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坂本紅蓮洞評判記大正編  湯浅篤志

※次に掲げた文章は、2002年6月15日に発行された、『さんどりあ』第2号(参土会 発行)に寄稿した「坂本紅蓮洞評判記大正篇」の転載となります。転載に際して、適宜加筆修正を施しました。ご了承ください。
※なぜ、ここに拙稿を掲載したかといいますと、以前の記事(「馬場孤蝶と探偵小説」2025年6月19日付)の中で、馬場孤蝶の衆議院選挙結果を記したときに、「あの坂本紅蓮洞」と述べてしまったからです。坂本紅蓮洞の人柄がわからなければ、「あの」という言葉はつけられません。そのため、ここに紅蓮洞のことを記すことにしました。
※また、2025年6月5日付記事の「長田幹彦とと「九番館」」で述べた〈遊蕩文学撲滅論争〉を坂本紅蓮洞の視線からみた内容にもなっています。長田幹彦の異なる一面が見えてくると思います。
※なお、このエッセイは、山下武先生主宰の参土会で、1994年12月18日に紅蓮洞の作品年譜(大正編)などとともに発表した内容を元にしております。発表後、山下先生をはじめ、出席者の皆様には、いろいろと教えていただきました。ここに記して、感謝申し上げます。
※坂本紅蓮洞は、2025年の今年で、ちょうど没後100年になります。忘れられた文壇劇団名物男、紅蓮洞を思い出していただければ、ありがたいです。よろしくお願いします。

『さんどりあ』第2号表紙(参土会、2002年6月15日発行)
表紙タイトルデザイン 中村章子
表紙イラスト ハインリッヒ・フュースリ「沈黙」

佐藤春夫「都会の憂鬱」の中の坂本紅蓮洞

 詩人で、小説家の佐藤春夫「都会の憂鬱」(『婦人公論』大正11年1月号~12月号、9月号休載)を読んでいると、次のようなシーンにぶつかる。主人公の尾澤峯雄が、妻で女優の瀬川瑠璃子を浅草の楽屋に訪ねたときのことである。
 

「おい尾澤! 尾澤!」
 突然に彼の名前を呼ばれたので彼はぎくりとした。しかしその声は二の太刀を浴せでもするかのやうに続いた。
「何だい。女房を迎へに来たのか?」
 のっそりと舞台うらの方から出て来たその声の主を、彼はその場から引き摺り出すやうに誘つて、彼自身は逃げるやうに吉澤の前を立ち去つて来た。やつと彼等が外に出た時に彼は、あの彼をあんなにどぎまぎさせた不作法な男に言ひかけた。
「おい、ゴドさん。困るぢやないか。おれや吉澤とは古い知り合ひだが知らん顔してゐるのに。君に呼びかけられて面くらつたぜ」
「ふむ、お前吉澤知つてゐたのか。おれはまたそんなことを知る筈はなしよ……」
 ゴドさんと呼ばれたその男はさう答えた。

  この「都会の憂鬱」は、「田園の憂鬱」(大正8年に定本が出版される)に続く佐藤春夫の私生活をモデルにしたものとされている。物語の冒頭では、尾澤夫妻は幽霊坂の中程にある平屋の一軒家に住んでいた。しかし、途中から日当たりのよい下宿に引っ越していた。これを、佐藤春夫の現実時間に重ね合わせると、大正6(1917)年の1月から5月くらいの時期と推定できるのであるが、この時期には、すでに「ゴドさん」と呼ばれる人物と、佐藤春夫が知り合いだったことを示している。もちろん、虚構をそのまま現実にあてはめたいのではなく、「ゴドさん」という人物が、どのようなキャラクターだったかを考えるために引用してみたのだ。
 ゴドさんは、続けて尾澤峯雄に、こうも言っている。
 

「おらあ第一お前が気に入らねえ。苟も尾澤峯雄ともある者が、な、女房に女優をさせて自分がのらりくらりしてゐる了見が判らない。……女髪結ひの亭主ぢゃあるまい。おらあお前に逢つたら忠告してやらうと思つてゐたんだ。女房に女優をさせることなんてこたあよせやい。……女優たあ何だい。花見踊たあ何だい。赤い褌を女が見 せびらかすのが民衆新舞踊か……」

 ゴドさんは、尾澤峯雄の妻が浅草でいかがわしい踊りをしていることを「女優たあ何だい。花見踊たあ何だい。赤い褌を女が見せびらかすのが民衆新舞踊か」と皮肉っていた。ゴドさんの女優に対する真摯な見方を示した一例といえるかもしれない。
 一方、時代的に見れば、これは大正5(1916)年の中頃、評論家の本間久雄が「民衆芸術の意義及び価値」(『早稲田文学』大正5年8月号)において民衆芸術に対して問題を掲げ、それをうけて安成貞雄が「民衆芸術論の根本問題」(『読売新聞』大正5年9月29日、30日、10月1日 、3日付)で反応した、民衆芸術論争の流れと同調しているセリフであるといえそうである。言い換えれば、言論人のみならず、民衆芸術に関わる周辺人物たちにも、自分たちのおこなっている興行の意味が問われていたときであった。民衆芸術と生きるための仕事との関係が、広く文壇人にも取り沙汰されていたことがわかる場面なのである。
 それにしても、ゴドさんと呼ばれるこの登場人物は、いったい誰をモデルにしたものなのであろうか。……実は、知る人ぞ知る、グレさんこと坂本紅蓮洞をモデルにしていたのであった。
 坂本紅蓮洞は、通称「グレさん」と呼ばれていた。佐藤春夫は、その愛称を元に「都会の憂鬱」の作中では、「ゴドさん」にしたのであろう。グレさんこと坂本紅蓮洞と佐藤春夫の出会いは、山本夏彦『無想庵物語』(文藝春秋、1989年)によれば、武林無想庵の家が東京の宮下町にあり、大正の初め頃、そこで知り合ったようだ。
 グレさんは、女優に対して、特に知っている女優に対しては、いつも優しいまなざしをもって見つめていた。
 たとえば、グレさんは、「私の好きな美人五人」というアンケート(『女の世界』大正6年2月号)の中で、女優に対して、常に優しい気持ちを示していた。「私はあまり女を多く知つてゐるので、誰々を好きだなどゝ云ふと、事がむづかしくなつて仕様がありません。だからあまりさしさはりのないやうな所を選ぶと、昔から竹本綾之助が好きです。若いうちでは香川玉枝をはじめ知つてゐる女優は皆好きです」と、女優に対しての心遣いを感じられる発言を残していた。
 さらに言えば、瀬川瑠璃子は佐藤春夫の当時の妻(同棲相手)、川路歌子をモデルにしており、その歌子を、かつてグレさんは評価していたことも関係しているだろう。グレさんは、大正5年当時の新劇を野次った「新劇野次壹年有半」(『演芸画報』大正5年2月号)の中で、「美術劇場の『埋れた春』には竹久夢二が背景を描き、川路歌子が少女をやつて成功した」と誉めていたからである。
 それゆえだろうか、「都会の憂鬱」での尾澤峯雄の妻、瀬川瑠璃子がいか
がわしい「花見踊」を踊っていることが、耐えられなかったのだ。

女優応援隊長の紅蓮洞

 女優に関して、グレさんはなかなかうるさいのである。『人情倶楽部』大正8(1919)年4月号には、「女優新聞」というコーナーがあった。そこには「牛込弁天町の叔父さん 坂本紅蓮洞氏を訪ふ」という記事があった。少し引用してみよう。

女優応援隊長官の名ある坂本紅蓮洞氏を訪へば珍しくも在宅で、昨今新劇が興行化しつゝあるも、猶女優を応援するかと尋ねるに、氏は例の長顎を振り立てゝ眼を張つて語る。無論やる、飽までやる、世間ではやれ普通選挙などゝ騒いではゐるが、そんなことよりは女優奨励法案でも代議士間に提出して貰つて、これを戦後経営の一にしたいなどゝ、相変らずヨタ気焔を吐いてゐた。

 女優に対して「相変らずヨタ気焔を吐」くグレさんが、ここにはいた。彼は、女優評論家で有名だったのだ。引用部には、「昨今新劇が興行化しつゝあるも、猶女優を応援するか」と記者が質問をするところがあるが、これは、もともとグレさんが女義太夫の堂摺連(どうするれん)の一員で、竹本綾乃助の熱狂的なファンだったところから来ている。記者は、その女義太夫よりも新劇の女優を応援するかという、ちょっといじわるな質問を投げかけていた。しかし、グレさんは、とにかく女優を応援するという意気込みを示していたことが見えてくるだろう。
 ここで記さなければならないのは、新劇女優の松井須磨子の死に対するグレさんの思いである。大正8年1月、松井須磨子の衝撃的な死の後、大正8年4月3日、名古屋の佐々木桂雨によって多門院境内に『芸術比翼塚』が建設され、川柳の阪井久良岐らによって島村抱月、須磨子の移霊供養式が行われた(「芸術比翼塚建設に就て」『女の世界』大正8年5月号)。
 阪井はその祭文の中で、「此故に善に執する者は二氏の行動を追窮ママして社会の風紀を紊乱する者なりと云ふ美に囚はるゝ者は芸術の力の偉大なることを説き善の社会組織を顧みず二者共に誤れりと云ふべし/今此芸術比翼塚は一片架空の供養塔に過ぎず実と見れば仮也仮と見れば実なり趣味の片影に異ならざれ共中に萬斛の涙あり人情の暖き血を盛りたる活物也」と述べていた。
 グレさんは、この祭文の内容に呼応するかのように「遵法比翼塚の提唱」を『女の世界』大正9(1920)年4月号に書いていたのである。これは一般的な殉死者に対して比翼塚の提唱なのであるが、現世(このよ)で添い遂げられないなら未来(あのよ)で添い遂げることを国法で許して貰いたいという趣旨であった。そして、それらの記念となる「遵法比翼塚」を設立するのはやぶさかではないとしていたのだ。
 具体的に抱月、須磨子の名前を、ここでは出さなかったのであるが、十分に彼らへの思いが伝わってくるものになっているだろう。女優応援隊長として、できることをするという強い気持ちが感じられる。

坂本紅蓮洞という人

 さて、それでは、坂本紅蓮洞とは、そもそもいったい何者なのであろうか。『文芸年鑑』1924年度版の「文士録」を見ると、「坂本紅蓮洞 名は易徳(えきのり)。慶応2年9月、東京麻布六本木に生る。慶應義塾を卒業し、中学の教師となり、新聞雑誌記者ともなつた。現在、東京市牛込区弁天町六の七」と記されていた。これは、いわゆる「文士録」なので、簡単な人物紹介しか書いていない。
 佐々木光さんは、「グレさんという人 明治大正文壇名物男・坂本紅蓮洞」を『日本古書通信』平成10(1998)年10月号に書いていた。その中で、与謝野鉄幹や晶子らの新詩社社友だった紅蓮洞のことをつまびらかに述べていた。宇野浩二や武林無想庵や水上滝太郎の証言をひきながら、明治時代の紅蓮洞が元気だった頃の逸話を語り、愛すべきグレさんを〈文学史の底〉からサルベージしようとしていた。明治期の紅蓮洞の行状について、そこで主に語っていたので、私は大正時代を中心に紅蓮洞の姿を追っていきたいと思う。

 遊蕩文学撲滅論争が、さまざまな雑誌で盛んだった大正5、6年頃、紅蓮洞は、遊蕩文学への態度を次のように述べていた。

余は決して今日世で唄はれてる遊蕩文学の悉くを撲滅せよとは呼ばない。仮令世から遊蕩文士と目され、またその文学が排せられてゐても、余はその人を知りその内情に通じてるから、或は世に反しても、排斥撲滅には賛同しないかも知れない。しかし町人根性と成り下り、駈引はおろかなこと、自ら卑しみ、果は欺瞞までも働き、只管、自己の利益(金銭上の)のみに汲々として、その揚句狭斜窩金の巷の愉快のみを真の目的かの如く振舞ふものゝ文芸は撲滅を叫ばずには居られない。     

「文士顔した町人根性の文筆労働者を葬れ」『武侠世界』大正6年4月臨時増刊号より

 原稿の二重売りや書肆との騙しあいを通じ、文学を自己の遊蕩目的に用いる町人根性の文士たちを排斥しようとした一文である。毅然とした態度が、ここには見られるのであるが、ただ気にかかるのは、「余はその人を知りその内情に通じてるから、或は世に反しても、排斥撲滅には賛同しないかも知れない」という部分である。遊蕩文士の事情を理解しているときには、大目に見るという矛盾である。それは、いったい、どこからやってくるのであろうか。いささか気になる。
 この文章が載った『武侠世界』大正6年4月臨時増刊号は、「淫蕩文学撲滅号」と題され、さまざまな遊蕩文学の問題を糾そうとする特集内容であった。その中で、大久保山人の「淫蕩文士 遊蕩費捻出の悪策=遊蕩文士対出版業者=」という記事があり、紅蓮洞と長田幹彦の関係が取り沙汰されていた。
 紅蓮洞に関わる部分を、簡単に述べてみよう。幹彦が短篇小説集『祇園』を浜口書店から上梓しようとしたとき、印刷が終わった時点で浜口書店の閉店が決まってしまった。印刷をした分だけ、すでに印税を取っていた幹彦であったが、その後、九十九書房という書肆に原稿を譲り渡してしまった。これで済めば、何も問題はなかったのであるが、ある事情で九十九書房は原稿の印刷を遅延したのだ。もどかしがった幹彦は、そこに収めてある小説の順序を取り替えてしまって、新たに『祇園夜話』という表題にして、他の書肆から出版してしまった。
 こういう場合、作家と書肆が契約する際に同一著者から、これと同一の書、もしくは類似の書を他の書肆から出版させない旨を結ぶのであるが、そこに、九十九書房に幹彦の知己である紅蓮洞が絡んでいて、そのような契約をしなかったそうだ。契約をしないのに乗じて、幹彦が原稿の二重売りをしたことを、お金に卑しい「町人根性」として暴いていたのである。
 それだけではない。さらに幹彦は、九十九書房から印税ではなく、著作権譲り渡しで、『霧』という長編を大正3(1914)年に出版したときのことである。その後、九十九書房は廃業に追い込まれ、始末の都合から、これを著作権付きで紙型とともに他に売り渡そうとした。表紙には伊上凡骨が彫刻したものが入っていたので、その関係上、譲り受け先を凡骨が探すことになった。そしてある店で引き受けてくれそうになった。
 しかし凡骨は、この話が済んだ場合、幹彦から苦情が来るのではないかと心配をして、念のために幹彦の所に話をしに行った。幹彦は著作権譲り渡し証書のないのを幸いに、『霧』は印税で出版したのだと凡骨に言い張った。ところが、凡骨は、その経緯をよく知っていたので、幹彦の言葉が嘘であるのはわかっていた。これでは話がまとまっても、幹彦から苦情が出ると思ったので、すぐに手を引いてしまったのである。
 一方、わが意を得た幹彦は、早速、出版してくれる書肆を探し回って、春陽堂に引き受けさせたのである。しかも『露草』と解題して、印税で出版させたのであった。
 この暴露話をどこまで信じてよいかわからないが、問題は、この『霧』の出版にも、紅蓮洞が絡んでいたことなのである。『時事新報』大正3年5月10日付の「文芸消息」欄に「坂本紅蓮洞氏 長田幹彦氏の『霧』を出版次第文壇革新の運動に着手する由」とあった。九十九書房と紅蓮洞は、この当時関係があったらしい。その後、紅蓮洞は『雄弁』大正3年10月号に「文壇改造論」を書いていたので、作家と書肆の関係について、どうにかしたかったのかもしれない(「文壇改造論」は未見)。もちろん、ここに金銭の問題がからんでいることはわかるだろう。
 つまり、遊蕩文士の事情を知っている場合に起こす矛盾とは、この長田幹彦の一件があったからだといえるのではないだろうか。すべての遊蕩文学を撲滅するのではなく、その作家と作品のあり方について、自分の損得勘定に関わる場合、金銭が入ってくる方向で、紅蓮洞は常に考えていた。
 一方で、紅蓮洞は、幹彦について、次のように讃えているのが見受けられる。

唯々惜むらくは現下日本文壇が氏の如き天才に対して、十分なる耽溺の費用を与えず思ふまゝの放蕩をゆるさざるは遺憾の極みである。

「文壇立志篇・長田幹彦」『文章世界』大正5年2月号より

 放蕩がすばらしい小説を生むならば、その小説を生み出す幹彦に十分な耽溺のできる費用を与えよ、という訳のわからない理屈である。穿っていえば、紅蓮洞もいっしょに楽しむという腹づもりであろう。
 しかし、幹彦の文学性を評価していたのが見えてくるのである。作家の生活と作品内容を直結して考え、できることならば、好きな生活をさせて、よい作品を書いてもらいたい。そのような単純で安易な考えが紅蓮洞にはあった。
 だが、幹彦に対する皮肉も忘れていない。この引用のすぐ後で「惜むらくは氏が昨今萬太郎や勇及び菊五郎の諸子に由つて命名されたる濡髪や宮戸川また百夜草などの清酒を売り出したる鈴木壹水の如き、一代にして百萬の身代を潰す程の勇気を有せざるを惜むものである」と述べていた。これは揶揄であるが、ある意味で、幹彦に対するエールとも読みとることができるかもしれない。
 

奇人、坂本紅蓮洞

 それでは、長田幹彦は紅蓮洞のことをどのように思っていたのであろうか。『日の出』昭和9(1934)年1月号で「苦笑爆笑 珍人奇人を語る会」という座談会があった。出席者は、吉川英治、大村正夫、小野賢一郎、沖野岩三郎、長田幹彦で、『日の出』側からは記者の広瀬照太郎、奥村五十嵐。座談会の中で、長田幹彦は前述した『武侠世界』に載った紅蓮洞の記事の経緯を、以下のように語っていた。

長田。(前略)五明しづ子は始終私の家へ遊びに来てましたが、「坂本が来ると酒を呑みやがつて真面目な話が出来ない」といふやうなことで、坂本を一ト晩さばいたことがあるのですよ。それを坂本が憤慨して……それは私の文学青年時代のことだつたのですが……「少し原稿が売れると、そんなことをしやアがる」と私を罵倒して、遊蕩文学を撲滅するんだと騒ぎ立てたんです。そして『実業之世界』の出した『遊蕩文学撲滅号』を五十部ほど持つて、日本橋の西洋料理屋で会合があつた時に乱入して来て、一場の演説をやつて一冊づゝ配つて歩いたりしました。五明さんにはそんな関係からも来ているのです。

  幹彦は、『武侠世界』を『実業之世界』と記憶違いをしている。それはさておき、紅蓮洞が、執念深く、相手をやっつけようとしている姿を感じる。前述した幹彦の原稿売りの件を合わせて考えてみると、どっちもどっちだという気がするが、紅蓮洞の場合、ゲリラ的に行動を起こし、相手に被害を与えるという点で、質(たち)が悪いかもしれない。
 理性的に、あるいは純粋にものを考える反面、かっとなると見境がつかなくなり、何が何でも自分の思ったようにしたい。場所もわきまえずに行動に移す。そんな紅蓮洞の執念深い点は、他の出席者からも語られていて、この幹彦の発言の前には、作家の沖野岩三郎が、新聞記者の五明しづ子をやっつけるために紅蓮洞が読売新聞社まで出かけたり、婦人記者の集まりに変な電話をかけたりする話までも披露していた。
 また、吉川英治は、伊上凡骨から聞いた話として、国木田独歩の妻、治子との一件を次のように語っていた。 

吉川。(前略)国木田春子(ママ、独歩未亡人)に『日々新聞』で何か非常に侮辱された事がある。それでどうしても春子を馘(くび)にするといふのです。或る時、いきなり凡骨の家へ入つて来た紅蓮洞が「ハガキはないかないか」斯う言ひながらそこいらの抽斗(ひきだし)を勝手に探し、ハガキを出して自分で何か書いてゐる。見ると、どれもこれも同じやうな文句の、国木田春子を馘にせよとか、彼女に復讐をしてやるとか書いてゐる。そして宛名の方を見ると、皆『日々新聞社』行きなんです。そこで凡骨が「オイ他人のうちのハガキを黙つて使つて何か馬鹿なことを書くか、気狂ひ奴」、斯ういふと、「イヤ、どうしても国木田春子を馘にしないうちはこれを止めないんだ、小遣銭があれば皆ハガキを買つて出すんだ」と答へる。所が凡骨のやつがいゝ加減な奇人の癖に、妙に又正義心を感じたと見えて、「女の身で……未亡人で折角就職してゐるのに、それを馘にしようなどとは貴様怪しからん」といふので議論を始めた。そして凡骨が紅蓮洞を捻ぢ伏せて、彫刻家ですから仕事場にあつた木槌で紅蓮洞の頭をコツンコツンやつて、「貴様ツ止めるか止めるか」、たまらないから「イヤ止める止める」とその場では言つたが、それでも止めずにやつたから、結局『日々新聞』でもうるさくなつて、その理由とは言はなかつたけれども罷めさしちやつたんですね。
 

 紅蓮洞の執念深さが際だっている逸話である。それにしても、かわいそうなのは、治子夫人である。結果的に新聞社を辞めさせられたのだが、彼女にしてみれば、いい迷惑である。紅蓮洞の自分への無礼は、どんなことでも徹底的に攻撃してやまない行状は、常軌を逸していた。誰でも、そう思うだろう。
 治子夫人の紅蓮洞に対する言葉を聞いてみよう。『日本古書通信』昭和31(1956)年11月15日号に掲載された「折り折りの思ひ出」という談話筆記の中で、次のように語っていたのが見受けられる。

 坂本紅蓮洞さんも独歩社時代に殆ど毎日見えました。皆坂本さんとも、紅蓮洞君とも云はずに、グレさん、グレさんと云つてゐましたが、私もはじめて逢つた時は気違ひだと思ひました。後に私が浅草の劇場に勤めてゐた頃、何度も小遣を貰ひに来るのです。あの男には二円以上遣つちやいけない、二円以上あれば吉原へ行つて遊んでしまふから、と云つて注意してくれた人がありました。さうでなくても私は案内所の入口のところにゐるのですから、あんな人が度々来ては困る、断れと云はれるので、グレさんのために気兼をしなければなりません。その後病院へ入つて亡くなつたといふことを聞きました。
 国木田がどこかへ旅行して居つた留守に、銀行の方から金が足りないと云つて来たことがあります。そこで著物か何かを質に入れて、その金を持つて行くことをグレさんに頼みましたところ、後になつてそれが届いていないことがわかりました。グレさんに質しますと、あんなものは足りなかつたから、一杯飲んぢまつたよ、と云つて澄してゐるのです。独歩社の編集は二階にありまして、私どもはその横の方に居つたのですが、グレさんが顔を出して、奥さんといふ時は金の用、お治さんといふ時は外の用ときまつて居りました。


 明治39(1906)~40(1907)年頃の独歩社時代から、紅蓮洞は治子夫人を悩ましていたのである。紅蓮洞は、治子夫人に甘えていたのだ。しかし、治子夫人はそれを許していた。紅蓮洞は、いったん悪口を言われると、攻撃的な性格を全面に出す。幼児性が抜けていないといえば、それまでだが、逆に、その純なところがよい方向に出ていれば、皆から愛されるようになったのである。
 ところで、紅蓮洞と幹彦は、お互い悪口を言い合っていたが、実は、仲もそれほど悪くなかったようにも思える。遊蕩文学撲滅の一件以降もいっしょに旅行をしていたようなのだ。大正10年1月12日付の「よみうり抄」(『読売新聞』文芸欄)には「長田幹彦氏 来廿日湯河原に赴く」とあり、同じく「よみうり抄」大正10年1月23日付には「坂本紅蓮洞氏 湯河原温泉に在り」とあり、20日前後に二人とも湯河原温泉に行っていたことが窺える。いっしょに旅行していたとは記されていないが、紅蓮洞が、幹彦の湯河原温泉行きを聞きつけて、押しかけたことも考えられる。幹彦は、そのとき、どうしたのだろうか。
 この当時、紅蓮洞の身体の調子もよかったらしく、同年7月には、ふたたび伊豆に旅行をしたようである。「坂本紅蓮洞氏 月末出発洋服姿で雨降山から伊豆諸山を跋歩する」(「よみうり抄」大正10年7月15日付)とある。
 また、大正12年には、還暦のお祝いも皆からしてもらったようだ。「坂本紅蓮洞氏 十日午後六時から有楽町カフエー・ユニオンに於て十日会主催で同氏の誕辰六十年を祝賀し、記念品贈呈の会を催す」(「よみうり抄」大正12年6月8日付)とあった。「十日会」なるものがどのような会かわからないが、皆からお祝いをして貰うためには、それなりの「人徳」の必要なことは確かだろう。       

浅草の会と紅蓮洞

 大正10(1921)年6月には、東京の浅草で、浅草の民衆娯楽について考える会「浅草の会」が発足していた。第一回目の会合の様子が、『恋と愛』大正11(1922)年4月臨時増刊「民衆娯楽浅草研究号」に掲載された「『浅草の会』の解剖」という記事に、次のようにあった。 

民衆娯楽を社会学的の立場から研究するといふ大体の方針から岡田忠一、市川彩、小山内薫、検閲係長橘高広諸子の発議に仍(よ)つて『浅草の会』は組織された。第一回を六区の真ん中セントラルカツフエーで発会した。会するもの八十余名で、官吏あり、実業家あり、教授あり、弁護士あり、劇作家あり、俳優あり、画家あり、文明批評家あり、興行家あり、新聞雑誌記者あり、医師あり、実に雑多雑種の職業人種であつた。それ故に各自がその職業的立場から浅草そのものの見方は変つた面白いものばかりであつた。

  初めての会合の様子が、簡単に紹介されていたのだ。同号の掲載された他の記事では、浅草の会に批判的なものもあった。喜劇俳優の曾我廼家五九郎は、「民衆娯楽の研究の『浅草の会』にも毎回お仲間入りをしてはゐますが、どうも空論ばかりが多く甚だ不徹底のよ(ママ)うであります。私は掻ゆくつてならない気がする」と「民衆娯楽に議論は禁物」の中で、会の内容を嘆いていた。観音劇場(元アウル館)で笑いをとっていた五九郎にとっては、「社会学的な立場」からの民衆娯楽研究では歯がゆかったのかもしれない。
 しかし、そのような批判があっても、浅草を民衆娯楽の発信地にしていこうとする運動は、画期的なものだったといえるだろう。
 「浅草の会」は、大正10年6月に発足した会であるが、大正11年2月にもなると、松崎天民によって提案された年度賞(浅草民衆娯楽の功労者の表彰)の議が論議されることにもなったようだ。そして、この年度賞に坂本紅蓮洞が絡んでくるのである。
 年度賞の具体的な方法や人選をどうするかということになって、五名の委員に付託することになった。その中の一人に、紅蓮洞が選ばれたのである。浅草民衆画家の小池夢坊、新聞記者の松崎天民、社会学者の権田保之助、常磐興行専務取締役の小泉丑治、そして坂本紅蓮洞であった。
 しかし、紅蓮洞に異議を唱えるものも出てきた。「その時帝劇関係者の升本清氏が坂本君はどうも……とその委員に批難的言辞を出したので小池夢坊氏が『私は現在のあらゆる道徳に反杭(ママ)する白面の不良少年故、坂本君がどうかう言はれゝば私自身が辞退したい』と言はれた。あんまり浅草の会らしからぬ一幕であつた。三月例会までにその五名の委員が実際の具体案を作成することになつた」とも記事では述べられていた。紅蓮洞の交友のあり方をうかがわせる一幕であろう。
 紅蓮洞について、作家の藤村福太郎は、「浅草寸言抄」(『恋と愛』同号)の中で「最近「浅草の会」とやらが催ほされてゐることはよし其内容が私の思ふ意に触れてゐないとしても、其名前だけでも嬉しいぢやありませんか。さうさう、その夜、あなたと私とが、計らずグレさんに会つて彼方此方とグレさんを感激さして歩いたことは、斯うした貴誌の研究としての何らかしらの思ひ出ぢやありませんか。さうでした、グレさんは浅草の歌を知つてゐます。花外さんは浅草の詩を知つてゐます」と述べていた。
 「その夜」とは、たぶん「浅草の会」がはねた夜のことであろう。藤村は、「あなた」こと『恋と愛』編集兼発行人の梅里智とともに、紅蓮洞に会っていたのである。グレさんが、「浅草の歌」を知っているところなど、浅草とグレさんは、切っても切れない関係として、人々に知られていたのが理解できる場面といえるだろう。
 もう一つ、グレさんの〈浅草愛〉を感じる、エピソードを紹介してみたい。浅草観音劇場の向かいにあった洋食屋広養軒には、美人女給のお絹さんがいた。このお絹さん目当てに、店に訪れていたのがグレさんだった。「文士の坂本紅蓮洞さんが松崎天民さんや、吉井勇さんプランタンの松山省三画伯さんを連れて来たり旺(さか)んに雑誌にお絹さんの事を提灯持つて書いたので、広養軒が繁盛する様になつたのであります」と(伊東玉之助「浅草カフエー美人物語」『恋と愛』同号より)。
 紅蓮洞の浅草通いをうかがわせる一節である。お絹さんは、観音劇場前の煙草屋の看板娘だったそうだ。広養軒のウェートレスになってからは、美貌と人の気を惹くお世辞により、広養軒を西洋料理店に改築、増築に導き、はては座敷天ぷらまで出すまで繁盛させたそうである。だが、紅蓮洞らの応援にもかかわらず、オペラ役者の外山千里と結婚してしまった

『恋と愛』臨時増刊 大正11年4月10日発行の表紙(天下堂書房)

病気になった、グレさん

 このような紅蓮洞の逸話を眼にすると、冒頭で述べた「都会の憂鬱」のゴドさんの姿が、ふつふつとわきあがってくる。元気だった頃の紅蓮洞は、相変わらずのべらんめえ調で、浅草を徘徊していたのが見えてくる。
 しかし、そんな愛すべき紅蓮洞も病気からは逃れることができなかった。病いからも、愛されてしまったのである。
 大正13(1924)年3月29日付の「よみうり抄」には、「坂本易徳氏老衰病で済世会病院に入院中の所此程退院した」とあり、もうこの頃から身体の具合が悪かったようだ。だんだんと人前に姿を見せなくなり、次にメディアに姿を現したのが大正14年8月16日付『中央新聞』文芸欄であった。「噂書」というタイトルで、黒頭巾が紅蓮洞の病気をこのように報じていた。

震災後、さつぱり姿を見せなくなつた坂本紅蓮洞、一たいどうして居るのかと思つて居る矢先今は早稲田町浅羽といふ下宿の一室で心臓病で死生も覚つかないほど呻吟して居るとの事、六十二歳のそれも独身で通して来た文壇の名物男を運命がかうも苛(さい)なむものかと思ふと、転(うた)た秋の風さへ身に沁む思ひだが、それもよくしたもので今度吉井勇、長田秀雄、与謝野鉄幹、同晶子、長田幹彦、結城礼一郎、澤田正二郎等を発起人として紅蓮洞老後扶助会と云つたやうなものが組織され、紅蓮洞のための慰労金を各方面の同業者から仰ぐ事になつたさうだ。読者の中でも紅蓮洞に同情ある方々は、本社内、結城礼一郎宛に寄付を申込んで貰ひたい。

 この当時の『中央新聞』は、その「編集雑記」によれば、小田律、田村西男、松崎天民、結城桂陵、三井峡江らが中心になって紙面編集をしていたようである。「紅蓮洞老後扶助会」への寄付が結城禮一郎宛なので、この記事を書いた黒頭巾とは、結城禮一郎(桂陵)のことかもしれない。また同新聞20日付では、「病紅蓮洞後援会」の記事が大きく出ていた。

 文壇劇団の名物男、坂本紅蓮洞君が、心臓病で重態です。私どもは同君とは、もう二十年来の旧友ですが、つねに清貧に甘んじて更に名利を念(おも)はなかつた同君が、病気のためにいたましい状態になつて居られるのを見ると、何とかして上げたいと、かう念はないではられません同君は早稲田の晒巷に病臥して居られます。素人眼にみても、もう長い命ではあるまいかと思はれます。親兄弟は勿論、一人の身寄もない身で晏如(あんじょ)として病苦と戦ひつゝ、平生のとほり、警句百出の有様は、さすが奇行を以て鳴つた同君でなければ出来ない事だとしみじみ思はせられました。そこで私どもが発企人となつて病紅蓮洞後援会をこしらへました。どうぞあの長面怪貌の奇人紅蓮洞君のために是非とも御後援を願ひたいと思ひます。

発企人 吉井勇 澤田正二郎 長田秀雄 長田幹彦 結城禮一郎 与謝野寛 与謝野晶子 梅田きよ
一、御寄贈金は中央新聞社内坂本紅蓮洞後援会結城禮一郎宛にて郵便小為替・亦は振替口座(東京二〇〇一番)へお振込下さい
二、御寄贈金は三日目位に取纏めて紅蓮洞氏の手許へ、薬餌費、室代等として送ります

 寄贈金(慰問金)の第一回目の発表は、8月25日付の『中央新聞』紙面で行われた。紅蓮洞後援会の発起人を筆頭に、里見弴、福地信世、川村花菱、山本久三郎、岡栄一郎、池田大伍、宮地嘉六、高村光太郎、米澤順子、村田嘉久子、初瀬浪子、鳥川七石、加藤朝鳥、小寺融吉らのさまざまな分野の人たちが、たくさんの慰問金を寄せていた。
 また紅蓮洞の近況報告として、次のようにあった。

尚竹本綾之助氏の一家は坂本氏の現状に同情し夫君石井憲太氏と令嬢は親しく病状を見舞ひ慰問金募集その他坂本氏の身辺の事に就き、何かと世話したい旨を申し出られた又浅草興行界、花柳界の一部、オペラ界でも、後援会の主旨に共鳴し、それぞれ慰問金を募つて後援会に託するさうで、劇作家の人人も大いに同情し、続々慰問金の申出がある、紅蓮洞老の病状はその後も同様で、衰労日に加はつて居るが、本人は極めて元気で、たゞ淋しがつて居るのみである『俺の命も今年中だよ』と云つて、ニコニコして居る姿は、何となく痛ましく見える。

  前述した紅蓮洞の好きな女優というより、娘義太夫で明治時代のアイドル、竹本綾之助が一家をあげて、精一杯の看病をしていたのがいじらしい。たくさんの人々が、紅蓮洞を助けようとしていたのである。


紅蓮洞を見守る人々

 第二回目の発表は、翌8月26日付の『中央新聞』紙面ですぐに行われた。
「紅蓮さん病床に感激して各方面の同情に泣く」と見出しがあり、記事にはこうあった。

病紅蓮洞に対する各方面の同情は極めて深甚で、二十五日正午迄には更に左の如く慰問金の申込があつた。紅蓮さんは病床にあつて、今更の如く故旧新知の人々の好意にポロポロと涙を流して感激して居る。

 守田勘彌、岡本綺堂、伊坂梅雪、菊池寛、長谷川誠也、本山荻舟、田村西男、久松喜世子、丸山耕、野村元基、福田正夫、俵藤丈夫、伊井蓉峰、巌谷小波、水谷幻花、島崎春樹、平山盧江、桑野正夫、松居松葉、土岐善麿、鳥居清忠、田中良、小川未明、北尾亀男など、第一回目と同じく、各方面のたくさんの人々から慰問金が寄せられていた。この時点で、慰問金の通計が三百九円になっていた。
 だが、それにしても、『中央新聞』がここまで紅蓮洞のために骨を折ろうとしているのはなぜだろうか。『読売新聞』などでは、大正14年8月24日付文芸欄の「ゴシツプ」欄でグレさんの具合が悪いことに簡単に触れている程度だった。後援会の音頭をとっている結城禮一郎は、紅蓮洞に多大な世話になったのでお返しのつもりでがんばつているのであろうか。
 しかし、それも違うようだ。結城は、8月28日付の『中央新聞』に「阪本(ママ)紅蓮洞」という記事を書いていて、そこで紅蓮洞との関係を明かしている。なんと時折芝居の廊下で顔を合わせて、グレさんから「おい、お前、景気がいいか」と聞かれ、こっちも「うん、いいよ」と答える程度の知り合いだったという。しかし、それでも、グレさんを何とかしてやろうという気になったそうだ。
 グレさんの「人徳」のためではないかといい、そして「考へて見ると、徳な人だ、我輩が死にかけたつて天民が病気をしたつて斯様まで人が心配して呉れる事はあるまい、紅蓮さん以て瞑すべしだ」と自分の気持ちを告白していた。紅蓮洞に、それほどの人徳があるとは考えにくいが、グレさんを救おうとして実務的に動くことは尊いといわなければならない。
 第三回目の発表は、8月29日付の『中央新聞』紙面で行われた。記事には、

紅蓮洞君の病状は依然として小康を保つて居るが、都合に依つては近く早稲田町の下宿を引払ひ、築地の聖路加病院へ入院するかも知れず、後援会の人々を初め、石井健太氏、令嬢貞子など、何とか世話をして居る、後援会の結城氏と石井氏とが引受け、必要に応じて坂本氏へ支出して居る。

 と前置きされ、いつものように慰問金を寄せてくれた人々の名前が連ねてあった。坪内雄蔵、澤田正二郎、川合貞、河竹繁俊、牧野信一、御橋会、(メイゾン)鴻の巣、水守亀之助、堀越柳吉、佐竹守一郎、森律子、川村菊江、藤間房子、畑耕一、池田孝次郎らである。
 第四回目は、9月3日付の『中央新聞』紙面で行われ、紅蓮洞の病気は小康状態だけど、暑さにだいぶ閉口していることが記されていた。河合武雄、上司小剣、窪田通次、南部修太郎、小村欣一、三宅周太郎、岡田三郎、小林延子、細田源吉、杉宮三郎、石川木舟、中條清、井汲清治、今東光、中島忠之らが慰問金を寄せていた。
 第五回目は、9月10日付の同紙面で行われたが、紅蓮洞は、この時点で、ついに病院へ入院するようになっていた。記事には、

坂本紅蓮洞君は去る三日から築地の聖路加病院へ入り、当分の間治療を受けることになつたが'、何分にも六十と云ふ老体の上に、ぜんそくと脳気あり、元気は相変らぬけれど、十二分に加養を要する、その後左の如く慰問金の申込あり、読売新聞社の同人諸氏の間に慰問金を募つて居る由で既に東京社からは八十円を本人に直接送金し、更に同情有志家より募金して居るなど、各方面の同情は紅蓮さんの病床に注がれて居る、慰問金全部が集まつて締切つた上は、改めて収支の仔細を発表することになつて居る。

 とあり、今回も大勢の人が慰問金を寄せていた。伊原青々園、波野辰次郎、瀧田哲太郎、阿部次郎、森英太郎、市川壽美蔵、市川松蔦、市川筵升、中村福助、加能作次郎、中村吉蔵、松本幸四郎、山崎小三、友田泰助、額田六福、飯塚友一郎、畑中蓼坡、生田春月、金子洋文、金井謹之助、野口雨情、市川猿之助、繁岡鑒一、三木羅風、高橋栄次郎、園池公功、花柳はるみ、中田信子、高須芳次郎、島田青峰、綿貫六助らであり、慰問金の通計は、六百三十七円にも達していたのである。
 これらの名前の中で特に注目したいのは、『中央公論』編集主幹の瀧田哲太郎(樗蔭)で名である。一金十円を慰問金として出していた。実は、この当時瀧田樗蔭は重い病気を患っていたのだが、自分のことはさておき、病床から紅蓮洞に慰問金を送つていたのだ。
 瀧田樗蔭は、最後の最後まで文学に携わる無名有名の人々に対して直接にも間接にも庇護していた。瀧田樗蔭は、そのひと月余り後、大正14(1925)年10月27日腎臓病で他界した。享年44であった。

紅蓮洞の病状

 松崎天民は、9月12日付の同紙面に「其の後紅蓮洞」というグレさんの病院生活の近況を書いていた。築地の聖路加国際病院へ入り、第三舎の三〇五号室で若い看護婦相手に気炎をあげていて、天民に対しては、どうしてお前がこんなに世話をしているのか判らないと語り、堀内医学博士が主治医で、気管支力タルの方は全快したが、アルコール中毒と栄養不良で当分加療が必要であり、また石井氏の特別の取り扱いで二等室一日六円のところを幾割か割り引いてもらったと、入院生活の状況を簡単に述べていた。丈夫になつた紅蓮洞に対して、軽口も出るようになったようで、結城桂陵のごときは、「紅蓮さんが死んでくれなければ困るなあ」と言っていたそうである。
 その後、大勢の人たちに支援を受けたこの後援会は、大正14年11月11日付の第九回目まで続いて、合計ーー八三円の慰問金を集めることができたのである。
 『中央新聞』の記事ばかり見てきたので、他のものも簡単に見てみよう。『サンデー毎日』大正14年9月13日号には、こうあった。

 文壇と劇団とに横車を押しとほしその永い生涯を流転にまかせ、清貧に甘んじて、名利に超然としてゐた変りもの、グレさん事阪本(ママ)易徳紅蓮洞居士が、心臓病のために、再び起つことが出来なかろうといふ秋風落莫たる噂ばなしである。
 グレさんの逸話を書けば、キリのない話だが、そのむかし松永敏太郎のやってゐた雑誌『ニコニコ』に第一等をもつて当選した得意の長面と(その時の二等は初瀬浪子だつたと気憶(ママ)する)やゝどもり勝ちな口調とで、襟元のボタンをヒネクリながら、何かしら問題をとらへては口角の泡を飛ばせ、会心の警句に到達すると即ち馬面を撫でおろして快を叫ぶグレさんは、自ら与太と称し与太を標語としてゐたが、事実はヨ夕どころか、可なりな正義派でさういふ処にこの人の愛嬌と人気とがあつたといつてもいふだらう。
 中村武羅夫を現文壇の大久保彦左衛門とするならば、グレさんは明治文壇のそれに擬することが出来る。
       ◇
 グレさんは慶応の出で、福沢桃助の同窓だ。数学的な天分は当時天才とうたはれたものだが、それでゐて世をすねたのは、或人にいはせると失恋の結果だといふ。グレさんがその生涯を独身で暮らしたといふのは、その女性に精神的な童貞を賭けてゐるからだと説くものもあるが、この真相は永久に謎となるかもしれない。

 ここでも好意的な内容で、グレさんのことが語られていた。しかし、すでに明治の人であり、関東大震災後のモダンあふれるこの時代に、突如病気で話題になり、雑誌メディアに出てきた感を拭えないだろう。多くの人々は、好奇の目でグレさんを見ていたかもしれないのだ。
 だが、そういう穿った見方を差し引いても、文壇、劇界、オペラ界の人々には、確実に愛されていたのである。「阪本(ママ)紅蓮洞が聖路加病院へ入院して多分の喜捨を得たのは、文壇近頃の美挙である」(「文壇近頃の事」『サンデー毎日』大正14年11月1日号)という記事がそれを示しているといえないだろうか。
 大正14年10月24日付「よみうり抄」では、「この両三日大分快方に向つてゐる」と紅蓮洞の近況を報じていたが、同年12月17日付『中央新聞』夕刊に、紅蓮洞死去の記事が大きく載った。16日の夜も明けない午前2時に、グレさんが死んでしまったのだ。死体を石井健太と後援会の松崎天民が納棺し、16日夜に荼毘に付した。追つて葬儀万端のことを決するそうであると記事にはあった。しかし、病院その他の支払いに、なお三百円の不足があるとあり、親族も遠縁にあたる人も寄りつかなかったそうである。
 

愛すべき、坂本紅蓮洞

 紅蓮洞は神奈川県小田原の人で、本名を坂本易徳(えきのり)という、とその記事にはあったが、本当は「金平」という。「文壇画壇評判記」(『中央文学』大正6年4月号)を書いた轗軻子が、次のように記していた。

先達長田秀雄君が小田原に遊んでの土産話が次のやうな珍種なのである。グレさんは自称易徳であつて本名が金平(傍点)といふことが判明したといふのだ。帰京早々、或るカフェでグレさんを見つけたからたまらない「オイ紅蓮洞坂本易徳だなんて、白々しくも小田原あたりの地方新聞に『女学校の生徒さんへ』だなんて駄原稿を書くない、金平さん……」と秀雄君が一発食はせたので、グレさん長い顔を赤黒くして了つたとは、とんだお愛嬌といふもの。

「文壇画壇評判記」(『中央文学』大正6年4月号)より

 と「金平」という名前がバレたエピソードを紹介していた。「地方新聞」に原稿を書いたときに、「紅蓮洞坂本易徳」と署名をしたとするならば、「易徳」は本名のように読める。
 しかし、長田秀雄が「金平さん」と言ったときに「長い顔を赤黒くして了つた」とあるので、「易徳」はペンネームであったと考えられる。ペンネームを本名として名乗っていたのだ。
 前述した佐々木光さんの「グレさんという人」には、故郷小田原で幼い頃の北村透谷との交友を通して、「キンペイちゃん」という呼び名を挙げていた。また、山本夏彦『無想庵物語』によれば、「紅蓮洞」の名前は、坂本が『明星』に出入りしている頃、与謝野鉄幹にもらったということである。そういう関係があるので「易徳」を「本名」と名乗っていたのかもしれない。
 「紅蓮洞」という名前を気に入っていたので、新聞、雑誌などで原稿を書くときは、この名前で押し通していた。紅蓮洞は、長田秀雄に本名のことでからかわれているが、これは紅蓮洞が皆に愛されていたことの証(あかし)といえるだろう。
 その一方で、紅蓮洞の死後、『読売新聞』文芸欄の大正14年12月18日付では、倉若梅二郎が「グレさんを憶ふ」、安成二郎が詩、かとう生が追悼文を寄せていたという事実がある。グレさんと、ふた月ばかり同居していた倉若梅二郎の思い出話が胸を打つ。

 私の部屋には洋画家M氏のかいた海のスケツチが板のまゝ、ほうり出してあつた。どういふ風の吹き回しかグレさんはその絵をかけるやうにと額縁を買つて来てくれた。
『グレさんに買つて貰つちや済まんね』といふと。
『なに十八銭だよ』と笑つてゐた。
 その十八銭の額縁は今でも私の部屋にかたみとなつて残つてゐる。

倉若梅二郎「グレさんを憶ふ」より

 たぶん、こうした細やかな心遺いが、芸術を愛する人々の心を暖かくしたのであろう。雜誌『世の中』を編集した倉若梅二郎の目は、グレさんの本質をついていた。そして皆、グレさんのことを忘れられなくなったのだ。だが、こうしたグレさんはもうこの世にはいない。自らの予言通り、大正14年の暮れに人生最後の旅に出かけてしまったのである。
 安成二郎は、題名のない詩をグレさんに捧げている。 

 平凡に老いて死にたり
 名物に
 うまいもの無しといふが如くに
     ×
 ぐれ、おめえ
 飄然とまた、どこからか
 出て来なければ面白くない
     ×
 東京の
 真ん中の大きな病院に
 紅蓮洞死に年暮れんとす
     ×
 漂白の
 六十年は長かりき
 わが紅蓮洞、眠れ安らかに
     ×
 ぐれんどうの
 六十年の生涯に
 学ぶべき時代は過ぎ去りにけり

安成二郎の詩・『読売新聞』文芸欄(大正14年12月18日付)より

 昭和の跫音は、もうそこまで来ていた。

※上の二つの動画は、AIに作成させました。

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