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「羽ころも、春ころも」#6

(画像:(震災前の東京) 銀座通り 大正期 絵葉書 作者所有)

 

 1944年 11月


 雄蝶、雌蝶が飛び交い、おりんと伊織の盃に瑞々しい御神酒が流れる。

 三々九度の合間、屏風の向こうでシゲ姐さんが三味線を鳴らしながら喜代唄を艶っぽく流してくれた。喜代唄は東北地方の祝い唄らしい。

 「シゲ姐さん」と皆いうが、六十そこらの白髪のおばあさんである。日清戦争の頃から千住遊郭の座敷に上がって芸を披露していたという。千住遊郭と共に三味線を鳴らし続けた伝説のような芸者である。シゲ姐さん相手だと、そこらの若い親分も頭が上がらない。

 三々九度の三枚の盃は、過去、現在、未来を表すと聞いた。

 伊織が飲んだ盃を、おりんが受け取り口をつける。

 おりんが歩んだ過去を、伊織が受け取る。

 伊織が進んでゆくこれからを、おりんも共に進んでゆく。


 盃を交わす間はぼうっとして、果たして自分が自分自身なのか、それともおりんを纏った別の人間が粛々と盃を持っているのではないか、と惑うくらいに意識が飛んでいた。
 盃の御神酒が、秋の陽光を反射してゆらゆら揺れている様が綺麗だった。

 その後親族固めの盃に進んだが、お互い両親はいないに等しい。
 おりん側は楼主の伝蔵と女将さん、伊織は負傷した時に親身に相談に乗ってくれた補導員の結城さん夫妻が代理で来てくれた。

 伊織は椅子にかけて婚礼の儀にのぞみ、黒色のM字胸章の上には黄絹の飾緒が垂れ堂々とした礼装であった。


「あれは13年式じゃあないか。大襟が高く襟元の幅も小さい。粋だねえ。」

と軍服に詳しい仲どんがうなっていた。

 
 宴会の席に新郎新婦が入った時、朋輩たちの桜のため息が聞こえた。

 この日のために、姐さんたちが奔走して白無垢を調達してくれたのだ。
 おりんは黒引き振袖で十分だと思ったが、千寿遊郭の三羽烏は厳しい時世の中を掻い潜って、前日に鶴と桜の正絹で織られた純白の打掛をおりんの目の前で広げてくれたのだった。


「おりん…………今日が一番綺麗じゃあないか」

「お前の晴れ舞台を目に焼き付けておかなきゃね」


 姐さんたちはいつもの男を食う白化粧と打掛は消え、みな慎ましやかな日本髪に櫛を一本さし、色留袖に薄化粧姿で「素人女」と見紛うばかりの淑やかさであった。所作も上品で深窓の奥様、といっても疑わぬほどだ。
 おりんは、この時のみなの素の美しさをけして忘れまい。


 宴が終わり、門出の時が来た。

 おりんは、婚約してから遣り手に教えてもらいながら縫い続けたもんぺに着替えていた。
 風呂敷には大事に仕舞っていた産婆学の教科書と、資格証明書をつめる。
 外の世界では使えそうにもない着物や櫛は朋輩たちに与えた。

 通りには、千寿遊郭から見受けが出るという噂が回ったのか他の店の者や登楼客らが見物で眺めていた。

 マントを羽織った伊織を見て、あれやこれやと詮索が進む。

「はあ、お相手は憲兵さんかね。おっかねえったらおっかねえ……」

「けどなかなかの色男だよ」


「見受けされたのはお蘭さんかな、曙かな?……ん?あんな子いたっけ?」


「ありゃあ、冴えなかった子だよ。番付けでも下の方の」


「こりゃたまげた。なんだってあれなんだい?もっといいのがいたろうに」


「ははん、憲兵なんぞお堅いところにゃ、あれくらいの芋子がいいかもしれないね……」


 姐さんや朋輩たちからお菓子やら、ハンケチやら、ガーゼやら足袋やら、帳面に鉛筆……沢山お祝いを頂いた。

「何か困り事があったら、手紙をよこすんだよ」

「すぐ側だから、会えるかもしれないね」


 手を握ってくれるみんなを眺めると、思い出が溢れてきて潤んでしまう。

 大門通りへと歩いてゆく間も、幾度も振り返って手を振った。

 一歩一歩小さくなってゆく千寿遊郭が、葉書ほどの大きさになり空が茜に御納戸色が混じる頃、いよいよ大門を出た。


 その時、源氏名であった「おりん」から、本名の「澟」になった。


 澟は門から外へはほとんど出たことがない。

 千住の街もからきしわからない。

 遊郭の表門と裏門には交番があり、遊女たちの逃亡を見張っていておっかない。この四年間外出したといえば、定期的に受ける検診の時と、一度婦人科病院に入院して治癒したこと、月に一度の公休に朋輩らと映画を観に行くくらいだ。外出時は必ず遣り手か下新が見張りとしてついていた。

 
 門外は未知の世界と言っていい澟にとって、なんでもない銭湯や電車風景、雑炊食堂、道ゆく人のリュックさえ目新しいものに映る。

 まるで子供のようにあちこちを見渡しながら伊織の後を歩いていたら、ゾクっと寒気がして「クシュン」と吹き出してしまった。

 伊織が振り返って「これを」と、マントを澟にかけた。

「あ……大丈夫です!」

「首元が寒いだろうから着てください。私は慣れてますから」


 伊織はまた歩み始めた。コートからは男の匂いがした。その匂いは酒気の混じった生緩い夜の匂いではなく、寒風の中を駆け回り続けてきたれっきとした労働の匂いだった。
 澟は伊織との距離が縮まるようそっとその香りを胸にしまった。
 伊織の胸には飾緒はなかった。


 千住駅に差し掛かった時だ。

 構内で何かが騒いでいる。けたたましく犬が吠えている。
 何かを察し、伊織は

「あなたは、ここで待っていて下さい」

と言い置いて駆けていった。

 澟は義足を見事に使いこなして悠々と走る様子に驚いた。傷病すると歩くだけで精一杯だと思い込んでいたが、伊織は苦しむ顔を見せずに日常動作をやってのけている。ブーツで覆っているから、一見するとわからないくらいだ。

「うわ、すご……えええ〜……」




 その様が格好よく、自然と伊織の後をついていってしまった。

 駅には女学生らしい若い三つ編みの女の子が赤ちゃんをおぶったまま下に俯いて立ちすくんでいる。その女学生に向かって、軍用犬であろうか、シェパードがしきりに吠えていた。

 床に置かれた鞄の中から、白米や煙草、かしわ、玉子まで覗いている。


 澟でも一目で闇だとわかった。
 伊織と同じ軍服の者が幾人かいて、取り締まりをしている。女学生の他にも何人かリュックや鞄の中身を調べられている者がいた。

 憲兵らが伊織に敬礼をし、状況を話している様子をみていると澟は胸がざわつき始めた。


「配給にはない物品ばかりではないかッ」


「貴様は、皆が耐えて一億一心で励んどる中、一人奢りおってッ!前線の兵士は飲まず食わずの人柱となって皇国を護って下さってるんだぞッ」


 轟々と吠えるシェパード以上の獰猛さで憲兵らは彼らを威嚇した。

 その恐ろしい声で、抱っこをされていた赤ちゃんが泣き出してしまった。

 赤ちゃんの甲高い鳴き声が澟の胸に突き刺さった。
 他の乗客は、関わり合うのを避けて目を背け各々の方向へ急いでいる。


「没収して、連れてゆけ」


 無表情のまま伊織が一言いうと、荒々しい軍服の男たちは少女や他の闇取引人を連行してゆく。彼らは女子供とて容赦はしない。

 伊織の横を通り過ぎた瞬間だった。
 それまで大人しく下を向いたままだった少女は、伊織の方に血走った憎悪の一瞥を向けた。その目つきは恨み以外何者でもなかった。


 そのほんの一瞬の人間の本性を見た時、澟は足元から冥土の冷気を浴びたかのようにゾクっとすくんだ。
 マントの下でガクガク震える。

 旦那様が、一般人にとって恐怖の存在であるということはわかっていた。
 けれど、憎しみの対象でもあることをまざまざと見せられ、言いようのないあらゆる感情が澟を襲った。

 
 赤ん坊の耳をつんざくような泣き声は構内中に響き、澟の胸にも不穏な木枯らしとなって吹き荒んだ。




(次回)


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