【愛でも喰らえ】#16 「くれなゐの 薔薇のかさねの 唇に」
その後に出た麩饅頭の味はわからなかった。
ただ視覚で饅頭を巻いた鮮やかな笹色と、ガラス皿の格子の朱色だけを捉えた。
紺野と二言三言話したが、反射で応えたので何を話したか覚えていない。
「妻と結婚して以来、今まで裏切ったことはありません」
「子供はいません。それでも、長い年月をお互い支え合いながら過ごしてきました」
紺野の言葉は、詩乃の思考、頭、心、手足、胸、腹……各々が散り散りになり、不機能するのに十分だった。
頭から顔がぱっくり割れたように、言語が操れない。
突きつけられた絶望を前に無力のままに頷くしかなかった。
料亭を出たら、雨は優しさに満ちた小雨であった。
二人は傘をささず、先程来た道を再び歩んだ。
やっとの思いで言葉を発した。
「…………紺野さん」
紺野が詩乃の方を向く。
「正直に伝えてくださり、ありがとうございます」
千切れた細胞を繋ぎ留めて、正気で伝えようとした。
「既婚されていても、すぐにこの気持ちがおさまることは難しいでしょう……紺野さんはこれまで一度も恋をしたことのない私が、初めて好きになったひとです。その想いは変わることはありません」
階段を降り、タクシーを待っている間に笑えと脳で命令した。表情は歪んでいたかもしれないが、言葉で伝えなければ、と思った。
「有難うございました。こんなに素敵な気持ちにさせて頂いて。今日の夜はずっと忘れません。どうか、お幸せに。今後は、編集者と作家としてよろしくお願い致します」
編集者として、といっても、これでは二度と会うことはないだろう。
タクシーが二人の前にとまった。
「あ……電車で帰ります。一本で行けますよね」
立ち去ろうとする詩乃を紺野は引き止めた。
「千住駅までお送りします」
タクシーの中で二人は何も語らなかった。
青いネオンが流れるようにやってきては去り、雨足が強くなってきたのか、運転手はワイパーをつけた。車内は鈍いゴム音だけが定期的に鳴り、雨垂れがネオンをぼかす。
残りわずかな時間のたゆらいに、詩乃は目を閉じた。
二人だけの秘密が、やがて消えてなくなるまでの距離を慈しむように待った。
タクシーは北千住駅西口前にとまった。
詩乃は紺野に微笑んで御礼を伝えた。
「今夜はとっても楽しかったです。いい作品になるよう尽力します。お時間をとって下さり、有難うございました」
紺野は詩乃を暫く見つめ続けた。
遠く懐かしい、哀しみを携えた瞳。
そうだ、紺野の表情は飼い主が離れて迎えにこない動物にとても似ているのだ。
タクシーから出て、「ご馳走様でした」と一礼した。
扉が締まると、二人の時の終わりを告げた。
詩乃は去ってゆくタクシーを眺めながら、やっと泣くことが出来た。
どんどん零れ落ちてゆく紺野との記憶をとどめておきたいのに涙は容赦なく流れた。
濡れながら、お昼にみた横丁を見つけた。
赤い灯青い灯に吸い込まれるように入っていった。
道は狭く、車が一台やっと通れる幅で、焼き鳥の匂いやおでんの出汁の匂いが漂う中、瓶やガラスが散り散りに鳴り客たちの笑い声が彼方此方の小さなお店から聞こえる。
詩乃は声を殺しながら、しかし涙を赦す限り流し歩いた。
大きな病院の駐車場に出て、道に迷ったと感じたが、まだ正気に戻れず人気がないのをみて雨音とともに声をあげて泣いた。
後ろからバシャバシャと勢いよく走ってくる音がしてふりかえった時、見覚えのある顔がすぐ目の前にあった。
え、と目を丸くする詩乃の手を力強くつかみ、病院の出口にある小さな高架線の中に入った。まるで戦時中の壕のような低く苔むしたトンネルの中に二人は傾れるように入った。
その途端、貨物列車の轟音が詩乃の耳を脳天まで突き刺した。
声を上げようとした口を塞がれた。
男の唇は熱を帯び、両手は詩乃の頬をしっかりと支えていた。
轟音が去ってゆき、雨音が響く。
凶暴な舌の絡め合いが、動物同士が激しくじゃれ合うようにいつまでも続く。息つぎの合間に詩乃は雨に消えるような声で罵った。
「酷い……」
「抗えないのがわかってて、こんなこと…………」
「悪魔です、あなたは酷い…………」
「せっかく綺麗に、お別れしようと思ったのに…………」
それでも男の荒々しい愛撫は止まず、二人は暫く激しく唇を求めあった。またひとつぎ唇を離したとき、紺野の髪から滴り雫が詩乃の唇に落ちた。
「怖い…………」
男は絞り出すような声で告げた。
「…………離したくないんです…………」
ガード下の外は、電灯が瑠璃色や紺青、紺藍色と妖しく闇を照らし、雨が白糸のように光って落ちていた。
詩乃はその悪魔の言葉を甘美な毒を盛られたように眩暈の中で呑み込んだ。
ホテルで生まれたままの姿になった詩乃は生を受けてから長く閉じ続けていた貝口を初めて男に向けて開いた。
闇夜が血でビリビリと裂けるような痺れる痛みに、詩乃が叫んだ時、男は身体を離し、陰茎の先端部を女のほとの外になぞるように押し当てて、張った乳首を優しく舌で転がした。顎、耳の下をゆっくり愛撫し、女は息をゆっくり吐きながら腰を焦らし始めた。
女の泉が、やがて川となりシーツに流れた。
その川に静かに逆らって、先端部が会陰をくすぐる。
不確かな息継ぎの中で、女は男の頬を両手で覆い、
「どうして……」
「どうしていつも淋しそうな顔をしているの……」
「初めて会った時からずっと、」
「ずっとあなたの顔が離れない…………」
弛緩し柔らかくなった会陰からどんどん泉が溢れ出している。生温かいほぞを男の濡れた先端がなぞる度に、いいようのない渇望が込み上げる。
詩乃は今度こそ受け入れたいと思った。
「きて…………」
優しく唇を重ね合いながら、男は詩乃に熱ごと入っていった。踵を上げた詩乃の足指が硬くシーツを摘んだ。
雨の雫のような水音が戯れるように鳴る中、違和感がなくなり、みるみるうちに溶け合ってゆく。代わってどんどん増してゆく波の快楽へ女は身を委ね喘いだ。女が声をあげるたびに男の喉元は熱くなり、制御していた凶暴さが放たれてゆく。
獣に近くなってゆく女の身体を慈しむように、男は揺れる乳にそっと触れた。女はビクンと尻をあげた。身体中が男の鼓動に反射するように痙攣する。男は容赦なくピストンを繰り返し、女のうなじや顎、脇の下、耳の中を熱い舌でくすぐった。女の手は求めるように男の尻を揉んでゆく。男は抗えぬ欲望が着火し女を力強く抱きしめた。
どんどん男の太い蛇頭が奥へ奥へとついてくる。
凶暴に荒ぶる砲口に女は打たれ続け、痺れ泣きじゃくり懇願した。
地震のように部屋すべてが激しく揺れ続け、やがて男の咆哮とともに女はすべてを受け入れた。
求めあって、求め続けて、全てを得た先には何があるのだろうー
そこにはただ絶望を帯びた現実だけだ。
しかし、男は最後力尽き痙攣しながら震える女に幾度も囁いたのだった。
「愛しています」
「愛しています」
「愛しています」
と━━
(次回)
(マガジン)
