「羽ころも、春ころも」#5
(画像:(大東京)大衆的歓楽街浅草六区の賑わい 星雲堂出版部 絵葉書 昭和10年代頃か 作者所有)
逢坂伊織は唖然としておりんを見た。
「産婆になりたいんです」
確かにこう聞こえたが。赤線には詳しくないから燈下で生きる女性が年季があけた先何処へゆくのかは知れぬ。
だがせいぜい小さな料亭や、屋台、または女将となって座敷を構えるのかと思っていた。又は再び傾城や酌婦として身を沈めるか。伊織は廓女はその筋しか生きる術を知らぬと思い込んでいた。
「それは……ご立派です」
驚きと本心で返したが、りんは複雑そうな表情を一瞬見せた。馬鹿げたことを、と思われたに違いない。
「そりゃ、どれだけ釣り合わぬことかは承知しています。やけど、胸に燻らせたまま、終えるわけにはいきません」
やはり西方の韻が入っている。
部屋の外から三味線の子気味良い調子に合わせて座敷遊びの賑やかな歓声と笑い声が聞こえた。
「国はどこですか?」
「阿波です。ここでは珍しいかもしれへんね。多くの子は東北からきてますから」
笑って答える凛が抱えている教科書は、もしかして……
「産婆の学校に通っていたのですか?」
「……ええ。産科で働かせてもらいながら、授業を受けていました。資格が取れて、さあこれから、というときに父の屋敷と蔵が全て焼失してしもうて。借金で手が回らんようになったんです」
「蔵……」
「藍商人やったんです。経営が下がる一途だったんを、あちこち手広く商売広げて、借金しての繰り返しで。融通がきかん質でしたから人も離れていって」
「ほやけど、学校に通わせてもらえたのは、ほんまに感謝しとります。子がうち一人で、ぎょうさん膨らんだ負債を返さんかったらあかんかった。『うちは死んだとみなにいってな、うちは一人でも生きていけるから』って親にゆうて、判人はんに出来るだけ遠いところで奉公したいとお願いしたんです。連れてきてくれたんがここでした」
伊織は目の前の花魁を誤解していたことを恥じた。みな好き好んでこのような処に沈むのではない。多くが家族の為に我が身を犠牲にしているのだ。
枕業が長いと身体も生き方もそれに慣れてしまうものが多い中、りんが堅気の頃に抱いた夢を捨てずに、いつか叶える日をずっと耐えて待ち続けていることに新鮮な感動を覚えた。
それはまるで、泥沼の中に咲く真っ白な睡蓮のように尊く儚いもののように思えた。
二年前、桂庵に連れて初めて千寿遊郭を訪れた時、りんには七百円の前借金があった。
田舎娘の平均以下の顔立ちであったりんには、上々の金額であった。
加えて桂庵への紹介料、衣装代、髪結代、化粧品代、装飾代、水揚げの時に皆に振る舞うご馳走様等が加算される。
そのうえ遊郭で働いている間の着物や下着、髪結、化粧、食事、雑費は全て自分持ちなのだから、合わせて三百円は追加されているだろう。病気の時は薬代、入院費も加わる。廓にいる限り、雪だるま式で借金は増えるのだ。
千円の借金を六年契約で返してゆかねばならないが、姐さんたちをみていると、六年で返し終えているものなどおらず、二年延長したり、他所に鞍替えし借金を返済し続けてゆくのが常であった。
贔屓も持てぬ自分が外へ出れるのは、あと六、七年はかかるかもしれぬ。
それでもいい。心の中は自由だ。夢だけは誰にも渡さぬ。そう秘めてなんとかかんとか男の相手をしてきた。
「おすもじでもとりますか?お腹減りましたでしょ」
りんが教科書をしまって立とうとしたのを伊織は止めた。おずおずとだが、思い切って提案した。
「あの、他にも何か……私でお手伝い出来ることがあればお教えします」
「え……?」
翌朝。
洗面所で早乙女が顔を洗っていると、逢坂とりんが入ってきた。
「お、いい男になったじゃないか」
寝不足で隈を作りやつれている逢坂をみて、早乙女が揶揄う。
手拭いを早乙女に渡したお竜姐さんもこっそりりんに耳打ちした。
「聞いたよ。どうだったえ?初筆の感触は」
りんは曖昧に笑うしかなかった。
二人は夜中顔を突き合わせて「妊娠」「分娩」「産褥」について教科書の振り返りをしていたのだから。
しかし、お互い有意義な夜だった。
陸軍式であるが、一応の医療処置について学んでいた逢坂にとってもまず学ぶことができない分野を知れた興味深い時間だった。
教科書を見ずに一通り学んだことを手を使いながら説明出来るおりんをみて、随分反芻してものにしている、いざ実践でも臆せずやれるだろうに、と内心感心した。
りんも、手さえも握ってこなかった逢坂を「紳士」だと思った。
こんな方のところへお嫁にゆける人は幸せやなあ……
味噌汁と香の物、ご飯を食べている時も、将校二人の品の良さにはお竜もりんも惚れ惚れした。
「見てごらん、沢庵が美酒のゼリィのようじゃないか」
お竜の囁きにりんも頷いた。登楼者が労働者や職人の比重が多い千住遊郭は、お客の「早食い」「犬食い」が当たり前でそれに慣れてしまっていたから、山の手のさぞ大事に躾られたであろう彼らの所作は女どもにとって憧れなのだ。
大玄関で早乙女とお竜が衣衣の別れに熱く抱擁している一方で、逢坂とりんはおぼこ同士のようにうまく会話も出来ずにいたが、凛は心から頭を下げた。
「逢坂様、昨夜は本当にお相手してくださりありがとうございました」
「おりんさん……でしたか」
「はい」
「お仕事、叶えてください。貴方のご活躍を祈念します」
りんははにかみながら返した。
「逢坂様……ご武運を。またここに来てください。きっと帰ってきてくださいね。お待ちしていますから」
逢坂は笑って答えた。
「はい。帰還した時に、またきっと」
思ってもないことを言ってしまった。
ここには用はないのだが。
しかしまた、りんさんに会いたいと素直に感じた。
りんは初めて逢坂が打ち解けた笑顔を見せてくれたことが嬉しかった。新緑が揺れる薫風のような爽やかさで、まだ若々しい青年だ。
門まで送って、お互い手を振った。
お竜姐さんがびっくりして呟く。
「アンタがそこまではしゃぐなんて珍しいねえ」
「お竜姐さんだって、いつもツンツンしてるのに、早乙女様には健気に尽くされるんですね」
「そりゃあ、身体を張って日本を守ってくれる軍人さんにはサービスするさ。公休日の大勢相手はウンザリするが、一人なら楽なもんさね……またいつ会えるかわからないからね」
早乙女さんは南洋に派兵されるという。
朝焼けにぼやける将校二人の背中は、逞しく凛々しかった。
毎日のようにラジオや新聞では日本軍の勝利が伝えられ、二人は大活躍をすると信じて疑わなかった。
二週間後、初めて米軍機による日本本土への空襲が千住大橋の向こう、荒川区に落とされた。
そしてこの年六月、ミッドウェー海戦の大敗によって、これまで進撃を続けてきた日本軍は敗退を重ね泥沼の中に陥ってしまう。
当時の銃後の庶民はもちろん、お竜や凛もこれからふりかかる長い窮乏生活のまだ序盤にいた。
(次回)
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