたいと思ふ」という言葉など、『新青年』編集局の覚悟が現れているといってもいいだろう。
毎月募集の懸賞探偵小説とは異なり、この新しい募集は、規定として、一切の細則を設けず、紙数制限がなかった。匿名は自由で、誌上発表分には稿料を出すとあった。編集局としては、かなり本気で募集をしていた。引用文中に「海外作家に劣らざる傑作を寄せられた人もある」とあるが、これは乱歩のことだと思われる。記者の言葉と重なっているからだ。つまり、乱歩の出現によって、編集局は「探偵小説」を書く読者に、大きな期待を持ち始めたのであった。
翻訳探偵小説の犯人当ての懸賞が読者の探偵趣味を満足させ、創作探偵小説の募集が読者の作家志望熱を叶えさせる。探偵小説を消費する読者の欲望と探偵小説を生産する作家の供給を、二つとも満たす形で『新青年』は時代の中を動いていったことが窺えるだろう。
大正13年3月号では、西川登志次の「文壇作家の秘密小説」というエッセイが掲載されていた。谷崎潤一郎の「二人の芸術家の話」「或る罪の動機」「柳湯事件」「人面疽」、佐藤春夫の「指紋」、芥川龍之介の「開化の殺人」などをとりあげ、犯罪的内容を濃厚に取り扱った作品紹介をおこなっている。既成文壇に見られる探偵趣味の小説を取り上げることで、「探偵小説」の幅の広さを示そうとしたのかもしれない。
もちろん、探偵小説と文壇作家の接点を紹介するだけでなく、大正13年8月5日増刊号(探偵小説傑作集)では、文壇の諸作家が「探偵小説」に関する感想を述べていて、そのための伏線にしたかったのではないだろうか。『新青年』編集局が仕掛けているのだ。
同号には、加藤武雄「探偵小説雑感」、木村毅「探偵小説愛読者手記」、佐々木味津三「探偵小説雑考」、内田魯庵「探偵小説の憶出」、佐藤春夫「探偵小説小論」、久米正雄「探偵小説と人間味」、南部修太郎「探偵小説の魅力」、長田幹彦「探偵小説時代」、平林初之輔「私の要求する探偵小説」が掲載されていた。大がかりな特集だった。
編集主幹の森下雨村は、同号の「編集局から」で「文壇の諸家――その大部分は小生とは未知の方であるにも関らず、本誌のために、その多忙な時間を割かれて、探偵小説に就ての感想を寄せられたことを多とする。諸家の感想や意見は単に一般読者諸君のみならず編集者自身にも参考となることが多かつた次第である」と述べていた。江戸川乱歩の登場によって「探偵小説」が受け入れられ始めたことにかなり勇気づけられた企画だったと思うが、逆に言えば、既成文壇作家の側から探偵小説が無視できなくなった状況を示しているといえるだろう。そこに雨村を中心とする編集局が目をつけたのだ。そして、これだけの原稿を集めたのである。
だが、その一方で、このような状況で、大日本雄弁会講談社の『キング』の足音は近づいてきたのであった。『新青年』大正13年11月号の巻末に「愛読者諸君に」という告知が載った。大正14年の新年号より、内容及び外観の一新を図るつもりなので、読者諸君から忌憚ない意見をいただきたいというものだった。そのお礼として、編集局より一つ一つ返事を出すことと、愛読者名簿を作って編集同人との連絡の便を図りたいとのことだった。
続いて、翌一二月号には主幹森下雨村のマニフェストが「編集局より」に掲載された。日本の雑誌は外国の雑誌に比べると、内容が空疎な割に外観が賑々しいとし、次のように述べていた。
新聞紙半頁一頁大の賑かな広告を見ると、いかにも内容の充実してゐさうな、読んで面白さうな、魅惑を感じさせられる。が、その実、内容と云へば、二三頁の拙らない記事に大きな活字で表題をつけたり、毒にも薬にもならないやうな記事を、ゴテゴテと列べてある。◆何事も宣伝広告の世の中である。愚衆の目を惹くやうな記事の配列と広告で以て、売りさへすればよいといふのは、或は当世式かもしれない。しかし、それではあまりに読者を馬鹿にしたものであり、同時に又文化的事業に携る自己の天職を忘れたものと云はれても仕方あるまい。(中略)◆是非の論はとも角、本誌は何処までも内容中心主義でゆきたい。羊頭狗肉式に目次をゴテゴテ列べるよりも、記事は少なくとも真に読み応へのある内容の雑誌をこしらへたい。◆新年からの本誌は、この方針でゆくつもりである。予め読者諸君の御諒察を得ておく
雨村の言葉を読むと、明らかに『キング』の出現を意識した「内容中心主義」でいくという宣言であった。新年号は増大号のため、定価はそれに応じてつけられ、2月号から四八頁の紙数増加になり、口絵写真版を六頁の増加にするというのだ。定価も通常一冊五〇銭から六〇銭になった。「内容中心主義」というスローガンは、この時期における「探偵小説」振興に自信があったからこそ、声高に言えたのではないだろうか。
大正14(1925)年の「探偵小説」界隈
江戸川乱歩は、大正14年当時の探偵小説ブームについて、次のように述べている。
『探偵小説時代』。これは春日野緑君が大阪の社交倶楽部『清交社』で一夕の講演をやる、その表題である。如何にも現在の読物界は探偵小説時代と呼んでも差支ない様な気がする。これが頂上であつてこれから下り坂なのかもしれない。私はよくそんな予想を口外して、同業者のお叱りを受けるのだが、兎も角、現在では探偵小説専門の雑誌も、前例なく数多く出てゐる。
「探偵小説時代――探偵雑誌全盛のこと――」というエッセイの冒頭部分である。多少誇張気味であるにせよ、新聞にこのように述べるのには根拠があるはずだ。乱歩は、その第一に博文館の『新青年』の存在を挙げ、「この雑誌が今の探偵小説時代を招来するに如何に功労があつたか、同誌主幹森下雨村氏の先見と熱心が、如何に読書界を導き、我々の創作欲を刺激したか。或る人は同氏を日本探偵小説界の主と呼んだが、適評である」と述べていた。
次に、松本泰の主宰する『探偵文藝』、新しく大阪から創刊した『映画と探偵』、探偵趣味の会の機関誌『探偵趣味』を挙げ、「少々広告めいて恐入るが斯様に数へて見れば四つの探偵専門雑誌がある訳だ。探偵小説時代と称する所以である。其ほか、読物雑誌にしろ、婦人雑誌にしろ、少年雑誌にしろ、探偵小説をのせないものは売れぬといふ勢ひである」と、雑誌が売れる要素として「探偵小説」の効用を語っていた。少々言い過ぎのような気もするが、乱歩の気持ちもわからなくはない。
しかし、探偵小説がさまざまな雑誌を賑わしているのが事実だとしても、ブームを牽引をしていく「探偵小説」そのものの面白さが、どこまで人口に膾炙しているかは疑問である。たとえば、当時発刊されたばかりの乱歩の単行本『心理試験』の書評を、『サンデー毎日』の記者、春日野緑が書いていたが、作品の感想に入る前に次のように前置きをしていた。
一体探偵小説といふものは、なんといつたらいゝのだらうか。科学と文学の混血児とでもいふのだらうか。探偵小説作家たるものは、だから、小説家であると同時に、又科学者でゞもなければならない。いや、少くとも科学者になり得る頭を持つてゐなければならぬ。これをいひ換へれば、探偵小説作家たる人は、非常にたくましい空想の触角を持つてゐなければならぬと同時に、又緻密な鋭い頭脳を持つてゐなければならない。こゝに今まで日本に本当の意味での好い探偵小説作家の生まれなかつた原因があるのではなからうか。
「科学者」と「小説家」の両方の頭を持っていることが「探偵小説作家」の条件であるとしている。これと同じようなことを、森下雨村は『創作探偵小説選集』(大正15年2月)の「序」で述べているのであるが、これは、当時の探偵小説界の共通見解だったのであろうか。
この発言を、『サンデー毎日』の読者に向かって、探偵小説側からの挨拶と捉えてみたり、また江戸川乱歩の面白さを語るための助走と考えてみれば、この当時は、まだ探偵小説の面白みが一般の読者に普及していなかったことが考えられるだろう。そのための挨拶だったのかもしれない。
その後、この『サンデー毎日』を始め、さまざまメディアにおいて『心理試験』が好意的に取り上げられたとき、その面白さに勇気づけられ、雑誌の編集者が「探偵小説」を雑誌が売れる素材として、自分たちの雑誌に載せ始めたということは充分に推測できるのではないだろうか。
前述した乱歩の「探偵小説時代」は、大正14年の末だったが、この春日野緑も、そこで「探偵小説」の講演をしていたことが述べられていた。同年、乱歩といっしょに「探偵趣味の会」を創設した春日野は、大阪毎日新聞社会部記者という立場を活かして、『サンデーニュース』や『探偵趣味』を発行し、あちこちで「探偵小説」を自覚的に啓蒙して行ったことは知られている。
春日野は、この『サンデー毎日』の次号、つまり大正14年8月30日号に「創作探偵小説」として「Bの亡霊」という短篇を載せていた。「春から夏へかけて、特に梅雨の前後には、よく自殺やら、心中沙汰が伝へられ、毎日のやうに新聞の社会面を賑はすのでした。」で始まるこの作品は、時節を得た話で、Aが打ち明け話をD倶楽部の会員七、八名を前にして語る構成になっていた。AがBの亡霊を見たところからだんだん盛り上がってくるのだが、しかし、残念ながら「探偵小説」と呼べるべきものではなかった。だが、乱歩にしろ、春日野にしろ、機を見て、「探偵小説」をさまざまなメディアで宣伝し続けた志の高さを読みとる必要があるといえるだろう。
「探偵小説」に対する偏見
違った側面からもみてみよう。「探偵小説」がいくら売れるものだからといって、書くことをためらった作家たちがいたことも事実である。
國枝史郎は、この当時の探偵小説界を批評した「日本探偵小説界寸評」(『読売新聞』大正14年8月31日付)の中で、既成文壇の大家四、五人が、雑誌編集者に頼まれて「探偵小説」を作ったことを取り上げていた。一、二篇は立派なものであったそうだが、また作ってくれと頼んでも作ってくれる気遣いがないことを挙げていた。
「兎角文壇の大家なるものは、お上品なことが好きである。兎もすれば下等視されやうとする、なんで探偵小説家などへ、わざわざ成り下つて来るものぞ。と云ふことになつて見れば、止むを得ず」と述べていた。つまり、「探偵小説」は、文壇から軽く見られていたのである。これは明治26(1893)年以降、展開された硯友社による「探偵小説退治」と同じ文脈が、今だに続いていることを示しているだろう。
乱歩の「心理試験」に関しては、本来心理試験なるものは犯人捜索の際には指紋ほど役立つものではなく、探偵小説の材料にするには多少弱い点があると断った上で、「それにもかゝはらずその心理試験を、無雑作に肯定してかゝつた所に、この創作の不用意さがある。心理の推移解剖が、常識圏内から出られなかつたのも、この作の欠点の一つであらう」と断じていた。
これに対し、乱歩は「探偵小説も斯く問題にされるに至つたかと思ふと一寸愉快だ」と前置きした上で、「あれで心理試験の弱点を指摘した積もりなのだが」と反論をしていた(「探偵小説寸評を読む」『読売新聞』大正14年9月13日付)。しかし、その発言に対して國枝は、「抗議書拝見。折角の君の抗議だが、僕は僕の寸評を訂正しない」と開き直っていたのである(「晴雨計」『読売新聞』大正14年9月16日付)。
乱歩の前置きの言葉に注目すると、大正14年8月、9月時点では「探偵小説」は、まだ一部のファンの間だけのものだったことが考えられるだろう。言い換えれば、このあたりの時期から、ようやく「探偵小説」がさまざまなメディアを賑わしていったといえるのではないだろうか。やはり改めて感じるが、乱歩の単行本での登場は読書界に大きな衝撃を与えたのである。一度めは、大正12年の『新青年』に登場したとき「探偵小説」読者を驚かしたことだ。二度めは、今回の単行本での登場で一般読者を魅了したときのことである。
國枝が、どのような文脈で乱歩を批判したのはあまりよくわからないが、『新青年』大正14年12月号の「マイクロフォン」で、「トリツク、トリツク! 解剖、解剖! これだけで近代の探偵小説とは云へない」と叫んでいたことや、ちょうど乱歩の抗議に反論しようとしていた9月16日の頃、國枝が次のように言っていた事実もある。「以前に一度読んだのですが、必要があつて最近またフロイドの精神分析学を読」もうとしたそうだ(「私の生活」『サンデー毎日』大正14年10月4日号)。
推測になるが、フロイトの精神分析学を通じ、心理の解剖を理解して、反論の根拠や作品の内容に活かしたかったのかもしれない。もう少し「科学」的に「解剖」(分析)をしつつ、それに物語の面白さを加えたかったのだろう。そこには、國枝なりの「探偵小説」への不満があったのだ。だから乱歩にも、必要以上にからんだのかもしれない。
ところで、不況の波は徐々に深刻化し始めていた。『新青年』大正14年12月号の「編集局から」には「ありふれた言葉ながら、この一年を振返つてみると、真に感多しと言はざるを得ない。真先に痛感することは、不景気風の余波を受けて、一般雑誌界亦少なからざる打撃を蒙つた中に、『新青年』が何等部数の低減を見ずに通つて来たことである」と述べられていた。不景気のため雑誌全般が売れなくなってきていたのだ。しかし、『新青年』は探偵小説ブームのおかげで助かったということであろう。
ということは、他の雑誌も探偵小説を取り上げて、部数の伸びを計ろうとするだろう。あるいは、体力のある出版社は、雑誌の値段を安くして対抗しようとするかもしれない。『文藝春秋』『キング』がそうだ。その意味において、既成の文壇作家たちも生活のために「探偵小説」を書くことも考えられる。
同じく「編集局から」には、「日本の探偵小説界は今、翻訳より創作の時代に移らんとしつつあるのである。読書界が探偵小説の刺激と興味に目を覚まされたと同時に、これを通俗文学として侮蔑し来つた文壇人も遅蒔きながらその清新な芸術味に共鳴し来つた観がある」とも述べられていた。言い換えれば、「探偵小説」の「芸術味」を新たな素材として、既成の文壇作家たちも市場を開拓していく時代になり、そのおかげで「探偵小説」も活気を呈してきたということになるだろう。
しかし、これは「編集局」の一記者が書いたものであり、編集する側からみた雑誌市場現況である。作家の側からは、あるいは一般読者の側からは、まだ「探偵小説」に対する偏見は残っていたようである。
このあたりの微妙な事情を、甲賀三郎は「一般に探偵小説を書く人は探偵小説家と呼ばれて只の小説家と区別されてゐるらしい」とし、「結局探偵小説と云ふのは低級な煽情的なそして社会性のないもので、探偵小説家と云ふものは詰らないものとなつて終つたのである」と自嘲的に話していた(「小説家の探偵小説」『読売新聞』大正15年2月1日付)。
つまり、編集側は「探偵小説」流行を雑誌の売れる活力にし、「探偵小説」を書く作家側は「探偵小説」の位置づけに悩みつつもそれを認めさせようとして懸命に努力している姿が窺えるのである。それに、既成文壇側の作家たちが加わり、「探偵小説」への偏見と啓蒙と売れる材料として「探偵小説」が渾然一体となり、読者の前へ迫った来たのが、この時代だったのであった。
既成文壇と大衆文藝
文壇の大久保彦左衛門と呼ばれている中村武羅夫は、「文壇雑筆(下)通俗小説の勝利」(『読売新聞』大正15年2月25日付)の中で、「謂ゆる『私小説』や『心境小説』の全盛時代が、過ぎ去つたやうに思ふ。(中略)今や、すべての創作は、滔々として通俗化しつゝある。二三年前までは、通俗的な作品を書くことを、作家としての邪道の如く非難し、通俗小説なんか軽蔑して居た人々が、挙つて通俗小説を書くやうになつて来たではないか」と述べていた。
雑誌『新潮』の編集で、斯界への目配りが利く中村である。彼がこのように語っていることは、たぶん正しいのだろう。そして、その「通俗小説」の枠組みの中に「探偵小説」も入っていたのだ。
『中央公論』大正15年7月号では、「大衆文藝論」特集を組んでいた。直木三十五は「大衆文藝分類法」の中で「愈々益々多くの人々はたゞ感覚的生活、享楽的生活に焦燥してゐるのみである。探偵小説の流行大衆文藝の隆盛はこの要求の一部分の現れで、享楽生活中の『読書』の一項目に基いてゐるだけのものである」と看破していた。「感覚的生活、享楽的生活に焦燥してゐる」という内容は、同じく千葉亀雄も「大衆文藝の本質」の中で語っていた。本稿の冒頭で述べた発言につながっていくものである。それゆえ、乱歩も特集の中で「私が書いている探偵小説は、いふまでもなく芸術には遠いものだし、大衆文藝といふ程のものでもなく、たゞ一種の遊戯に過ぎないものだといふことを附加へて置きます」としか言いようがなかったのかもしれない(「発生上の意義丈けを」)。
既成文壇側では、さらに『不動調』大正15年8月号において、「大衆作家の観た通俗小説」という「はがき評論」の特集を組んでいたが、あくまで「大衆文藝」「通俗小説」というジャンルを問題にするのであって、「探偵小説」ではなかった。つまり、「探偵小説」は「大衆文藝」「通俗小説」に内包されてしまうサブジャンルであり、雑誌市場におけるサブブランドとして見なされていたのであった。
当然このような視線は既成文壇側からのものであり、「探偵小説」側は自分たちをメインストリームにしていかなければならないという志に燃える。探偵趣味の会では、春陽堂から『創作探偵小説選集』を大正15年2月に発刊して自分たちの「探偵小説」をメインブランド化しようと試みている。馬場孤蝶や森下雨村が「序」を寄せていた。ここで雨村が「序」を書いていたことに注目すれば、『新青年』が日本の創作探偵小説を切り拓いたことへの意味づけがすでに確立し、雨村の功績が認められていたことを示すといえるだろう。
『新青年』はこの時期、複数の作家による合作探偵小説「五階の窓」の連載を試みていた。編集局は、そこでも犯人当ての懸賞をしていた。さまざまな試みで読者の興味を惹こうとしていたのだ。
売れ行きは探偵小説大流行のおかげで悪くなかったらしいが、雑誌界は不景気だったようである。「誌界不況を伝へらるゝ今日、高級娯楽雑誌で、ぐんぐん発行部数の伸びてゐるのは、恐らく本誌だけであらう。これで見ると、日本の読者もだんだんと目ざめつゝあるのだ」と景気の良いことを「編集局から」(大正15年9月号)で言っていた。
実際、『新青年』は売れていたらしく、大正15年8月夏季増刊号(探偵小説傑作集)の「編集後記」では「古本屋の店頭に本誌の春の増刊(引用者註・「翻訳創作選集」八〇銭)があつたので、訊いてみると三十銭だと云つた。馬鹿値だナと云ふと、いや高くない、これで買手がいくらもある、それにこの雑誌は滅多に出ませんからね」と答えた記事も載っていたのだ。つまり、需要はあり、『新青年』は読者が買って愛読する雑誌としてあったことが窺われるだろう。
しかし、その一方で、山本実彦の率いる改造社は、不況脱出の起死回生策として円本の予約出版をもくろんでいた。『新青年』側は、この時点で、それを横目で見ながら動静を伺い、自分たちの雑誌作りに精一杯だったと思われる。
『新青年』大正15年12月号の巻末の「編集日誌」では、9月18日から10月14日の一二月号校了までの作家とのやりとりが紹介されている。そこを見ても、探偵小説が多方面に注目され、忙しく仕事をしている姿が浮かんでくる。探偵趣味の会が、9月24日午後2時からにレインボーグリルにて探偵小説出版記念会を行ったことや、同日午後五時より京橋の読売講堂にて「講演」「映画」「演劇」の夕(ゆうべ)を催したことが簡単に紹介されていた。
その頃、読売新聞社はこれを後援していて、読売文藝欄で大々的に広告を打っていた。当時、読売新聞文藝部は、さまざまな文藝同人結社の講演会の後援を行い、読売文藝欄で会の告知、報告をしていた。探偵趣味の会だけでなく、『騒人』社やウーマンカレント社などいろいろな会の後押しをしていた。
探偵趣味の会の夕においては、会費(五〇銭)や場所時間、内容までも記載された広告が載っていた。また出版記念会の写真や「講演」「映画」「演劇」の夕の模様は、『読売新聞』9月26日付で掲載されていた。
夕の「開会の辞」に、森下雨村が「新青年主幹」として紹介されていたが、これは象徴的な場面といえるのではないだろうか。つまり、雨村は、いつでもこのような集まりで「探偵小説」の開拓者として皆を率いていく存在として認められていたのだ。自分たちの「探偵小説」をさまざまなメディアを通じて広めていこうとする懸命な姿がここにあったのだ。
昭和2(1927)年の「探偵小説」転換期
ただ、森下雨村自身も、この時期が「探偵小説」の転換期かもしれないということに気づいていた事実がある。雨村は、「一転機にある探偵小説」(上下『読売新聞』大正15年11月30日、12月1日付)で、こう言っていた。
『新青年』としても、これ迄、どちらかと言へば、興味中心の物よりも、所謂附きであつても、芸術的匂ひのする物を、多く掲載する方針を採って来た。併し、これはこれで私として一種の信念があつたからである。
なぜなら、あのアメリカあたりに瀰漫している俗悪低級な探偵小説と、袂を分かつために芸術的洗礼を与えなければならないと思ったからだそうだ。俗悪低級とは猟奇心理のみを求めるものだが、そうならないために「芸術的匂ひ」の物を多く掲載して、「探偵小説」の上品さを出したかったようである。それは、うまく行ったとも述べていたが、しかし、これからは「もつと面白い、探偵小説らしい探偵小説」に移行しなければならないとも強調していた。
雨村自身は「相当以上の上品さを保ちながら、他方に於て、充分に興味中心であるもの、さう言つたものが、将来の探偵小説を占領するだらう。そしてそれが当然の成行である」と希望を持っていた。つまり、「探偵小説」が飽和してきたことを受けて、質がよくなおかつ面白みのある作品の出現を夢想していたのだ。その例として、『新青年』昭和2年新年号から連載される小酒井不木の「疑問の黒枠」に期待を寄せていたのである。
大正15年が「探偵小説」花盛りだったことは述べてきたが、國枝史郎もまた「創作探偵小説は本年度に至つて活気を呈し、読物文藝的大方の雑誌は競つて夫れを載せたやうです。『新青年』や『探偵文藝』や、乃至は『探偵趣味』などは、それの専門の雑誌だけに、創作探偵小説を、満載したのは当然としても『苦楽』『現代』『サンデー毎日』『大衆文藝』『講談倶楽部』これらの雑誌が多くの頁を、そのために裂いたといふことは、可成り目立つた傾向でした」とその様子を語っていた(「探偵文壇鳥瞰」『新青年』大正15年12月号)。これでもわかるとおり、「探偵小説」はある種の飽和の様相を呈しており、雨村はそのことにいち早く気づき、前述のような提案をしたといえるのではないだろうか。
こうした不安感は、この時期、雨村に限らず、伴太朗が「探偵小説は何故行き詰まる?」(『探偵趣味』昭和2年4月号)の中で、「今の日本の探偵小説が行き詰つてゐるといふことは、探偵小説作家自身が認めてゐる明瞭な事実であらう」と述べていたり、甲賀三郎も「探偵小説の不振」(『探偵趣味』昭和2年10月号)の中で、「唯一の専門雑誌だつた新青年はモダーンボーイ横溝君によつて、ノンセンス小説に塗り替えられやうとしてゐる」と言い、「本格探偵小説不振は何と云つても探偵小説界の不幸である。批評家達はもう少し本格ものを育てるやうにして貰ひたい」と結んでいたりしていた。
実際、昭和2年に入ってから、『新青年』の編集は雨村から横溝正史にバトンタッチされ、モダンメンズマガジン風に内容も表紙も変わっていった。雨村に期待された不木の「疑問の黒枠」も、彼自身が「一つのミステリーを、作中の人物がみんなで解決するやうし、併せて映画化に便利ならしめたいと思つて筆を執つた」のだそうだが、「実をいふと私自身、探偵小説の行くべき道をどうしたらよいか、まだ迷つて居る」と弱気なことを述べていたのが見える(「探偵小説の行くべき道」『読売新聞』昭和2年4月9日付)。「疑問の黒枠」は、直木三十五によって映画化も企画されたのだが、結局は完成しなかった。また、「疑問の黒枠」の犯人当ての懸賞もまた『新青年』昭和2年6月号でされていたが、読者を惹きつける新味はなかった。
※小酒井不木「疑問の黒枠」の映画化については、拙稿「戦前、唯一の映画化 『一寸法師』江戸川乱歩の昭和二年」『映画論叢』52号の中で、志波西果と直木三十五の関係から言及しています。よろしかったら、参照してみてください
一方、雨村は、昭和2年に入って『文藝倶楽部』の編集にまわされてしまった。『新青年』で、雨村のからんだ最後の企画「探偵ラヂオドラマ」の募集(『新青年』昭和2年1月新春増刊号・探偵小説傑作集)は、昭和2年10月号で当選者が発表されたが、「創作探偵小説に比較してラヂオドラマの方は完全に失敗した。一つとして放送に役立つものは得られなかつた」と厳しい論評と共に、一等なし、二等一人、三等三人の名前が掲げられるだけの寂しいものになってしまった。折からのラジオブームで、需要の多かったはずであるラジオドラマも「探偵小説」では、まだうまくいかなかったのである。
※当時のラジオブームについてのムーブメントを拙著『夢見る趣味の大正時代』(論創社、2010年)で紹介しています。とくに長田幹彦がどのようにラジオ放送に関わっていったかを述べています。よろしかったら、ご覧ください。
しかし、今まで見てきたように、森下雨村が蒔いた「探偵小説」の種は、見事に大正12年の乱歩の登場で芽生え、大正14年と15年において、花盛りになっていった。そして次第に、より良い「探偵小説」を求めて淘汰の時代になっていこうとしているのが理解できるだろう。
その意味で、雨村から『新青年』の編集を受け継いだ横溝正史が世相を読み、モダンマンズマガジン化を図ったのであるが、それは「探偵小説」の行き詰まりを回避するためだったとも読めるのではないだろうか。「探偵小説」が熟していく時間を雑誌は待ってられないのだ。『新青年』編集局のメディア戦略も、「探偵小説」というジャンルでは読者の欲望をうまく掬いあげられなくなってきたことを示していた。時代が変わってしまったのだ。
しかし、そうした『新青年』の雑誌のあり方とは別に、「探偵小説」はさまざまな書き手によって裾野が拡げられ、多種多様な方向へと進化していった。森下雨村の素晴らしさは、『新青年』という雑誌を中心に「探偵小説」というジャンルの面白さを人々に教えていったところにあり、「探偵小説」の側面から人々の欲望を掬いあげることに長けていたことにあるのではないだろうか。『新青年』と雨村の出会いは、まさに日本探偵小説界において最大の幸福だったといえるだろう。

「高木彬光没後30年」「一九二五年の『新青年』」の二大特集
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