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馬場孤蝶と探偵小説  湯浅篤志

※次に掲げた文章は、2021年5月に発行された、馬場孤蝶『悪の華』(ヒラヤマ探偵文庫13)の巻末に掲載された「解説 馬場孤蝶と探偵小説」の転載となります。転載に際して、適宜加筆修正を施しました。ご了承ください。

馬場孤蝶『悪の華』ヒラヤマ探偵文庫13(2021年5月初版発行)

はじめに 
 
 馬場孤蝶と探偵小説の関係は?、というと、大正時代において、欧米の探偵小説を紹介した評論家というイメージが強いかもしれない。たしかにそれはその通りなのだけれども、それでは実作のほうはどうなのだろうか、という疑問が浮かんでくる。
 日本文学史を勉強すると、近代文学のところで、明治期の樋口一葉らとともに、孤蝶の名前を少し目にすることがあるだろう。島崎藤村がまだ詩人だった明治20年代後半に『文学界』という雑誌があった。孤蝶はそこに参加した同人であったのだ。詩や小説、随筆、翻訳などの小品を発表していたのである。
 しかし、その後は学校で習う文学史にも名前は出てこない。ある意味で、忘れられた作家になっている。そういう意味で、孤蝶が本巻に収録されている探偵小説を書くに至ったまでの来歴を知っておくのは悪くない。なぜ孤蝶が探偵小説に関わるようになったのかを知るためのよい機会になるかもしれない。以下に簡単に記しておこう。なお、参考にしたのは、木戸昭平さんの『馬場孤蝶』(高知市民図書館、昭和60年3月発行)という本である。綿密に調査をされていて、孤蝶と彼の生きた時代を活写している。 

馬場孤蝶が探偵小説を親しむまで
 
 馬場孤蝶は、明治2(1869)年11月8日、高知県高知市に生まれ、本名を勝弥といった。父は代々土佐藩に仕えた馬場来八、母は寅子であった。十九歳年上に、兄の馬場辰猪(たつい)がいた。辰猪は自由民権運動で名前を知られ、土佐藩の藩費留学生として英国へ留学もしていた。
 明治11(1878)年の初夏、孤蝶が十歳のころ、馬場来八一家は、東京にいる辰猪を頼って高知を離れた。明治17(1884)年には神田の共立学校に入学、同級には桑木厳翼、幸田成友、平田禿木らがいた。明治22(1889)年には明治学院に入学し、寄宿舎に入る。同級には島崎藤村、戸川秋骨らがいた。藤村はポンチ絵を描き、人を冷やかしていたので、孤蝶は怒って寄宿舎の一室で組み打ちをしたこともあるという。
 学校では三学年の終わりに、孤蝶は英語の弁論大会に出て二等賞をとった。国文学の成績も優秀で、明治24(1891)年6月に卒業している。その後、英語教師の免許をとり、その年の暮れには高知市の私立共立学校へ赴任した。しかし、明治26(1893)年8月には退職し、再び東京に戻った。そこで藤村や秋骨のいる『文学界』に参加したのである。
 『文学界』では樋口一葉と知り合い、行き来をしていたが、そのころ孤蝶は中等学校の教員検定を取ろうと勉強をしていた。実際合格し、明治28(1895)年8月には滋賀県の彦根中学校へ英語教師として赴任する。しかし在職中に一葉との今生の別れもあり、明治30(1897)年1月には辞任してしまった。
 東京に帰った孤蝶は浦和中学校の教員となったが、同じ年の11月、日本銀行文書課に勤務することになった。明治32(1899)年の春には、上村源子と結婚した。翌年には長女が誕生。明治34(1901)年ころから『明星』に作品を掲載するようになった。明治35(1902)年には、初の単行本『野守草』を新声社から発行する。同じ年、次女も生まれたが、父の来八が亡くなった。このころ、斎藤緑雨とよく遊ぶ。明治36(1903)年には長男が誕生する。
 明治39(1906)年には藤村、上田敏、森田草平らと第二次『芸苑』を発行する。孤蝶はこの年の9月に日本銀行を辞めて、慶応大学で教鞭をとることになった。ヨーロッパの近代文学を教える。ここで孤蝶は欧州大陸文学の泰斗と呼ばれるようになった。昭和5(1930)年まで続くのだが、一時期辞めたこともあったらしい。草平を介して、夏目漱石と知り合ったのは、明治40(1907)年の冬ころだった。
 明治41(1908)年からは東京日日新聞社の客員となり、学芸部主任を務めるようになった。翌42(1909)年5月半ばからマキシム・ゴルキイの「国事探偵」を『東京日日新聞』に連載をする。これは明治43(1910)年6月に昭文堂から単行本として発行された。このころは、早稲田大学にも出講しており、森下雨村が孤蝶の授業をとっていた。しかし、雨村に言わせると、出講は一年と続かなかったらしい(「「悔いなし、寂しからず」」『森下雨村探偵小説選Ⅲ』所収より)。
 明治44(1911)年ころには夏目漱石に勧められて、『三田文学』『文芸倶楽部』に小説を書いたこともある。孤蝶の気持ちを代弁したかのような自伝的小説であった。しかし孤蝶の小説家としての文名はあがらず、当時は翻訳家しての名前のほうが知られていた。
 大正に入ると、孤蝶はトルストイの『戦争と平和』の翻訳に取りかかった。もちろん英訳本からである。また、大杉栄や荒畑寒村らの雑誌『近代思想』の会合にも出席するようになった。さらに、大正2(1913)年2月には、平塚らいてうの青鞜社の講演も引き受けている。演題は「婦人のために」であった。さらに『へちまの花』という雑誌には「婦人の解放」という論文を寄せている。大正3(1914)年7月には『戦争と平和』第一巻が出版された。同年12月、母の寅子が亡くなった。
 大正4(1915)年1月には、安成貞雄と和気律次郎が孤蝶宅へやってきて、衆議院議員に立候補することを孤蝶に勧めている。生田長江や森田草平らの同人誌『反響』も、それを後押しすることになった。堺利彦も、1月23日付の『万朝報』に「東京社会主義有志」の名前で、孤蝶を衆議院議員候補として勧める広告を出した。しかし、田中貢太郎はそれが気に食わなかった。
 さらに、選挙資金を調達するために、実業之世界社から『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援――現代文集』(大正4年3月12日発行)を出版している。その冒頭に漱石の「私の個人主義」が掲載され、森下雨村もまた、森下岩太郎名義でクロポトキンの「農奴」を訳して寄せていた。堺利彦は「辰猪と勝弥」という文を寄せていて、自由党の兄、辰猪の意志を次ぐのは勝弥であると持ち上げていたのである。
 しかし、選挙結果は落選だった。孤蝶は、最後まで当選を信じていたらしいが、落選もまた覚悟していたようである。矛盾した言い方になってしまうが、周りの情熱に応えようとする孤蝶の姿が浮かんでくるであろう。ちなみにこの選挙には、あの坂本紅蓮洞も立候補しており、最下位で落選している。
 大正5~6(1916~1917)年の頃、大学教授としての孤蝶は、三田での講義が終わると、銀座方面へ漫談をしながら学生をよく引き連れて歩いていた。これは昔からであり、最初の頃は久保田万太郎や佐藤春夫であり、この頃では水木京太や小島政二郎などであった。孤蝶の博識と人柄に親しんだ学生も多いのだ。
 大正9(1920)年ころに、生方敏郎、田中貢太郎、大泉黒石、村松梢風といった文士たちで「石蕗会」ができた。しかし、読売新聞にケチをつけられたので、再発足のため、田中貢太郎が馬場孤蝶を担ぎ出した。会の名称は「泊鷗会」に決まった。菊池寛の命名である。菊地は最初の会合に出ただけだった。泊鷗会は、孤蝶を中心とする文雅の集いのようなものだったという。この会は、孤蝶の亡くなる昭和15(1940)年まで続いている。
 前述した木戸昭平『馬場孤蝶』によれば、この会の最初のころに、新講談を書こうという相談があったそうだ。講釈本には、悪人とか悪党とか言っていながら、それに対するアドミレーション(感嘆、敬愛、憧れ)がところどころ出ているのであるが、それが非常に面白いと、孤蝶は思っていたようである。
 大正9年頃の小説(自然主義文学)は、告白小説から私小説の出てくる時期にあたり、文学作品の内容が「私」に引きこもる傾向を強く持ち始めていた。孤蝶はそうした情勢を憂えて、文芸の社会化か、それとも社会の文芸化かという問題提起をして、双方に進歩改革の余地があると断じたそうだ。それが孤蝶の探偵小説に親しむきっかけであったということらしい。
 この頃、孤蝶の大学での教え子でもあった森下雨村は、博文館で『新青年』の創刊を任されていた。何か雑誌の目玉になるような読み物を考えていたのだが、探偵小説がよいのではないかと閃いたそうだ。探偵小説は当時、低級な読み物とされていたのだが、雨村はそのことを面白い探偵小説が紹介されていないからと考え、洋書の中から高級な探偵小説を探していこうと思ったのである。
 雨村は、丸善に洋書を何十冊も注文した。しかし、届いた洋書を読むには手が足りず、博文館の長谷川天渓や、恩師の馬場孤蝶に原作の探偵小説を読んでもらうことにした。雨村が恩師に対して、そのような気安いことを頼めたのも、孤蝶の妻が雨村と同郷の高知県佐川町の出身であり、孤蝶の家の台所からでも入っていける間柄であったからである。
 それからというもの、孤蝶は探偵小説にはまり、面白い、品のある欧米の探偵小説を雑誌や新聞で紹介するようになった。また、それをネタにして講演もおこなっていたのである。

江戸川乱歩と孤蝶

 あの江戸川乱歩も、その孤蝶の講演を聞いていた一人だった。
 大正11(1922)年の夏、乱歩は神戸の図書館で孤蝶の探偵小説の講演を聴いていた。その内容に触発されて書きあげたのが「二銭銅貨」「一枚の切符」であった。乱歩はそれらを孤蝶に送ったのであるが、何の音沙汰もなかった。孤蝶は、そのころ地方に行ったり、樋口一葉の記念碑建立の件でたいへん忙しく、読む暇がなかったのである。代わりに孤蝶の長男が読んだという逸話が残っている。
 乱歩は孤蝶に原稿を返却してほしい旨の手紙を書き、送り返してもらった。そして、それをそのまま雨村に送ったのだ。『新青年』を発行する博文館に届いた原稿「二銭銅貨」は、しばらく雨村の編集部の引き出しに眠っていた。雨村もまた忙しかった。しかし、乱歩は早く読んでほしいと、自信満々の手紙を送った。雨村は仕方なく読んだのであるが、一読三嘆、本当にびっくりしたようだ。これが日本の作品か、外国の作品にヒントを得たのではないかと思ったらしい。雨村はそれを確かめるべく、名古屋の小酒井不木に原稿を送った。不木からは、そんなことはありません、と喜びにあふれた返事が来たのであった(森下雨村「探偵作家思ひ出話」『森下雨村探偵小説選』所収より)。
 「二銭銅貨」が華々しく『新青年』に掲載されたのは、大正12(1923)年4月号であった。雨村が孤蝶に探偵小説を教え、孤蝶はそれをテーマに地方で講演し、それを聴いた乱歩が雨村に作品原稿を送る。森下雨村の蒔いた創作探偵小説という種は、孤蝶を介し、乱歩が花を咲かせて見事に戻ってきたのであった。
 ここまで見てきたように、孤蝶はヨーロッパ大陸文学の翻訳を通して、文学と社会の関係に目を向けるようになったのは明らかだろう。文壇の小説が私小説に傾斜していく中で、社会と関わる探偵小説に注目していったのは、孤蝶にとって自然の流れであったのかもしれない。

 さて、本巻に収録した三つの中編探偵小説は、いずれも大正時代後期の『婦人倶楽部』に掲載されたものである。
 「髑髏の正体」は、大正13(1924)年4月号(5巻4号)から6月号(5巻6号)までの連載であり、挿絵は高畠華宵。私立探偵石田憲三は、敏俊な推理力と豊富な想像力、軽やかな行動力をもって幾多の迷宮入り事件を解決してきた。石田が保養で訪れたO町で「化物屋敷」と呼ばれる洋風建築が火事になり全焼した。その焼け跡からほとんど白骨のみになった二人の屍骸が発見されたところから物語は始まっている。
 この小説には、犯人さがしの懸賞がついていた。犯人の名前と二人の死者の名前を当てるものだった。〆切は5月5日であり、発表は同年7月号でおこなわれた。賞金200円が一人、20円が五人、10円が十人、以下5円が二十人、2円が五十人選ばれ、さらに、1円、50銭、20銭の図書切符が多数配られていた。正解者は当然何人もいるので、抽選で賞金の額を決めていた。総額1000円の大懸賞だったのである。

 「悪の華」は『婦人倶楽部』大正14(1925)年1月号(6巻1号)から4月号(6巻4号)までの連載で、挿絵は早川桂太郞。東京郊外の場末に近いところに、大劇場東邦座が建築されたのであるが、関東大震災の難を逃れることができ、大成功を収めていた。そこに、アメリカやヨーロッパで驚くべき人気を博した新歌劇の一座芙蓉社がやってきて、公演をおこなうことになった。プリマ・ドンナの野澤歌江の声と容姿に惹かれ、連夜満員の好況であった。ある夜、そのステージに小さなガス爆弾が投げ込まれ、爆発が起こった。人々が逃げ惑う中、テノールの吉村六郎が何者かに殺されてしまう。ちょうどそのとき、客席にいた大川原探偵社の腕利きの探偵、団芳雄は動き始めていた。
 ここにも犯人さがしの懸賞がついていた。今回は、犯人の名前だけを書けばよかった。懸賞金総額は、前回と同様の1000円。5月号で発表され、前回と同じ賞金の種類と人数だった。

プリマ・ドンナの野澤歌江【イメージ】


 「荊棘の路」は、『婦人倶楽部』大正15(1926)年1月号(7巻1号)から4月号(7巻4号)までの連載だった。挿絵は早川桂太郞。かつて罪悪の路に落ちていたお幸は、病に冒されていたのだが、それを救ったのが金庫破りの名人川田六之助だった。二人はいっしょに暮らし始め、更生の路を歩み始めていた。しかし、貧しかったため、お幸の病気は治らず、ひどくなっていく一方だった。そのようなとき、昔の知り合い、掏摸(すり)の村田権蔵が尋ねてきた。どうやら六之助に二万円の仕事を頼んでいるらしい。それを聞きつけた元大学教授の浅田貞三警部は捜査に乗り出していく。
 この作品にも、犯人さがしの総額1000円の懸賞がついていた。犯人の名前だけを書けばよく、〆切は3月5日で、発表は5月号だった。しかし、今回は賞金がなくなっていて、賞品に変わっていた。一等は一名で銘仙夜具四枚揃一式(価格100円)、二等は二名で小浜小紋縮緬女羽織一着(価格50円)、三等は五名で金時計一個(価格30円)、四等は十名で十八金徹し彫金具付帯止(価格10円)、五等は美麗な懐中鏡とあり、なんと千名に配っていたのである。

 これら三編の作品は、いずれも犯人さがしの懸賞付きであり、探偵小説を通じて『婦人倶楽部』を読んでもらい、部数を伸ばしたいという編集部の思惑があったのであろう。馬場孤蝶の探偵小説が『婦人倶楽部』に三年連続で掲載されていたのであるが、昭和に入ってからは見当たらない。孤蝶の探偵小説を載せる余裕がなくなったのであろうか。
 馬場孤蝶の探偵小説を一言でいえば、ハラハラドキドキの物語というよりも、落ち着いて地道に犯人を追い詰めていく要素が強いといえるだろう。トリックというものよりも、犯人のその場の考えに任せた行為を中心にすえて、謎解きを楽しんでいるように見える。独特の個性を持った犯人もいないし、仕掛けもないので、事件の解決に「なるほど!」と膝を打つこともない。しかし、読後に湧き上がってくる暖かい気持ちに、なんとなく癒やされるのはどうしてなのだろうか。孤蝶の探偵小説には、優しさが詰まっているのである。


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