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「羽ころも、春ころも」#7

(画像: 大東京 亀井戸天神太鼓橋 昭和初期か 絵葉書 作者所有)


 
 新婚夫婦二人が初夜を過ごす処は、初めてみる自宅であった。


 駅から東方へ歩いてすぐの住宅街の中に、庭付きの二階建て一軒家が佇んでいる。庭には辺鄙だが小屋があり、家風呂も付いている。
 前の住民は老夫婦で、疎開先の大磯の別宅で余生を過ごすと決め売られていた物件を伊織が買った。

 玄関には木板で「逢坂」と彫られた表札が掲げられている。


 澟は、遣手婆あが教えてくれた「嫁の心得」を反芻していた。

「さあ、お前は大門をでたら妻ということをしっかり頭に入れとくんだよ。女は赤ん坊が生まれたら、乳をやらねばいけない。休む間もなく母親業が始まるんだ。妻だっておんなじだよ。家に着いたら、そこがお前の仕事場とくるからね」

「廓だと股広げてりゃおまんまが勝手に出てくるが、娑婆だとそうはいかないよ。お前がおまんまをこさえて、夜も旦那にお股を広げなきゃいけないんだ」

「さあ、家に着いた、どうするね……」


 婆あがいてくれて助かった。世間知らずでここまできた澟は、「ええっと、まずは火をおこします」と、廊下の奥にある三畳ほどのお勝手に入り、釜戸の側にあった薪を取った。
 すぐに婆あのツッコミが入る。


「違うよ!まずは旦那様が寛げるように外套や帽子を預かる、部屋着を出す。家では旦那様がゆっくり過ごせることを第一に動くんだ」


 はい、はいとうなづきながら、ああ、お父さんも確か家でふんぞりかえってお母さんがステテコまで着せてあげていたなあ、と今思い出した。


 伊織を振り返ると、玄関のたたきに腰掛けてブーツを脱ぎ、義足も外していた。

 ずるり、と鉄に繋がれた革の右脚が彼の太腿から抜け、ぺったんこに凹んだ茶褐色のズボンを見たとき、澟の思考が停止した。

 伊織は背後の気配に気づき、振り返った。

 吐息が聞こえるほどのすぐ側で澟が座っていた。彼女の目は、あったはずの右脚に注がれていた。


「……旦那様……」


 澟は伊織のズボンの太腿の先の丸みを撫でた。


「……こんなになってしもうて……」


 伊織は落ち着かせるように澟の手を払って、背を向け言い聞かせた。


「やめて下さい。そこまで深刻なものではありませんから」

 玄関に置いていた松葉杖を取って、廊下に上がる。
 一人なら這っていくのだが、健常者にその姿をみせるのはショックを受けるかもしれないと思った。
 背後から、澟が声をかけた。


「あの……っ、私、旦那様のお役に立てるよう努めます。ですがわからないことがたくさんあって……教えて頂けないでしょうか?」


 澟の健気な言葉が嬉しかった。すぐにでも抱きしめたい、と思った。
 その気持ちを拳で潰した。


「では、そんなに気構えないで下さい。普通でいいんです。やってもらいたいときはお願いします」


 伊織は軍服を脱ぎ、着物に着替える時も椅子に座ったり、壁に寄っかかっって重心を取り身の回りは全て一人で行っていた。


「日常動作の訓練になるので、手伝わなくていいです」


といい、布団を片手で担いで寝間に運び、お勝手の釜戸に火を灯した。

 澟は、これではうちのお父さんより、世の旦那さんより、家のことがやれているではないか、と思った。

 陸軍病院ではリハビリテーションで日常動作や、歩行訓練、走行訓練、登山、自転車まで義足をつけて行うと伊織から聞いた。


「ですから、悲壮にはならないで下さい。出来ることは自分がやります」


 強い方だと思った。
 初めて会った時から二年で、脚を失い日常動作が行えるまで訓練を積むことは容易には出来ぬ。

 その時、澟の腹の虫が切なく鳴った。


「お腹空きましたね。頂きものでも食べますか」


 気遣う伊織に向ける顔がない。


「あ、お稲荷さん頂いてるんだった、温めますね」


 恥ずかしさを隠すために澟は風呂敷から紙包みを取り出し、お勝手にかけていった。新しい手ぬぐいに包みから出したお稲荷さんを巻いて、沸かした湯の中へ入れた。

「これ持っておゆき。今夜向こうに着いたら忙しなくて料理も出来ないだろうから」

 婆あがお茶っ葉と一緒に持たせてくれたものだ。
 その通りだった。新居にやってきて、荷物も解いていない状態ですぐに調理はやりにくいったらない。

 温めている間、廊下に置いてあった「食器」と書かれたラベルの葛篭の中から新聞紙を掻き分けて湯呑みとお箸を取り出す。
 湯から手ぬぐいを取り出し、畳紙にじゅんわり甘醤油で味付けされたお揚げの握りを包み、お茶と一緒に持って行った。

 居間では灯火管制用電球のもとで、廓から頂いたご馳走の昆布巻きや、蒲鉾、高野豆腐の煮付け、ふろふき大根、鮭の切り身が並べられ、伊織が柿の皮を剥いていた。

 澟はその温かい光景に笑顔が漏れた。
 なんて立派な晩餐だろう。もうこんなに豪華な食事は食べられぬかもしれない。

「いただきます」

 二人で手を合わせて真心がこもった心づくしを一つ一つ味わった。

 婚礼では二人ともご馳走には手をつけないままだったので、ぐんぐんお腹に入る。
 澟は鮭を今年のお正月から食べていなかった。
 廓の飯は、きんぴら牛蒡に香の物、菜っぱの味噌汁に引き割りご飯が常だった。それにマグロやイワシ、鱒の塩漬けが入っていれば上等だ。

 濃い珊瑚色の魚の身は、この世に非る色のように思えた。
 幸福で、傲慢で、恍惚と官能をはらんだ、生きものの豊かさを感じる色。
 そうだ、慾望の色だ。生けるものが本能的に持つ慾の色だ。澟は鮭の色が特別に感じる意味がわかった気がした。

 一瞬、駅のあの女学生は無事に帰ったかしら、晩ご飯はちゃんと食べれたかしら、という想いがよぎったが、すぐに胸底に閉まった。


 家には水道が通っているので、井戸までお水を汲みにいかなくてよい。
 それだけでも労力が減り、ホッとした。
 澟は伊織が休んでいる間、お風呂の用意をしようと裏へ出て、あ、と衝撃を受けた。

 薪がない。


「え……えええ…………」


 お勝手の薪は使ってしまったし、焦りながら小屋の杉戸を開く。
 燃料に使えそうな埃を被った古新聞を見つけた。これだけでは心許なくウロウロしていると、家の廊下から木戸を開けた伊織さんの陰がみえた。

「あ、そうか」

 そう言って、引っ込んだと思うと、暫くして義足をつけた伊織さんが木の枝の束をいっぱいに抱えてやってきた。


「今、手持ちがこれだけです。燃料を探さないと」

「すみません……」


 わざわざ義足をつけてくれたことが申し訳なかった。明日は落ち葉拾いに行こう。

 風呂場の外にある焚き口に小枝を入れて、新聞紙にマッチの火をつけて燃やしてゆく。火が回ったら、祈る想いで太めの枝を入れていった。なんとか消えることはなく、お風呂の水は温まったようでホッとした。
 ここまでに一時間以上はかかる。伊織が帰宅した時に湯に浸かれるように準備を整えておかねば。

 澟の頭上の格子窓から、闇にふわふわと湯気が消えていった。
 伊織が湯船に浸かる水飛沫と、ため息が聞こえる。
 寛いでくれているだろうか。
 浴室に吊るされた傘をつけた小さな裸電球の寂しい灯が、かえって沈静してくれるかもしれぬ。

 忙しなく時間がかける廓でのご飯を頂いたら湯につかり、白粉を塗って化粧をしていた毎日がずっと遠くに過ぎ去ったようだった。先日まで自分もその中にいたのだが。

 澟が湯船につかる時もお湯は柔らかく温かった。
 お蘭姐さんから、貴重な石鹸を頂いた。
 今のドロドロにすぐ溶ける粘土の石鹸ではない、まだ豊かだった頃の化粧品メーカーが出した翡翠色の石鹸だ。

「パリジャンの香りらしいよ」

 そっと耳元で囁いて、妖しく微笑んだお蘭姐さんは、華宵の絵のように断髪でモガの格好をさせ銀座を歩いたら、道ゆく人が皆振り返るだろうというくらい、目鼻立ちがはっきりした美女だった。

 今は粘土石鹸も配給で配られないと聞く。大事に使わねば。

 ネルのネズミモチ柄の寝巻きに着替える。

 ネズミモチは黒い果実がネズミの糞によく似ていることから「ネズミノフン」と呼ばれている。
 この布を遣手婆あから貰った時は複雑だったが、ネルは温かいし、慎ましいネズミモチの柄は地味な自分にしっくり似合っている。器が同じような気がするのだ。今はこの寝巻きがお気に入りになった。


 髪をといて、ヒタヒタと暗い廊下を渡っていると、足裏から冷えてきた。もう冬がくる。ますます落ち葉や薪が必要になってくる。本当に燃料が手に入るか不安になってきた。

 そおっと寝室の襖を開けると、伊織は敷布団の上に座り、本を読んでいた。

 灯火管制用電球のか弱くおぼつかぬ薄明かりの下で、風呂上がりの伊織の横顔は湿気を帯びており澟はドキッとした。

 もう幾度も行い慣れた夜の儀式の前の男の顔は、悍ましい者や醜悪な者もあったが、多くは艶やかであった。そしてひょろっとしていたり、青白い顔をした体力がないような者でさえ、あの時は、何処からそんな力が湧いているのかというほど獰猛に澟の身体を貪り抱き骨抜きにした。

 建前の顔と、寝床の顔、凡そ男には二つの顔があり、それを見事に使い分け現世を渡っているのかもしれぬ。


 伊織の前に静かに座った。
 そして頭を下げて御礼を改めて伝えた。

「私のような者をお身請けくださり有難うございます。ふつつかでありますが、よろしくお願いいたします」


「澟さん」


「…………はい」


「あなたはこれから、どうしたいですか?」


「え?」


「私という男に抱かれたいですか。それとも、勤めとして感じておられますか」


「………………」


答えに戸惑った。


「正直に言ってください。夫婦なんですから」


廓にいたなら、なんとか抱かれようとするだろう。けれど今は……


「旦那様の欲求に従うのは、勤めの一つかと思います」


 伊織は澟を見つめた。
 澟の言葉には嘘はなかった。夜の営みもまた旦那様を満たし、子を作る勤めである。軍人になる子を。産める子を。
 ……子……果たして自分には出来るのだろうか。


「……そうですか。では、もう寝ましょう」


「へっ」


「私は今、肉欲はありません。欲求があるとしたら睡眠欲です」


「あの……旦那様……もしかして……」


「ああ、ちゃんとその機能はありますから。ただ、あなたがゆっくり休んで、日常に慣れてからでいいと思っています」


 澟は勘づいた。
 初めて会った時、この方は「本当に好きな人としか抱き合いたくない」と言っていた。
 それはもしかして澟を妻として迎えつつ、愛人は他にいる、というやつではないか。
 それとも、廓女は穢らわしいから抱きたくないとか。

 だとしたらなぜ自分を?

 ぐるぐると想いを巡らしていると、途端に意識がカクッと垂直に落ちる。
 澟も相当疲れていた。早朝から慣れぬ準備と行事、門出と新居でてんてこ舞いだった。
 正直そのまま眠れたら嬉しい。
 嬉しい……嬉…………


 寝息をたてている澟を伊織は薄闇の中みつめた。


「娼妓をしていると床以外に動くことがないから、筋肉も肌の弾力も落ちる」

「白粉をとったら浮腫みと隈で可哀想なものだ、歳よりずっと老いている、本当に籠の鳥みたいなもんだ」


 あの日の帰り道に早乙女先輩が言っていた。


 澟の寝顔には、深く隈が浮いていた。
 手足は白いのに、顔と首は白粉焼けを起こして不健康な黄褐色になっている。
 

 伊織は、長い指で澟の目の下をそっとなぞった。

 しばらく寝顔を眺めたあと、青いランプの下部を回し、消灯した。

 犬の鳴き声も、車の音も聞こえない。闇は何処までも闇のままだ。
 街は静けさに打ち、新居は沈黙だけが広がっていた。

 澟は初夜のこの日、「何もしない夜」を四年ぶりに過ごした。



(次回)

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