【愛でも喰らえ】#18 「ゆるしたまへ 二人を恋ふと 君泣くや」
男雨で勢いよく始まった梅雨の合間のことである。
曇り空の日に、藤岡紅緒のインタビューは彼女が敬愛する森鴎外記念館で行われた。
「紅緒さん、今回はほんっとうに有難うございます!」
黒木が運転する車から降りてきた紅緒に、恩田が迎え入れキビッと頭を下げた。
「恩田はん、初めての編集長やって?おめでとう。これ、皆さんで食べてな」
紅緒は手土産に猫がかたどられたフィナンシェと、京都の焼き栗きんとんを渡した。
「わ、有難うございます!」
「旦那はんがお世話になっとるから、恩田はんには何かしたいとずっと思っとったんよ」
「いえいえ、編集長のおかげで、我々好き放題させて貰ってますから。でも紅緒さん、本当に顔出し……大丈夫ですか?」
「ええ、ええ。こんなおばはんが役に立てるんなら有難いこっちゃ。ほな、はじめまひょか」
紅緒は館内の展示品を一つ一つ見て回った。
黒の市松紋様にトランプが裾にあしらわれた大正時代の麻の単衣に、襦袢の襟元にはドイツのジャガード織の薔薇模様を縫い付けている。鷗外を意識して選んだ。
帯も紅薔薇の日本刺繍が丁寧に縫い付けられた昔のもので、帯揚げは千歳緑、真紅の帯締めに先日の旅行で買ったヴェネツィアングラスのマスカレードを帯留にあしらった。
髪型はすき毛とウィッグを使って後頭部にボリュームを持たせた抱き合わせが小さい古風なまとめ髪で、長い年月を経たアール・ヌーヴォー風の波と葉紋様の丸みをおびた本鼈甲と金の櫛がさりげなくさされて印象的だ。
メイクも自分で施し、梅雨の気だるい中でも装いを楽しんでいる紅緒をみて、スタッフはこれまで自己発信を全くせず隠れ続けた人気作家の意外な一面を見て驚いた。
てっきり年相応にくたびれ中年太りをし、忙しくてヘアケアも出来ていない女性とばかり思っていたのだ。
しかし目の前の藤岡紅緒は、顔が小さく、瞳が強く、色白で首元が鶴のように美しい。年より10歳若くよんでも疑われない。
「天って残酷ですよね。一人に二物も三物も与えれば、私みたいに一物もなく薄給で600円のTシャツ着たブサイクが大半なのに…………」
カメラマンの助手がため息交じりにつぶやいた。
「お前みたいに不平をいう奴がいるから、出てこなかったんだろ。けど、病弱だとは聞いてるよ。健康なだけ万々歳だって。箝口令がしかれているから、今日の撮影は絶対に話すなよ」
そう釘をさしてカメラマンが館内を歩く紅緒を撮影してゆく。
「はあい」と答えた太り気味の助手を真横で冷たい視線でみる女がいた。
マネージャーの黒木である。
「ここには小説で詰まった時や、頭を整理したい時によく訪れます。大学生の頃から通ってました」
「荷風の『文学者になるのなら鷗外全集と国語辞典を三年学べば十分』という言葉がありますが、真に受けて神保町でお小遣いはたいて全集買ってね、勉強させてもらってました」
「驚いたのは鴎外先生の動く映像をみて、見過ごすくらい目立たず謙虚やということでした」
「お子様の随筆を読むと、どっしりとした品格ある欧羅巴文化に感化されたお父さん像なんですが、映像をみるとやはり日本人やなと思いましたね。表立つのは避けつつも品位を持っていらっしゃる」
鴎外がかつて座った三人冗語の石や、落ち着いたモリキネカフェで撮影は進んだ。
二時間弱で滞りなく終わった時に、恩田はスタッフの後ろに、黒いシャツの背の高い男が佇んでいるのを見た。
「あ、編集長、この度は本当にありがとうございました!バッチリ撮影が終わりました」
「いやあ、紅緒さんが決めたんだよ」
黒木が入って釘を刺した。
「こちらは心配ですよ。顔出しすることで一気に有る事無い事深掘りされてしまう。いいですか、今回だけですからね。他社から問い合わせがあっても受けないようにお願いします」
黒木は宝塚の男役のように背が高い。まるで蛇に睨まれたカエルのように恩田は小さくなって頷いた。
「は、はい、それはもう、キッチリと」
紺野は黒木に頭を下げた。
「黒木さん、紅緒さんは私が乗せて帰ります」
「あ、助かります。私はこれから翻訳の打ち合わせなので自宅に戻りますね」
黒木が颯爽と去ってゆくのをみて、恩田が呟いた。
「ひえ〜……怖い……」
「有難い方です。海外の商社に勤めれるほど優秀な方なのに紅緒さんのオフィスに入ってくれて。スケジュール管理や通訳、翻訳対応、仕事の応対まで全てこなしてくれています」
「優秀なのはわかりますけど、ドーベルマンみたいですよ」
「伝えておきましょうか」
「わっ!ダメっダメですよ!編集長ッ」
ハハハ、と笑っている時に紅緒が雑誌のコピーを読みながらやってきた。
「くっくっ……この話面白いなあ、『ボアと一夜を共にした日』」
恩田が笑って答えた。
「ああ、そちら、『SODA』の創刊号で『気になる生き物』っていうお題で寄稿して下さった方です」
文芸誌なのに、雑誌のようにカラー装飾がされていて読みやすいレイアウトの「SODA」は今急ピッチで編集が進められ、早めに提出された作品からデザインを決めている。
「僕が担当させて頂いています。元々獣看護師をされていた方ですよ」
「そうらしいな、初めて大蛇のペットが緊急で担ぎ込まれた時のこと書いとるもん。作者はんは……」
紅緒は小さなルビーが詰められた指輪が光る白く細い指で文字を追った。
「北川詩乃。あれ?確か、マタギの……」
「そうです、そうです、『movement』で新人賞を獲られた方です」
「へえ、レイアウトもお洒落やし、創刊号が楽しみやな!うちもなんか参加してみたいわ」
「是非是非!では交換日記企画で北川さんとやってみます?」
「ははは、黒木はんと相談してみるわ。今日もピリピリしとったからなあ」
「ですよね……こちらはいつでもお待ちしておりますので!」
十分後、艶やかなミッドナイトブルーのレガシィが記念館近くの駐車場から出た。
曇り空は色濃くなり、これからまた一雨降りそうな予感である。
紅緒は水筒のお茶を飲みながら、史緒に話しかけた。
「なあ、うち観たい映画があるんよ。午後休なんやろ?行かん?」
考え事をしているのか、運転手からの答えはない。
「史緒はん!!!」
「わっ」
「さっきから、どないしたんや。ぬべえっと幽霊みたいな顔して」
「あ……ごめん、聞いてなかった」
「体調でも悪いんか?」
「いや…………」
「もしかして、露出するのが嫌やった?史緒はんに迷惑かけるかもしれへんし」
「いいや。紅緒さんの自由にすればいいよ」
「なんや、その投げやりな言い方は。よし、ほな、これから鶯谷のラブホテル行こう!」
「ぶっ……なんで鶯谷なの……?」
「あの湿った昭和くさいホテルがたまらんのよ。学生の頃、よお通ったやんか」
史緒は険しい顔をして紅緒を見た。
「埃が立つところはやめた方がいい。症状が悪化したらどうするんだ」
「アンタはお父さんかいな」
「梅雨時だから余計に心配なんです。昨夜だって苦しそうだったじゃないか」
「ちぇー」と紅緒は不貞腐れたが、暫くしてはたと気づいた。
「……もしかして、それで、今日わざわざ迎えに来てくれたん?」
「……………………」
「史緒はん……」
紅緒が男の腕をぎゅっと掴み頬を寄せて彼の匂いを嗅いだ。シャツからはシャボン玉石鹸のほんの微かな香りがする。
「危ないですよ」
紅緒は離さなかった。
「……疲れたな。パレ・デ・テのお茶が飲みたい」
男は笑った。
「帰ったら淹れます」
「ルイボスティーのやつな。バニラの香りの」
「ええ」
「あとブルーベリーのチーズタルトも」
「はいはい」
車は青山通りに出た。
ビルが並ぶこの通りに出ると、二人は「家に帰ってきたな」と感じるのだった。
曇りが立ち込めていても、車内は平穏な空間に満ちていた。
(次回)
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