傷跡とともに在るということ
―― 石内都『scars』を見て
古傷が痛むときがある。
鏡に映る消えない傷跡を、ふと見つめてしまう瞬間がある。
普段は忘れているのに、身体は覚えている。
記憶は頭の中だけにあるのではなく、皮膚の上にも刻まれているのだと、そのたびに思い出す。
石内都の写真集『scars』を見ながら、そんなことを考えた。
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傷がない人はいない。
目に見えるものもあれば、見えないものもある。
それぞれが、誰にも見せないまま仕舞い込んでいる時間がある。
石内は、その「仕舞い込まれた時間」を、静かにすくい上げる。
そこにドラマを過剰に与えることもなく、悲劇として誇張することもなく、ただまなざしを向ける。
傷跡は、事故や病気や手術の痕かもしれない。
けれど同時に、それは「生き延びてきた証」でもある。
失ったものの印でありながら、
ここまで生きてきた証明でもある。
だから傷は、単なる欠損ではない。
時間の層であり、記憶の断面だ。
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古傷とうまく付き合う、という言い方がある。
けれどそれは、無理に忘れることでも、消そうとすることでもないのだろう。
ときには、可愛がるような感覚さえある。
「ああ、これも自分の一部だ」と。
痛みを含めて、自分の歴史を引き受けること。
それが成熟なのかもしれない。
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そしてこの感覚は、個人にとどまらない。
土地にも傷跡がある。
建物のひび、焼け跡の名残、再開発で消えた風景。
国にもまた、消えない記憶がある。
戦争や震災、差別や分断。
忘れようとしても、どこかに残り続ける痕跡。
それらをなかったことにするのではなく、
抱えたまま未来へ進むこと。
石内の写真は、個人の皮膚を写しながら、
もっと大きな時間へと私たちの思考を開いていく。
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ページをめくるという行為もまた、重要だと思う。
スマートフォンの画面で傷跡を見るのとは違う。
紙の上で、静かに向き合う。
逃げ場のない時間がそこにある。
写真集は、傷を消費するためのメディアではない。
傷とともに在るための装置だ。
大量の写真の中から選ばれ、並べられ、
紙を選び、デザインされ、世に出るまでの膨大な時間とエネルギー。
その積み重ね自体が、「向き合う」という姿勢を体現している。
だからこそ『scars』は重い。
物理的にも、精神的にも。
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傷は消えない。
けれど、消えないからこそ忘れない。
傷跡を見るたびに、
私たちは自分の時間を思い出す。
そして他者の傷にも、静かに想像を伸ばすことができる。
石内都の『scars』は、
傷を撮った写真集ではない。
時間を引き受けるということを、
そっと教えてくれる一冊なのだ。


