【愛でも喰らえ】#15 「秋来れば 恋も生命も 水色の」
まいった。
アファメーションなどぶっ飛ぶくらいに、打ち合わせは詩乃にとって「私ってもしかして作家になれるかも?」というほのかな期待をメタメタに打ちのめされる程ハードなものだった。
選評や槇野から「文章の基本が曖昧なところがある」という指摘は受けていたが、ここまで出来ていないとは。
一体何故賞に選ばれたのか不思議になるくらい、文法、文章力、語彙が未熟であった。「てにをは」も曖昧なところがある。
それらを一つ一つ紺野がわかりやすく指し示してくれ、おかげでノートと原稿は赤ペンまみれになった。
今から五ヶ月で治してゆくとなると不安になる。語彙力や文章力は数ヶ月で身につくようなものではない。未熟なままで世に出すのは心が千切れる思いだ。
「私、本当に何もわかっていなかったんですね……」
一通り修正が終わった後、詩乃はため息をつきながら苦笑した。情けない。
紺野は首を振って身を乗り出し、詩乃を見つめた。
「北川さん」
「はい?」
「あなたの『御宿マタギ料理帖』は、史上最高の作品になります」
「………………」
「なぜだか分かりますか?」
詩乃は戸惑いながら、ぎこちなく首を振った。
「あなたが、もうそれを書いてしまったから。決まったことなんです」
決まったこと……?
「何も怖れなくていい。恐がる必要もない。不安になったら、いつでも相談してください」
詩乃は紺野を見つめた。
「この作品は、きっと最高のものになる。北川先生なら、きっと出来ます」
作家を鼓舞するための編集さんの励ましであっても、それを真正面から言える男の熱量に眩暈がした。
「は……はい…………っ」
そうだ。もう始まったことなんだ。
赤ペンまみれの修正も、自分がこうありたい目標への長い途上のうちの一過程で、登り始めたら足を動かさねばならない。
落ち込むより今は手を動かそう。
加えて詩乃の疲労を洗ってくれたのは、クリームソーダだった。
ウェイトレスが運んできてくれた「みずうみ」は、まるで子供時代の思い出が蘇るような、淡くて儚いソーダ色だった。
クリームは大きな睡蓮型だ。周りにはベリーチョコが散らばっている。
ソーダは露草色から勿忘草色に淡くグラデーションをなし、思い出がどんどん消えてゆくような切なさと、その上の真っ白な睡蓮型のアイスが悲傷の記憶を昇華しているような印象を受けた。
紺野が優しく説明してくれた。
「春になると、本当の野いちごがのるんですよ。作中に出てくるんです。主人公が昔好きだった少女と苺摘みに行くエピソードが。睡蓮も印象的なモチーフとして出てきます」
ソーダは優しい喉越しだった。口に入れるとシュワシュワとすぐに溶けてゆく。詩乃は炭酸がそこまで好きではなかったのだが、身体に響かない微炭酸が美味しく感じられ、その馴染みやすさと淡さがよけいに儚さを強調させた。まるで戻れない子供時代の思い出のように。
アイスソーダには、指2本ほどのミニカードが添えられている。
中を開くと、作中の一文が綴られていた。
ー思いしもののいたずらに
なりにし今日の夢ならばー
詩乃は「みずうみ」を読みたくなった。喫茶店の注文から本への扉が開くなんて、なんと奥ゆかしい出会いなのだろう。自分へのお土産にしようと一文が書かれた小さなカードを、そっとノートに閉まった。
二人が喫茶店を出る頃には、街は呉須色の深い影をおとし、雨はいっそう強まっていた。
「北川さんは呑める方ですか?」
「実はそれほど……ビールなら一缶、お銚子は一本で十分な程です」
「では、ご飯の方がいいですね。ホテルはどちらに?」
「北千住です」
「だったら、上野がいいかな」
タクシーに乗ると紺野は携帯でお店の予約を入れた。馴染みなのか直前なのに予約が取れた。
「京成上野駅」と大きく書かれた出口の前で降りる。
上野公園に入る階段を上っていた時だった。三段目でヒールの先が滑った。
「あ……ッ」
やばい、転ぶ、と思った時、詩乃の持っていた赤い傘が飛んだ。
詩乃は強い力で背中を紺野に支えられていた。片手で抱き抱えるように引き寄せられ男の顔が額のすぐ上にある。
「…………大丈夫ですか?」
「は、はい…………」
紺野は自分の傘を詩乃に渡して、地上に落ちた赤い傘を拾いに走った。
持ってきてくれた時には紺野の黒のトレンチコートも、髪も濡れていた。
「すみません、編集長……」
詩乃は旅行カバンからタオルを取り出した。
「こちらで拭かせて下さい」
階段を登り、クスノキの大樹のもとで、紺野のトレンチコートを拭く。ああ、随分濡れてしまっている。なんて雨なのだろう。
詩乃が背中を丁寧に拭き、肩側に手をかけた時、こちらを向いた紺野と目があった。手が止まり雨音が遠のく。
「あなたも随分濡れてますよ」
「あ……私は大丈夫…………」
紺野は詩乃が持っていたタオルを「貸してください」と手に取り、無様に濡れたビスケット色のトレンチコートを拭いた。
そして、自分の鞄からハンカチを取りだし、雫が落ちる詩乃の頬を深緋色の綿でそっと拭った。
男性からこのような待遇をされたことのない詩乃はどうして良いのか分からず硬直したままだった。
後毛から雫が落ち顔がみるみる紅色にほころび始める詩乃の戸惑う瞳を紺野は見つめた。その奥に一体何を想っているのか想像さえも及ばぬ程無表情にもみえ、冷酷にもみえ、哀しそうにもみえた。緊張に堪えられず詩乃は顔を背けた。
「…………すみません、ありがとうございます…………」
「行きましょうか」
雨音は強く園内に連なる提灯の灯りも心細い。
人通りは少なく、宵の上野の森の中で行き場のない想いだけがこの空間に取り残されているようだ。
二人はいくつかの灯籠が黄檗色に傾れる古い日本家屋へ足早に入った。
「大変な雨の中どうぞお越しくださいました」
韻松亭は、創業百五十年を迎える上野公園とともに生きてきた豆菜料理屋である。
すぐに和装の店員さんが脱いだ靴を靴箱に入れてくださった。拭きタオルを貸してくださり、心遣いが温かい。
「ちょうど個室が空きましたので、そちらへ」
案内された座敷に入ると、欄干から上野公園の映えた緑樹が一面に眺められる風情ある造りである。今の時刻では外はぼやけて暗いが、雨音を聴くのも一興の処だ。
二人は向い合わせに座り、運ばれてきたおから汁を飲んだ。白味噌味に麩が入った熱い汁は冷えた身体を芯から癒した。じんわりと甘い豆の滋養が細胞まで染み込み、やっと一息つけた心地がした。
「いやあ、降られましたね」
「はい。外だと大変ですが、ここのような味わいのある屋内から聴く雨音は素敵ですね。このおから汁も美味しい……」
「ええ。本当に」
「……私、東京ってもっとおっかない処だと思ってました」
「無理はありません。人が多いのは都民でもうんざりしますから。定期的に自然の中に入ってリセットしないと、雑音や過度な装飾に心身が壊されると思います」
「ええ……でも、不思議です。愛媛にいる時より、ここにいる時の方が雨音が貴重なものに思えてしまう」
お店の人がお鍋に鶏のもも肉と大きく輪切りに切った玉ねぎを焼き始める。その炙った香りが部屋に立ち込めいっそう食欲をそそる。
「どうぞ」
紺野が勧めてくれ、詩乃はお猪口をとった。
小さく乾杯をして、口につけた日本酒はじんと舌に程よい塩梅の温度で染み渡る。とりすきが作られる香ばしい匂いが肴になる。
鍋は割下が入り、高温でジュワッとあぶくだった。出汁とお醤油のまろやかな香りが広がる。
やがて絹のような湯葉もふんだんに搭載され、大ぶりのクレソンがどっさりと入る。卵をかき混ぜてくれるのもお店の人がやってくれた。
詩乃が湯葉を口に入れると、想像以上に柔らかく口当たりがクリーミーで、薄味の割下と溶け合ってとろとろと胃と入った。鶏肉にも十分おつゆが染み込み、卵と一緒に口に流し込むとホロホロの柔らかいお肉に甘辛いおつゆが沁みてご飯が欲しくなった。
ハフハフと食べている詩乃を見て、紺野が笑った。
「よかったです。美味しそうに召し上がって頂けて」
「はい、生き返るように美味しいです!朝から緊張してご飯も食べれなかったから……」
「みんな初めての打ち合わせの時は硬直しています。けれどきっと大丈夫」
詩乃は、また違った意味での緊張だったのだが、美味しいとりすきを前に一気に心が緩み、クッタリといい具合に味が沁みた飴色の玉ねぎがトロリと口に入ってゆき溶けてゆく甘さにただただ幸せを感じるのだった。
箸休めは生湯葉のお刺身だ。
毎日職人さんが朝その日に出す分を作ると聞き、「なまもの」の湯葉の冷えたツルツルの食感を楽しんだ。
お店の人が竹に入ったつくねを持ってきた。
次は生姜汁につくねを入れたお鍋である。
どんどん出てくる量に食べられるか不安になったが、綺麗に斜め薄切された若竹色の美味しそうなネギが大量に放り込まれるのをみて、これは食べなければ後悔すると思った。
いざ口に運ぶと、さっぱりした生姜の味わいとネギの爽やかな甘みと辛味が組み合わさり、どんどん胃に入る。まるで薬膳のように身体の細胞全体がが喜んでいるのがわかる。
「いい食べっぷりですね」
そう笑う紺野も満足そうにつくねとネギを堪能している。
「次はこのスープで雑炊か、鶏五目になりますがどちらにしますか?」
詩乃はそろそろお腹がいっぱいになってきたのだが、雑炊を食べたい欲望の方が優った。
それにしても、卵というのはなんて平和な色なのだろう。鶏のエキスと生姜とネギの薬味が効いたスープに柔らかいご飯とたっぷりの卵が回し入れられる。お米がつるつると瑞々しくて美味しい。ふう、熱気を帯びて汗ばんできた。
紺野が口を開いた。
「一つ質問してもいいですか?」
「はい?」
「授賞式で初めてお会いした時、よく目があったのをご存じですか」
ゴクン、と卵汁を飲み込む。背中からゾクリとした。触れてはいけないことを決定的に言われた気がした。ほろほろと小鉢の中のお米が崩れてゆく。
鍋からは湯気が立ち、その熱さと満腹感で思考が緩む。
「…………はい…………」
目を伏せて小声で答えた。恥ずかしさと、惑いと、食後の微睡みの中で正気を保とうとするが、難しい。湯気で自分の顔を隠してしまいたい。
「…………初めてお会いした時から、なぜか編集長が気になってしまい、目で追ってしまいます……気持ち悪かったら、ごめんなさい…………」
己の本能を見抜かれた気がして、失礼を詫びる思いだったが、今自分はとんでもなく淫らなことを伝えているのではないか。だとしたら笑ってほしい。もしくは無視してほしい。まだ会って二度目だ。こんなに美味しいもので心がいっぱいの夜を壊したくはない。戯言だと流してほしい。
「私も、貴方のことが気になっていました」
思ってもみない言葉に詩乃は目を見開き、紺野をみつめた。
湯気の奥の紺野は懐かしそうな瞳で、詩乃を一途に見ている。
「だから今日は、お会いできてとても嬉しかったです」
詩乃は箸を置いた。暫く黙ったあと、震え張り裂けそうな胸の内がとろとろと溢れ出た。
「…………編集長、いえ、紺野さん。私、紺野さんのことが」
「待って」
湯気は冷め、ただ目の前にいる想いびとの姿がもう手の届く寸手のところだった。
「私は既婚者です。あなたの希みに応えられません」
(次回)
(マガジン)
