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【愛でも喰らえ】#9 「あるときは ねたしと見たる 友の髪に」


 神保町すずらん通りに構える「文房堂」は明治二十年から続く老舗の文具、画材屋さんだ。

 クラシックな店構えの扉を開けたら、まるで夢の国にきたかのように、あらゆる愛らしい文具や雑貨が目に飛び込んでくる。

 階段の壁側は一面ポストカード売り場となっており、海外や国内の作家の絵葉書がびっしりと並べられ圧巻だ。

 店の三階は喫茶店で静かな空間の中で一人手帳やノートに何かを書いている人や、読書をする人が目立つ。
 詩乃はこの店でお気に入りのマグカップや文具を買い、喫茶店でウィンナーコーヒーを飲みながらプロットノートを作ることが好きだった。古書店で買った資料を開くこともある。

 帰りは安いカレー屋さんに寄って、新メニューに挑戦するのが恒例となっていた。物価高の昨今でも神保町のカレーは安い、大盛り、美味しいの満足三点盛りは変わらないところが嬉しい。


 しかし、今日のウィンナーコーヒーは味がしない。

 
 目の前にあれほど憎んだ、苦しめられた敵が悠々とミルクティーを飲んでいる。

 やしろ梓もこの文房堂のリピーターで、平日人気店のケーキが出る時によく訪れるという。

 
「ここ、大好きなんです。文具マニアだから一時間でもニ時間でも居座っちゃって」

 照れくさそうに笑うやしろに詩乃は好意を持った。

 
「あ、私もです!いつも店員さんがSNSで紹介してくれる文具をみて、釣られてきてしまいます」


 あはは、とお互い童心に戻れる文具沼に笑ってしまう。

 …………私、恥ずかしいや。
 こんなに知的で穏やかそうな人を勝手にライバル視して…………

 詩乃は剥き出しの子供っぽい自分の醜さを反省した。人間の心を他者が覗くことはできない事実に感謝した。そんなことを思うのは作家になってからだ。そうだ、執筆を始めて自分の醜い心を見つめざるを得ないことが増えた。

 やしろは両手でカップを温めながら微笑んだ。


「私、北川先生の作品のファンなんです。デビュー作の『御宿マタギ料理帖』を読んで、『蓄獣病院』を書こうと思ったの。編集さんから北川先生が獣看護師だったということを聞いて、今日絶対話しかけようと思ってて。傑作を書かれたご本人とお話し出来て嬉しいです」


 まさかやしろが意識してくれたなんて、意外だった。
 「蓄獣病院」は件の評価の高い動物病院を舞台にした連載である。


 
「と、とんでもないです。私こそ、先生の連載とても楽しみにしております……ッ」


 詩乃はあわあわと赤面しながら自分の胸のもう一つの気持ちを吐き出した。


「先生と同時連載なんて、光栄です。私なんて、まだ日本語もおぼつかない文章ばかりで……」


「ええッ!デビュー作なんて、作家の方が書かれているのかしら、って思った位リアルで生々しい描写なのに」


「母方のご先祖がマタギだったんです。今でも親族は狩猟をしていて、小さい頃から猪刈りや鹿の解体を見ていたので、それでかと思います」


「わあ、そうだったんですか。貴重な体験を幼い頃から刻み込んでいたんですね。獣看護師もその繋がりでなられたのですか?」


「それもあると思います。常に家には動物がいて、自分が出来ることって、この子達のお世話だなあって思って」


 やしろの空気感に絆され、ツルツルと制作裏話が出てしまう。


「北川先生は、SNSなどはなさらないのですか?」


「あ……はい、どうも自己発信が苦手で。もっぱら読み専です」


 直の触れ合いを好む詩乃は、自己開示が推奨される世の中になっても、世界に個人の日常を公開したいとは全く思わなかった。面倒なのだ。そのために撮影したり、文章を作ったり、顔もわからない相手にモヤモヤしたりすることが億劫である。虚像の上に成り立っている世界は砂上の楼閣のように脆い。


「やしろ先生はされているのですか?」


「私も呟き程度です。文具とお散歩の光景ばかりの写真ですが」


「こっそり拝見させて頂きます。あ……」


「何か?」


 そうだ、やしろに聞きたいことがあった。


「あの、先ほどの小藪さんは一体……やしろ先生はお知り合いなのでしょうか?」


「ああ、彼は大学の後輩です。文芸サークルの。ふふふ、ぶっ飛んでいるでしょ、あれでも優しい子なんですよ」


 優しい子ォ?あのトサカのどこがっ
 しかもあいつも東大出身なのかと思うとまた腹が立ってきた。
 ああ、ムカムカするのは精神衛生上よくない、話を変えよう。
 詩乃はやしろの作家歴について尋ねた。


「長い間、少女向けのライトノベルで書いていたんです。十五年くらいかな。でも、元々は文芸をやりたくて。年も重ねて表現の幅が増えてきたし、ここが最後の勝負どころ!と思って逸見賞の『movement』に応募しました。運良く入賞を頂けて今に至っています」


 この世界に十年以上身を置いているとは、これは敵わないはずだわ、と詩乃は納得した。
 雑誌でやしろの文章を読むと的確で読みやすい。余程鍛えてないと読者を引き込むリズムは持てない。それをすでに会得しているのは積年の経験値だった。

 そのあと、お互いの好きな本や作家について盛り上がった。
 やしろの醸し出すゆったりした空気感は詩乃に合い、非常に落ち着いた。


 「あ、『SODA』の創刊号、藤岡紅緒のインタビューが写真付きで載るそうですよ」


 「えっ本当ですか?」


 詩乃はびっくりした。詩乃だけでなく日本人の多くが驚くのではないか。
 彼女の名を知らない者はいないのだから。
 海外の賞を総ナメにし、最も有名な日本人作家であるにもかかわらず、藤岡紅緒という作家はけして表には出てこない。

 唯一小説の著者近影で、大正時代のような着物姿で遠くをみる眼差しの強い女性の姿を写した写真だけが、デビュー作からずっと使われている。それ以外はインタビューや撮影も受けず、ただただ作品をストイックに生み出している。

 ネットで検索しても本人らしい画像は出てこないので、余程表には出たくないものだと思われる。
 仕事量も、影響力も計り知れない。そんな雲の上の人が同じ雑誌に出るとは……


「恩田さん、すごいなあ。どうやって口説いたんでしょう」


 詩乃がため息をついていると、やしろも同じくため息をついた。


「さあ、私もわかりませんが……藤岡紅緒さん、大学の先輩なんです。といっても、私が入学した時にはすでに中退されていましたが」

「えっ、そうなんですか?」


 うーん、やはり学力は大事なのかなあ。トサカが東大出身は信じられないが、藤岡紅緒ややしろの文章をみれば、さもありなん、と思った。


 やしろはまたため息をついた。


「わたしと二つしか違わないのに、すごく遠い人。……本当に…………」


 虚な瞳でミルクティーを見つめながら呟くやしろをみて、あれ、と思った。

 もしかしてやしろは、藤岡紅緒を意識しているのかもしれない……
 もしそうだとしたら、なんと途方もない闘いであろう。

 その後、文房堂をやしろと探検し、お互い連絡先を交換して別れた。

 千代田線に乗り込み、張っていた心が緩む。

「みんな……鎖のように繋がってるんやな…………」


 嬉しさや、恥ずかしさや、こそばゆさ。あらゆる感情を味わった日だった。
 家に帰って、早く乙女さんのふわふわのお腹を撫でたい、チャップリンのゴロゴロを聞きたいと思った。




(次回)


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