分かってから動く人は、一生変われない — 挑戦の再定義
「挑戦している」と聞いて、どのような行動を思い浮かべるでしょうか。
新しいことに取り組むこと。
少し難しい目標に手を伸ばすこと。
失敗を恐れず、一歩踏み出すこと。
どれも間違いではありません。
しかし、本当にそれは「挑戦」なのでしょうか。
あらかじめやることが決まっていて、
起きうる問題もある程度想定できていて、
得られる結果もぼんやりと見えている。
その状態で踏み出す行動を、私たちは「挑戦」と呼んでいないでしょうか。
もしそうだとしたら、それは少しだけ安全に整えられた行動です。
言い換えれば、「分かっている範囲の中で動いている」に過ぎません。
もちろん、それ自体に価値はあります。
ですが、それを「挑戦」と呼んでしまうと、本来の意味が曖昧になります。
そしてその曖昧さこそが、
私たちから本当の挑戦を遠ざけているのではないか。
分からないことは不安です。
想定できない失敗は、怖いものです。
だから私たちは、できるだけ見通しを立ててから動こうとします。
しかし、その行為が積み重なるほどに、
私たちの行動は「分かっている世界」の中に閉じていきます。
本当に挑戦と呼べるものは、
その外側にあるはずです。
では、挑戦とは一体何なのか。
この言葉を、一度きちんと見つめ直してみたいと思います。
1. 挑戦と呼ばれているものの正体
私たちは日常の中で、さまざまな場面に「挑戦」という言葉を使っています。
新しい業務に取り組むとき。
難易度の高い目標を掲げたとき。
これまで経験のない領域に踏み出したとき。
そのどれもが「挑戦」と呼ばれます。
しかし、その中身を少しだけ冷静に見てみると、ある共通点が見えてきます。
それは、
「ある程度、先が読めている」ということです。
やるべきことは分かっている。
想定される課題も、いくつかは見えている。
うまくいけばどうなるかも、ぼんやりとイメージできる。
もちろん、不確実性がゼロなわけではありません。
ですがそれでも、完全に未知というわけではない。
この状態は、本当に「挑戦」と呼べるのでしょうか。
ここで一度、言葉を置き換えてみます。
やることが明確で、
起きうる問題もある程度想定されていて、
結果の方向性も予測できる。
このような行動は、別の言葉で表すことができます。
それは、
「検証」あるいは「実行」です。
仮説を立て、それを確かめる。
あるいは、決められた方針を実現するために動く。
どちらも重要な行動です。
組織にとっても、個人の成長にとっても欠かせません。
ですがそこには一つ、決定的な特徴があります。
それは、
「自分の理解の範囲の中で動いている」ということです。
ここで少しだけ視点を変えてみます。
もし、これまで「挑戦」と呼んでいたものの多くが、
実は検証や実行だったとしたらどうでしょうか。
私たちは、「挑戦しているつもり」で、
実はずっと「分かっている世界」の中で動いているのかもしれません。
そしてその状態は、一見前に進んでいるようでいて、
本質的には大きな変化を生み出しにくい。
なぜなら、
想定できる範囲の外には出ていないからです。
もちろん、検証や実行を否定するわけではありません。
それらは確実に価値のある行動です。
ただ、それを「挑戦」と呼んでしまうと、
言葉の輪郭がぼやけていきます。
そして気づかないうちに、
本来の意味での挑戦は、どこか遠いものになっていく。
では、なぜ私たちは、
「分かっている範囲の行動」を挑戦と呼んでしまうのでしょうか。
その理由は、次の章で考えていきます。
2.なぜ人は「分かってからやろう」とするのか
なぜ私たちは、「分かっている状態」でなければ動けないのでしょうか。
もう少し正確に言えば、
「分かるまで動こうとしない」のはなぜなのか。
この問いの奥には、人の自然な感情があります。
まず一つは、
想定外への恐れです。
人は、起きることが予測できていれば、ある程度の安心を持てます。
失敗する可能性があっても、その範囲が見えていれば受け入れられる。
しかし、何が起きるか分からない状態になると、
その安心は一気に崩れます。
どこまで悪くなるのか分からない。
どんな失敗をするのかも分からない。
取り返しがつくのかどうかも分からない。
この「輪郭のない不安」が、行動を止めます。
もう一つは、
評価への意識です。
仕事においては特に顕著ですが、
私たちは常に誰かに見られ、評価されています。
その中で、
・なぜそれをやったのか説明できるか
・どんな成果が見込めるのか
・失敗したときに納得してもらえるか
こうした“説明可能性”を求められる場面は多い。
結果として、私たちは無意識のうちに、
説明できる行動だけを選ぶようになります。
そしてもう一つ、見落とされがちな要因があります。
それは、
「失敗の内容を把握しておきたい」という欲求です。
失敗そのものよりも、
・どの程度の失敗なのか
・どんな形で失敗するのか
・どこまでなら許容できるのか
これらが分かっていれば、人は動けます。
逆に言えば、
«どんな失敗になるか分からない状態は、それだけで強い抵抗になる»
ということです。
ここまでをまとめると、
私たちは決して「失敗」だけを恐れているわけではありません。
«本当に恐れているのは、“想定できないこと”そのものです。»
だからこそ人は、
分かるまで考え、
見通しが立つまで動かず、
説明できる状態を整えてから一歩を踏み出す。
しかし、この行動には一つの帰結があります。
それは、
すべての行動が「理解できる範囲」に収まっていくということです。
どれだけ新しいことに見えても、
どれだけ難易度が高くても、
自分が把握できる範囲の中で選んでいる限り、
そこはすでに「知っている世界の延長」です。
そして気づかないうちに、
私たちは「挑戦している」と思いながら、
実際には「分かっていること」を繰り返している。
その状態が続いていきます。
では、その前提を一度外してみたとき、
「挑戦」とはどのように定義できるのでしょうか。
ここから先で、その言葉を改めて定義し直します。
ここまでの話に違和感があるなら、それは自然なことです。
ただ一つ、問いだけ残します。
では、どうすれば「挑戦」になるのか。
ここから先で、その答えをはっきりさせます。
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