賢人の読書の名言集❷僕が5,000冊の蔵書を3ヵ月で断捨離した話②
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「僕は散歩と読書と執筆が好き」
賢人の読書の名言集❷

“本の虫になった僕の断捨離”
僕が本の虫になったのは、高校入学式の帰り道、駅前の本屋で買ったヘルマン・ヘッセの『車輪の下』の文庫本でした。
その頃の岩波文庫は背表紙に★のマークが付いていて、★一つなら50円、★★二つなら100円だった時代です。
それまで、あまり読書経験が無かった僕は、たぶん、このぐらいの厚さの文庫本なら、最後まで読めるんじゃないかと思って購入したのです。
このヘルマン・ヘッセの自伝的な小説がきっかけで、僕は本の森に迷い込んでしまったのです。
そして、学生手帳に買った本のタイトルを、1番から順番に、番号を付けて記録し出したのです。
38歳になった時、手帳に書いた数は6,000冊になり、このペースなら、定年までに、10,000冊、つまり「万巻の書」になるだろうと思っていました。
10,000冊の本を集めれば、何かが見えて来るかと、考えていたのかも知れません。
しかし人生とは不思議なもので、僕はインドア派からアウトドア派に変わってしまい、その夢は脆くも消えてしまいました。
そしてある時、本の断捨離を思い付き、高校生の頃から買い集めた内の、5000冊を断捨離する事にしました。
最初は大型古書店に、本を持ち込んだのですが、そこでは綺麗な本で、売れ筋の本しか引き取って貰えなかった。
但し、持ち込んだ本は、陽に焼けたり、黒ずんでいても、無料で引き取って貰えた。それと平行して紙のゴミ分別の日も利用したのです。
そんなこんなで、約3ヶ月程掛かったが、何とか断捨離が出来たのです。

“『ヘッセの読書術』にある言葉”
ヘルマン・ヘッセは『ヘッセの読書術』の中で、こう述べています。
「意外なことに、多くの書物は声を出して朗読すると、その効果も増大するものである。けれどもこれはとくに詩とか、かなり短い小品とか、文章の美しいエッセイなどに限られよう。」
〔ヘッセの『ヘッセの読書術』岡田朝雄(訳)〕
2001年9月、明治大学教授の齋藤孝さんの『声に出して読みたい日本語』が、大ヒットしました。
国は違えども、散文などの名品を読む時は、同じなんですね。
齋藤孝教授はその中で、「いま、暗誦文化は絶滅の危機に瀕している。かつては、暗誦文化は隆盛を誇っていた。小学校の授業においても、暗誦や朗誦の比重は低くなってきているように思われる。」として、著書の中で幾つかの例を上げていました。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」…平家物語
「まだあげ初めし前髪の」…初恋 島崎藤村
「不来方のお城の草に寝ころびて」…啄木歌集 石川啄木 等々……。

“賢人の読書の名言集”
面白い本を読まなければならない。
つまらない本をねじり鉢巻きして読むから
読書が面白くなくなる。
面白くなるためには、
自分が不思議だなと思うことをたくさん貯めることだ。
丸谷才一(作家・文芸評論家 日本)
丸谷才一の作品で、僕が好きなのが『樹影譚』に収録されている『鈍感な青年』と言う短編小説です。
それは第三者の視点で、図書館に通う20歳の美人の娘と、24歳の青年と関係を羨ましくも懐疑的に捉えていました。
若者はいつも社会科学書閲覧室にいて、二人は並んで本を読む。青年の読んでゐるのはドイツの社会学者の大著で、女の本は歌人のも多い。
二人はどこかの大学の文学部の学生で、この夏、急に親しくなったらしい。
昼になると二人は五階の食堂にゆき、食券売場の列についた。そして食事の後でコーヒーを飲むと、いつものように散歩に誘う。
若者はだしぬけにに、ぼくの部屋にゆかないかと提案する。娘は「危ないかしら?」彼は苦笑して、はにかみながら答えた「それはやはり、ある」
「正直ね」「困るかい?」「危険はあぶないもの」「それは言へてる」「でせう」。
どうですか、この後の二人の成り行きが気になりませんか?
小説はさすが丸谷才一と言える、冴え渡る芸であり、きわどい男女の会話をさらりと書いていて「危険はあぶないもの」と言うさりげないユーモアも魅力的だ。
確か、村上春樹の読書案内書『若い読者のための短編小説案内』に『樹影譚』が載っていたんじゃなかったかなぁ?と思い出しました。
丸谷才一の小説は、一貫して旧仮名遣いで、ちょっと読みづらいですが、それが妙に惹かれると感じるのです。
インドの全財宝をあげても、
読書の楽しみには換え難い
- エドワード・ギボン(歴史家 イギリス)
この名言は、本の価値について興味深い示唆を与えて呉れます。そして、この名言に類似する話しを思い出しました。

“夏目漱石の『吾輩は猫である』「樽金王の話」”
それは夏目漱石の『吾輩は猫である』の中に出て来る「樽金王の話」でした。それを教えて呉れたのは、作家の森本哲郎さんの著書でした。
「なんでも昔、羅馬に樽金(たるきん)とか云う王様があって……」 「その王様の所へ一人の女が本を九冊持って来て、買ってくれないかと言ったんだそうです」 「王様がいくらなら売ると云って聞いたら大変な高い事を云ったというんです。あまり高いもんだから少し負けないかと云うと、その女がいきなり九冊の内の三冊を火にくべて焼いてしまったそうです」
「王様は九冊が六冊になったから少しは値も減ったろうと思って、六冊でいくらだと聞くと、やはり元の通り一文も引かないそうです。それは乱暴だと云うと、その女はまた三冊をとって火にくべたそうです。
王様はまだ未練があったとみえて、余った三冊をいくらで売ると聞くと、やはり九冊分の値段をくれと云うそうです。九冊が六冊になり、六冊が三冊になっても、代価は元の通り一厘も引かない。
それを引かせようとすると、残ってる三冊も火にくべるかもしれないので、王様はとうとう高い御金を出して、焼け余りの三冊を買ったんですって……」
数年前、漱石の『吾輩は猫である』を、何十年か振りに読んでいたら、このシーンの話が出て来て、それは主人が迷亭と話している場面でした。
その瞬間、長年僕の頭の中で、モヤモヤしていた「樽金王の話」が、漱石と森本哲郎で繋がったのでした。
そして、一説によると、この「焼け余りの三冊」、この3冊に、ローマの運命が書かれていたと言います。
本の価値は不思議なものです。
世の中には贅沢本や、装丁に凝った高価な本がありますが、古本屋の店先に置かれた100円均一の本の方が、読書の本質にとっては価値があるかもしれません。

読書とは、自分で考える代わりに、他の誰かにものを考えてもらうことである。
アルテゥル・ショーペンハウアー(哲学者 ドイツ)
ショーペンハウアーは当初、プラトンとカントを研究。ゲーテと交わり、その後、インド哲学を学んだそうです。
ヨーロッパのペシミズムの源流となった『意志と表象としての世界』(1819)でワーグナー、ニーチェ、トーマス・マンに影響を与えます。
人生は最悪の世界だとして、そこからの解脱は芸術的静観と仏教的涅槃によるべきだとし、19世紀の厭世的世相に大いに迎えられました。
こんなショーペンハウアーの名言もありますょ。
結婚とは、男の権利を半分にして、義務を二倍にすることである。
無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。
誰もが自分自身の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる。
良書を読むための条件は、悪書を読まないことである。
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