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【愛でも喰らえ】#11 「道を云はず 後を思はず 名を問はず」

 
 猫は一日のほとんどの時間を寝て過ごす。

 詩乃は起きたばかりのチャップリンに土下座をして訴えた。


「ごめんね、チャップリン。今日これから私は長野県の八ヶ岳に行ってきます。このお家に帰ってくるのは明日の五月六日、午後ニ時くらいになります。お土産買ってくるから、お留守番出来ますか?」


 旅行カバンを隣に置いて、粛々と幾度もお留守番お願い致します、という旨を説明する。

 対してチャップリンはおそらく聞いてはいまい。お気に入りの丸座布団の上であくびをしながら、うとうとと目を閉じて朝日を燦々と浴びている。

 
「明日のニ時ごろ帰ってきますから!何卒お願いします!」


 詩乃はチャップリンにははー!と頭を下げ、「お水よーし、ご飯よーし、温度もよーし」と、いくつかの箇所に置いてある自動給餌式の水やご飯、エアコン設定温度を確認した。


 GWの東京は初夏日和だ。
 早朝の六時、保冷袋に作ったおかずを入れる。

 詩乃はジーンズにベージュの薄手カーディガン、アシックスのスニーカーというラフな格好である。昨夜散々迷い迷って、ワンピースやらキャミソールやら引っ張り出したが、結局最後に手に取ったのはオシャレからは程遠い動きやすさを重視した格好であった。


 ピンポーン、とチャイムが鳴った。

 ビビーンと交感神経が発動する。初めての旅行が始まった。


 玄関の引き戸を開けると、白いTシャツの上にネイビーのカーディガンとジーンズ姿の紺野が笑って立っていた。

 
 うわ、若い、足が長い。
 いつも仕事用のスーツやクラシカルな姿しか見ていなかったので普段着姿にビックリした。そうだ、朝の紺野さんを見るのは初めてだ。夜に会う紺野は年相応の落ち着きを醸し出しているが、太陽の下で会う彼はずっと健康的で精悍だった。犬に例えると、シェパードっぽいと思っていたら、実はレトリバーでした、というほどの変幻ぶりだ。


「おはようございます」

「おはようございます、今日はよろしくお願いします」


 何だか照れてしまう。ジーンズ姿の紺野をみて、「きっとモテただろうなあ……」とひっそり感じた。モテ度ゼロでここまで地味に生きてきた詩乃にとっては初夏の日差しのように眩しい。眩しすぎる。

 荷物を運びながらケージの中で横たわっている少し緊張気味の乙女さんをみて、紺野さんは様子を伺った。


「ペット専用のレンタルカーだから自由にケージから出しても大丈夫だよ」


 紺野の心遣いに詩乃はホッとした。
 乙女さんにとっては初めての旅行なので、抱っこをした方が落ち着くもしれないと思っていたのだ。


「チャップリンは?」


「お留守番をお願いしました。猫は慣れた環境が一番安心するので、一泊二日ならお家にいた方がストレスが少ないので」


「猫ってお留守番出来るんだ」


「成猫で健康体なら。あと、性格にもよります。飼い主が見えないと泣き続けるような猫さんなら連れていったかもしれませんが、チャップリンはあの通り、我が道をゆく殿なのでお土産をたくさん買ってこようと」

 詩乃は車の後部座席にドライブベッドを固定し、乙女さんと乗り込んだ。
 小型犬は酔いやすいため、酔い止め薬を飲ませてある。

 二人と一匹を乗せたミニバンは、早朝の日光街道から出発した。

 首都高速に入ると、吸い込まれるようなトンネルの中、まるでアトラクションに乗っているかのようにヒュンヒュンと車が滑ってゆく。詩乃は近未来のような空間にワクワクしてきた。


「紺野さん、帰りは私が運転してもいいですか?」

「詩乃さん、運転出来るの?」

「地元は車社会ですから。免許証も持ってきてます」

 動物病院に勤めていた時、往診や動物の移動の運転は詩乃が担当していた。
 ガードレールさえない車一台が通るのでいっぱいいっぱいの危険な山の中や、ドライブコース、運転マナーが悪い四国の土地柄、煽り、高速スピードや突然の車両変更に鍛えられてきたので、関東にやってきてみんなが美しく運転している様子にビックリした。

 乙女さんは初めての体験に緊張しているものの、詩乃の胸の中で大人しく抱かれている。詩乃は「乙女さん、山に行ったらお散歩しようね」「眠かったら寝てね」と撫でながらリラックスできるように話しかけた。乙女さんの潤んだ瞳と、ミルクティーの毛並みを見るたびにこちらの心もほぐされる。


 紺野さんはミラーで詩乃たちの様子を見ながら伝えた。

 
「知らないことがたくさんあるね。今日はゆっくり聞ける」


「あ、私も聞きたいことがたくさんあります」


 ほんの数時間の逢瀬では、ただ会えることだけが嬉しくて、お互いのことを話し合えるまで時間が足らなかった。
 詩乃が知らない紺野の過去や嗜好について今日はたくさん聞けるチャンスだ。


「では、どうぞ。私も同じ質問を詩乃さんにしましょうか」


「お誕生日はいつですか?」


「2月です。28日。詩乃さんは?」


「11月2日です。では、学生の頃部活は何をしていたのですか?」


「剣道部と柔道。…………ですが、途中でやめてしまった」


「合わなかったんですか?」


「いや、ずっとやりたかったんです。武道は小さい頃から大好きだったから。高校の時に母親が癌になってしまって、父親が宮大工で激務だったので私が介護することになったんです」



「……そうだったんですか…………」


 意外だった。大きな出版社に入っているから、子供の頃からエリートコースを歩んでいたのだと安直に思っていたのだ。


「お母様は……」


「進行が早いこともあったし、母親は延命治療を拒否していたので、一年ほどで逝ってしまいました」

 
「……すみません、言いにくいことを教えてくださって」


「いやいや、全く、まったく。いつもカラッとしてたし。意識が昏迷するまで冗談ばかり言ってたので、早死のイメージが母のおかげで払拭しました。歌謡曲が好きで毎日聴いていてね。私も昭和歌謡曲をほとんど覚えてしまっているんです。『アカシアの雨がやむとき』や『ルビーの指輪』とか、好きだったなあ。詩乃さんは部活は何をしてたの?」


「中学の時はバスケ部と、高校の時は帰宅部です」


「帰宅部?習い事や塾か何か行ってたの?」


「いえ、動物病院でバイトしていました」


「偉いなあ、その頃には仕事にしようと思っていたわけだ」


「うーん、ただ生き物と触れ合うのが好きで、近所の動物病院が人手不足と聞いて、いろんな動物にあえて、お世話できるならいいなってぼんやり思っていただけで……紺野さんはなぜ出版社に入ったんですか?」


「ちょうど就職氷河期で、将来像は決まってなかったんです。数うちゃ当たるであらゆるところにエントリーするも、どうもしっくりこなくてね。大学生の頃にバイトしていた出版社の先輩が誘ってくれて、そのまま入ることにしました」


「え……では、なりたくてなったわけでは…………」


「うん。なかった。編集者なら恩田君の方がずっと優秀です。私は会社に入ってやっと仕事の面白さがわかってきました」


 紺野は何も言わないが、実績があって優秀でなければ編集長にはなれまい。結果的に編集者は適職だったのだと詩乃は思った。


「では、趣味は何ですか?」


「料理です」


「あ、即答ですね。やはり」


「あと、武道。週末に師匠のもとに通ってます。やっと青春を取り戻していますね。この年で」


「おおいに青春しましょう。他にはあります?」


「他は……ええっと……大きな声では言えませんが園芸です」


「えんげい?何か演じるんですか?」

 詩乃はうっかり「演芸」と勘違いしてしまった。


「いえ、植物や花を育てる方です」


「へっ」


「苔が好きで、最初はテラリウムや苔玉を作っていたんだけれども、やがて盆栽に入って、現在は小さい庭に季節の花を育てることに夢中になってます。今だとバラの開花が楽しみです。時を忘れて土いじりしています」



「意外でした……バラ……お世話されているんですか」



「恥ずかしいので秘密にしておいて下さい」


 紺野は苦しまぎれに自分の水筒を手に取って片手でくいっと飲んだ。詩乃にも水筒を用意してくれており、中には冷えたグリーンルイボスティーが入っている。


「紺野さん、少女マンガも読まれているんですね。以前本を紹介くださった時ビックリしました」


「はい、好きです。70〜90年代の少女漫画が特に。詩乃さんの趣味は何ですか?」


「ええっと、動物のお世話と、最近ジョギング始めました」


「おや、健康的」


「私も遅い青春を取り戻したいと。実は高校の時、バスケを続けようか迷って帰宅部を選んだこと、ちょっぴり後悔しているんです」


「ああ、わかります。学生時代の後悔って尾を引きますよね」


「はい。今になってね」


「そんな詩乃さんに。はい、どうぞ」


 紺野は前を向いたまま、後ろの詩乃に白い紙袋を差し出した。
 走り書きで「北川詩乃様」と書かれている。


 「何ですか?」

 中を取り出して、詩乃は息を止めた。

「………………」

 紺野が尋ねる。

「何と書いてありましたか?」


 遮光器土偶のキーホルダーの裏には筆で力強く、それでいて一文字一文字丁寧に書かれていた。


「…………『秘すれば花なり』」


「世阿弥かあ。相変わらずだな、福田先生は」


 紺野と一緒に笑ってしまったが、やがて涙が出てきた。
 紺野は前を向いたまま伝えた。


「福田先生から頼まれたんです。新人の作家には私から渡すようにって。挫け折れそうになった時に渡してくれ、と」

 詩乃は桜の夜を思い出した。
 紺野は見極めて渡してくれたのだろうか。詩乃はテレビ越しに見た豪快に笑う福田喜子先生の姿と、選考で拙作を推してくださったことを思い出した。不思議だ。お亡くなりになって半年近く経つのに、福田先生は呵呵とした笑顔で未確認生物について今も熱く語っていると思ってしまう。コメンテーター席に先生がいないのをみてやっと、ああ、そうだった、と事実を再び知るのだ。


「福田先生みたいになりたいです……」

「ははは!ピラミッドと宇宙人の関係を解明しますか」


 秘せば花なり。

 機が熟すまで待つこと、芸を寝かせておくことの大切さを伝えた世阿弥の言葉である。

 自分の代表作がデビュー以来作れていない詩乃にとって、「それで良い、焦らなくても良い」と福田先生が笑って伝えてくれているように思えた。

 人間としても、作家としてもまだまだ未熟な自分は、学ぶことがたくさんある。先生のように、天衣無縫にいつまでも純粋に生きることを楽しんでゆけたら……

 窓の風景は、ビルがなくなり深くこんもりとした山々が広がってきた。
 自然、ことに眼前に聳える山々をみるとざわざわとしてくる。山間部で育った詩乃にとって、山は自分の中の野生が目覚めるところだ。生き物として人間が生態系の上位ではなくなる恐ろしい場所でもあるし、魂が還ってゆく場所でもある。

 青空の下、もくもくと雲のように有機的に広がる緑濃ゆい山並みを眺めながら、今日は自分の心の赴くまま素直になろうと祈った。



(次回)


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