【愛でも喰らえ】#17 「夜の帳に ささめき尽きし 星の今を」
八ヶ岳は、都会の雑踏や綻びを洗い流すのに最高の場所であった。
一眠りしたあと、牧場に行って馬に乗った。
帰りに銭湯に行き汗を流した。GWで人は多かったけれどおばあちゃんと孫が浸かりにきている様子をみて、詩乃も微笑ましく思った。
夜、自然文化園でプラネタリウムをみた。帰りの夜空は水晶の結晶がばら撒かれたような圧巻の星空だった。
詩乃の実家でもここまで鮮明な大劇場のような大小の星々はみれまい。
ペット同伴の場所には乙女さんを連れて行った。あまり長くお散歩をするのが好きではない乙女さんも、静かで思う存分に自由に動けることを察したのか、最後までお尻をふりふりしながらご機嫌で歩いていた。
暖炉の側で、牧場のお散歩中、夜空の下で、今まで聞けなかった紺野さんのこともたくさん聞けた。
血液型はA型、三つ年上だった。
小さい頃は戦闘機や戦艦のプラモデル作りにハマり、宮大工の父に呆れられたこと、子供の頃憧れた職業は軍のパイロット、大学生の頃にインド旅行に行って修行しようかいうところまで考えたこと、今でも二ヶ月に一回は宿坊に参加してしまうこと。
お母さんの介護をしていた時にポプリでサシェを作ったら喜んでくれとても嬉しかったこと、最近は囲碁会館で、小六に負けて悔しかったこと。
苦手なものはゾウ。インド旅行の時ゾウ乗り体験をして、落下し危うく踏まれそうになり、リアルでエレファントマンになりかけたトラウマがあること……
失礼だけど、笑ってしまう思い出もたくさん教えてくれた。
そして、紺野さんも東大出身だった。瞬間にトサカが後輩……と脳内に走ったが、今はあいつに一秒でも侵略されたくないのですぐに打ち消した。
夜、森が眠る時に儀式のように再び抱き合い、森が目覚める前、詩乃がまなじりを開くと同時に紺野に後ろから胸を抱かれてまた愛し合った。寝起きの交わりは感度が高く強い官能を呼び起こすことを知った。紺野は詩乃が強く感じる箇所や対位を一つ一つ覚え忠実に捧げた。
紺野は詩乃の足首を掴み焔となったほとに息を吹きかけ、突起した蕾とそのまわりを丁寧にゆっくり柔らかく吸ってゆく。
幾度達しても唇を離さず弄ばれ、思ってもみないところを舌で探り当てられ、麻薬のようにオーガズムの波が繰り返された。お尻がヒクヒクし、震えて泣いてしまう程感じてしまう。
ずっと昔から、このような動物的な営みをヒトは繰り返してきたのだろうか。普段暮らしていると、理性で生きているから陰部を舐めるなんてとんでもないことだけど、犬が信頼や愛情、服従のサインで他犬のお尻を舐めるように、ヒトも愛情がないとこういうことは出来ない。
紺野の愛撫は母犬が子犬を繕うように豊かで優しかった。この人は知性と同じくらい、言語を使わぬ交わりも大切にするひとだ。
詩乃も紺野の陰茎を口に運ぼうとしたが引き止められた。される方の顔や火照りをみて感じる方がずっと好きなのだと言った。
ログハウスに差し込む朝焼けが綺麗だった。
ぼんやり見つめているだけで満たされた心持ちになる。
ベランダに出て鳥の餌を置いていると、すぐに一羽の鳥がやってきて黒い頭にサーモンピンクのマフラーを上下左右にゆらし、咥えて飛んでいった。
詩乃はすぐに持ってきたミニポケット版の野鳥の本をめくり見て照合した。
「ウソだ」と鳥の名前がわかった時、嬉しくなった。
シャワーを浴びた紺野が出てきた。
「近所のホテルにパンを予約しているんです。乙女さんのお散歩がてら行こうか」
ホテルで出すパンの焼き立てがもうすぐ届くらしい。一般にも販売しているそうだ。
白樺の森を乙女さんと一緒にパキパキ、ザクザクと落ち葉や枝を踏んで歩く。朝の木漏れ日が木々の間に玉響に白く揺れ、差す光も心地いい。今は初夏だが、まるで秋のような清涼さだ。森からみる空は今日も透明の天空色で高い。
詩乃は八ヶ岳に来て意識的に深呼吸をしていた。細胞隅々まで清涼な空気を吸い込む。
「紺野さんはこの別荘にいるとき、ルリビタキを見たことありますか?」
「ルリビタキって青い鳥の?しっかりと見かけたことはないけれど、きっと森にいるはずだよ」
森中に響く鳥の囀りの中に、ルリビタキの声も加わっているように詩乃は思った。近くにソングスポットが有れば見つけやすいのだが。
小さい沢に出た。朽ちているが橋も作られている。
遊歩道を歩いていると、乙女さんが止まった。
「どうしたの?乙女さん」
乙女さんの見つめる先に、ナラの梢についた大きな実があった。
その実は青い。
「あ!」
詩乃が声を上げた途端、実は翼を広げ沢に沿ってこちら側へ飛んできた。
「紺野さん、ルリビタキ!」
「えっ」
二人の前をスウッと一直線に流れるようにその青い鳥は優雅に飛んでゆき、木々の中に消えていった。
「宝石みたいな青だ……」
「やった!みれた!ありがとう、乙女さん!」
急に抱きつかれて困り顔の乙女さんに頬を寄せる。ルリビタキはオスのみが青い。まるで幸福を落としていってくれた心持ちがした。
ホテルでパンを買うついでに、お土産売り場にルリビタキのぬいぐるみがあったのを見つけ、詩乃はチャップリンの遊び道具に買った。
遅い朝食はベーコンエッグに、焼き立てのトースト、ホテルで買ったマーマレード、昨日道の駅で買ったオレンジとルッコラが並ぶ。
作りたてなのでパンが柔らかく、ふかふかだ。オレンジも甘味がちょうど良く、当たりだった。
車に荷物を詰めて、ナビで帰宅ルートを確認する。
後部座席で乙女さんを抱いている紺野に伝えた。
「疲れたでしょうから、寝ててください。明日も北海道ですよね」
紺野は安堵のため息をついた。
「ありがとう、助かります」
山を降りたところから、寝息が聞こえた。ミラーを除くと目を瞑った男の隣で、乙女さんも眠っているのが見えた。
詩乃は微笑んで、そのまま快調に車を走らせた。
紺野はあまり寝ていないのを知っている。
真夜中に電話で起こされて、外に出て一時間以上話し込んでいた。
フィレンツェだとおそらく夕方六時頃だろうか。
夫婦二人で紡いできた年月。対話がどのようなあたたかさと労りを伴うものなのか、詩乃にはわからない。奥様がどんな方なのかも。
けれど、自分が罪を受ける身であることはわかる。
もし結婚していて、旅行中に旦那さんが知らない女性と会っていたと知ったら…………とても正気ではいられない。
この恋が明るみに出たら、みんな幸せにはならない。
紺野は自分を抱いているのと同じように、奥様を愛してきたのだろうか。
動物が飼い主に全身で感情を表すように、奥様を押し倒して、興奮と快楽の混じった秘密の表情を見せたのだろうか。
ラジオからはGWのトークが空虚に流れている。
ますます沈みゆく心を、詩乃はギアをあげて振り切った。
深く考えるのはやめよう。
忙殺される日々を縫って、詩乃に会いにきてくれる紺野を余計に疲れさせてはいけない。
紺野は良心の呵責の中迷い悩んだ末、詩乃との愛をもったことに対して、激しい自責と共に生きている。不義を承知で愛をもってくれた。
残酷を承知で、こうなったことを自分は後悔していない。
詩乃はあの雨の夜、最後の最後で求めてくれた紺野の凶暴な愛が嬉しかった。一夜の浮気など業界にはよくあることかもしれない、と覚悟していたが、その後も紺野は詩乃を大切にしてくれた。その真面目さがとても嬉しかった。
首都高に入った。
近未来のアトラクションのように、車がヒュンヒュンと高速で飛びカーブを流れるトンネルの中を慎重に滑ってゆく。
抜けると家まであと少しだ。
八ヶ岳の写真は一枚もない。
ただ食べ、眠り、抱き合う営みだけがとてつもなく尊い。
綺麗な空気とともに、細胞の中まで記憶されているし、それで良かった。
チャップリンが元気で過ごしていますように、と祈りながら、車は青空の中へ出ていつものビルが無機質に並ぶ街を軽快に走った。
(次回)
(マガジン)
