【愛でも喰らえ】#19 「ああロダン 君は不思議の カテドラル」
雨が続くと無気力になる。
春から始めていたジョギングも、梅雨に入ってから途絶えてしまった。
雨が降っていない早朝や夕べなど走る機会はいくらでもあった。
だが、一度サボるとその無気力が天気がいい日までも続き、結局シューズを履くことも億劫になった。
今は「仕事さえ出来てればもういい!オーケー!」と開き直るほどだらけている。
お土産の一日目でボロボロになったルリカケスの隣で、チャップリンはグルーミングをしている。
GWに八ヶ岳から帰宅した時、この雄猫はクッションの上でくかぁ〜とお腹をみせて気持ちよさそうに眠っていた。ご主人の帰還なぞ気にする風でもなく、目が覚めた時に「あ、帰ってたの」とやっとすり寄り、「お土産ありまっか〜?」と催促するのだった。小さい頃から猫は飼っていたが、ここまで図太い子は初めてである。人間の年で数えると四十歳位で、おやっさん度がどんどん増している。
一ついいこともあった。
雨の日は読書が捗ることだ。
お天気だと外に出ないと勿体無い心持ちになるのに、雨の日は「閉じこもっていい」という天からのメッセージだと勝手にとらえて雨読の日々を過ごしている。
詩乃の住む古い日本家屋は、雨音が美しく聞こえる。
ざあっと地上に降り注ぐ音や、軒樋に雨粒が落ちる音、パタン、パタン、とトタンに雫が落ちる音、実にさまざまな雨音があることを知った。
東京という土地ゆえに、自然の化象に敏感になったせいもあるだろう。
読書は、友人の凪琉がライトノベルで描いていた琉球ファンタジーが、グングンとページを進める手が止まらぬほど面白かった。なぜ売れなかったのかがわからない。
「凪ちゃん!すっごく面白かったよ!最後まで一気に読んじゃった!」
すぐにネット通話で凪琉に興奮冷めやまぬ中感想を伝えたが、
「うわー、有難うー」
と答えつつも、喋っていていつもの元気がない。
「どうしたの?」
「うん、四月から今の時期は色々考えるんさー……」
あ、と思った。
凪琉は沖縄県出身だ。
故郷はかつて沖縄戦の激戦地で、一族の半分が焼夷弾や飢餓、不幸にも集団自決で亡くなっていると聞いた。
お婆様が生き残ったおかげで血は繋がれて凪琉が生まれたそうだ。
もしご親戚の方が生き残っていたなら、凪琉の周りはもっと賑やかだったと聞かされた時、詩乃は今の平和な日本で詩乃と同世代の子が、重い戦争の負荷を生まれながらにして与えられて過ごしていることに奇妙な衝撃を受けた。
いつも太陽のように温かく陽気な彼女が絶対的な屈辱と苦魂を抱えている暗部を知り、人間の持つ幾重もの複雑な側面をみた。
詩乃の父方の祖父は国鉄の職員で戦争には行っておらず、母方のマタギだった祖父は、満州に派兵されて結核にかかり帰国した。病院で入院している時に終戦を迎えている。戦後特効薬が開発されて運良く回復し、役所に勤めながらマタギとして九十五歳まで生きた。
母方、父方双方とも祖父母は詩乃に優しく、夏休みや冬休みに遊びに行くのが楽しみだったし、マタギ文化や猟についても教えられた。実はそれはとても幸運だったのだ。
凪琉は、父方の祖父母は集団自決で亡くなりまだ赤ちゃんだったお父さんは米兵によって保護された。母方の祖父はガマで病死し、若かった祖母は一人苦難の戦後を生きてきた。祖母のご兄弟も日本軍と共に戦い戦死し、一人ぼっちで立ち上がるしか無かった。
想像に絶する血の歴史は、凪琉のアイデンティティにも大きく影響を与えたと詩乃は推測するぐらいしかできない。
「内地の人は、沖縄のことなんて興味ないよ」
と自分の家系について話してくれた時、サラッと言った凪琉の言葉が忘れられない。
毎年、沖縄戦が始まった四月から終戦の八月まで凪琉は落ち込むことが多いという。
詩乃が知らない、凪琉の心の葛藤はまだたくさんあるように思えた。もし話せる時がきたら、話してほしい。大好きなお友達のことをもっと知りたいから、いつか話してほしい。
知り合いになれたやしろ梓とは、時々ネット通話でお茶をするようになった。
動物病院について聞きたがっていたやしろに、詩乃は経験で得たことを話すようになった。
自分の書きたいネタを他者に教えるなど、随分プロ意識に欠けた行動だとは思ったが、やしろの醸し出すゆったりした雰囲気が好きだったし、詩乃も小説が上達するおすすめの本や、やしろが注意しているコツなどを教えてもらっていた。
「movement」七月号に、二人の連載がスタートした。
すでに単行本化について動いているやしろの連載、「蓄獣病院」は、獣看護師の詩乃が読んでもユーモアと問題提起が絶妙に混ざり合って、笑いの中に考えさせられることが多かった。
掲載されている作品群の中で最も面白かった。もし未だ獣看護師を続けていて、やしろのことを全く知らずとも、彼女の連載は購入するだろうな、と思ったくらいだ。
自分の作品は、実力的にみてもまだまだだが、腐らずに着々と積み上げてゆけばいい。
悔しくない、と言えば嘘になる。けれど、執筆は結局は自分自身との闘いであると学べたのだ。
梅雨の合間に、弛んだ日々の灰汁と汚れを落とすために、湯島天神まで足を運んだ。
夏越しの大祓えをするためである。
お正月や二月三月は受験や梅まつりで参拝客で溢れる天神さんも、梅雨時には閑散としていてゆったりと緑深い境内を散策できる。
そしてこの時期に半年間の厄を祓う「茅の輪くぐり」が境内に作られる。
詩乃は茅の輪くぐりをして、心を一新して生活を改めようと思った。
静粛な心持ちで左側からくぐり、次は右側をくぐり、また左側をくぐる。
よし、これで昼前の十一時に起きることもしないし、ごっつ盛りの豚骨カップラーメンやらを買いだめすることもない。
明け方四時迄読書やNetflixを見て寝ることもしないし、欲に負けてデリバリーサービスで大盛りポテトとダブルチーズバーガーを買うこともない。
フレッシュに生き返るぞ!
茅の輪くぐりというものは大晦日と同様、穢れを全て水に流せることを全面的に肯定される実に便利な行事である。
多くの人が自律神経がやられ、気圧症にも悩まされて悶々とする梅雨時に祓えるのもナイスタイミングだ。
それに、なんと言ってもバックには神様がついているのだ。神様が「祓いたまえ、清えたまえ」と場を許してくれているのだ。最強ではないか。
いっそ毎月穢れを祓う行事があればいいのに。
詩乃は境内を歩く宮司に挨拶をし、お参りをした。
乙女さんとチャップリンが今後も健やかでありますように、生活が改善出来ますように、文筆業が上達しますように、と願った。
その後、御神籤を引かせてもらう。
精神統一してジャカジャカとみくじ筒を振る。お祈りに対する神様からのアンサーである。
ここだ、というところで穴から出てきた棒を出し書かれた番号をみた。
四十一番。
巫女さんに番号を伝えて、御神籤を頂いた。
詩乃の血の気が引いた。
凶
願望 今は叶わず。一層努力せよ。
商売 好機を待て。焦ると身を崩す。
病気 危うい。生活を見直すことから改めよ。
縁談 悪い。
待ち人 来ない。
学問 驕らず努力し続ければ大器晩成する。
今の詩乃の堕落っぷりを戒めるかのような内容である。
「まじか……まじか……」と青い顔でふらふらしつつ、手水の隣に鎮座するニ頭の臥牛像へ向かった。
心を鎮めるために、この撫で牛の頭を撫でた。
菅原道真とゆかりのある牛の頭を撫でると知恵を授かり、病気をしている箇所を撫でると平癒すると言われる。
お願いします……おみくじのことも水に流して下さい……と暫く撫で回していると背後からチャリーン……チャリーンと金属音がした。
あれ、神楽でもするのかな?と振り返った詩乃は硬直した。
眼前には、見覚えのある暑苦しそうな巨漢の大男が立っていた。
「やっぱり。見覚えのある人だと思ってたら北川さんじゃないすか」
…………トサカ!
と叫びそうになったが、今日はサラサラの黒髪である。
分厚い唇と暑苦しそうなギラついた目は相変わらずだが、パンクファッションではなく、ごく普通のストライプのシャツにグレーベージュのスーツ姿だった。どうしたんだ、爽やかじゃないか。
リュックだけがチェーンと十字架が痛々しく施された黒革で、先ほどの金属音はこいつのチェーンであったことがわかった。
「な、なんでここにいるんですか……」
おぞましいものを見るような目つきで詩乃は尋ねた。
「あ、僕?近くの大学で働いてんすよ。講師ですけど。休憩中によくここに来るんです」
小藪は答えながら詩乃の手に持ってる御神籤を見た。
「へえ、凶……」
フフっと口角をあげる小藪に腹が立った。なんていやらしい表情だ。
こいつには惑わされたくない。
「お仕事大変ですね。それでは」
そう言って立ち去ろうとした時、小藪が待ったをかけた。
「せっかくですから、喫茶店でも行きません?話でもしたいし」
詩乃は振り返らぬままサッサと歩き答えた。
「結構です。こちらは話すことなどありませんので」
「あ、もしかして『SODA』打ち合わせの時の僕からの挑戦状、ビビっちゃいました?」
「はあ?」
何言ってんだ、コイツは、と言わんばかりに詩乃が振り返ると、小藪は意地悪そうに笑った。
「焦ってる、焦ってる、実は僕のこと気になってるでしょ」
「なっとらんわっ」
「僕、SNSやってるんで気になったら見てください。毎日動向を載せてるんで。視察OKっす」
「『小藪宗介ー忍々ー』で検索したら出てくるんで」
忍々忍々うるせえ……
「あ、僕の作品もやっと推敲の段階なんすよ。近々、載せてもらえるっぽいです」
「北川さんの新連載読みましたよ。感想聞きたいですか?」
見ざる、聞かざる、言わざる、と心の中で唱えながら背を向けて歩いていたが、次の小藪の一言で、詩乃の動きは止まった。
「この近くにうまいかき氷屋があるんすよ。ジメジメした今の時期にピッタリっす。俺、奢りますよ」
(次回)
(マガジン)
