【愛でも喰らえ】#14 「さしかざす 小傘に紅き 揚羽蝶」
羽田に飛行機が着いた時には小雨が降っていた。
二日間のお休みを頂く前日まで、休日返上で八連勤していた為か飛行機に乗るとすぐに寝入ってしまい気付けばすでに東京に着いており乗客が降り始めていた。
寒そうだな……と雨粒で濡れた小さな窓から滑走路を眺める。
黒のニットワンピースの上にトレンチコートを羽織い、小さな旅行カバンを持ってゲートから出た。
時計を見ると午後一時二十分。
携帯が震えた。
槇野からだ。
「槇野さん?お疲れ様です。今羽田に着きました。時間通りそちらへ向かいます……って、どうされました?」
受話器から聞こえる槇野の声がか細い。いつものカラッと軽妙な口調とはうって変わって声が掠れて重そうである。
「北川さん……申し訳ありません。ヘックシュ!じ、実は今朝から、なんだか調子悪いなーと思ってお昼休憩中に病院に行ったら……インフルエンザA型の陽性が出てしまいました……」
「ええッ!大丈夫ですかッ」
「今はそこまで重症ではないんですが……これから重くなりそうな予感が……」
「予感じゃなくて、インフルのA型って重症化しますよ」
「ヒィ!恐ろしいこと言わないでください。グシュッ!僕、苦しいのや痛いの苦手なんすよー……」
「数日間は絶対安静ですね、今日の打ち合わせはお休みしましょう」
「はい、本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません……そのまま私は帰宅させて頂きますが、編集長が引き続き打ち合わせに入りますので、北川さんはそのまま出版社へお越しください……グォホッグォホッ!」
「…………………………」
「あれ?ズズッ……北川さん?もしもし?」
「あ、もしもし、聞こえています」
「本当に申し訳ありません。編集長には愛媛からせっかくお越しくださっている旨は伝えておりますので、美味しいもの食べてきてください……クシュッ!」
「は、はい、槇野さん、くれぐれもお大事になさってください。病中は水分補強はしっかり摂ってくださいね」
段々と症状が酷くなってゆく槙野を心配しつつ、携帯を切った。
「………………………」
詩乃は暫くぼんやり立ちすくんでいた。
窓の小雨の白くぼやけた世界では次に飛び立つ飛行機が滑走を始めた。
憂虞の念で目を閉じる。
槇野さん……いて欲しかった……
あの人と二人きりでは、打ち合わせの内容が頭に入らない確率が高い。
自販機でミルクティーを買い、ベンチに座る。
授賞式に頂いた名刺を取り出した。
「月刊movement 編集長 紺野史緒」
あれから一体幾度見返したことだろう。けれど今は抱えている邪念を追い払おうと自分に言い聞かせる。
私は一体なにを期待しているの?
編集長さんとは、前回ご挨拶をしただけ。
今日は仕事の打ち合わせでお世話になるだけ。
作家と編集者というだけで、それ以外は何の関係もない。
相手は業界人で、海千山千を越えてらっしゃるし、私は一般人で田舎でのほほんと暮らしている獣看護師。
うん、何の関係もない。何も。何もだ。
ただの仕事、ただの仕事、ただの仕事!!
アファメーションを幾度も繰り返し正気になるよう努めた。ああ、確かブッダが瞑想しているとき欲望が邪魔するんよな。。。ブッダはどうやって追い払ってたんやろ……
同時に、前々から考えていた将来のことも頭をもたげた。
今春、詩乃の勤務先では新しい医師一名、看護師三名が入ってきた。
長らく人手不足で悩んでいたが、どの看護師も優秀でゆとりができた。
ここで一旦充電しよう、と思った。
看護師の仕事が嫌になったわけではない。ただ、四十路を前にしておそらく結婚もせず家庭も持たないだろうな、と予感はしている。生涯ずっと地元で暮らしてこのまま老いてゆく前に、身体が健康なうちに一度外に出てみたいと思っていた。
海を超えた知らない場所で、勉強したいという気持ちが起こっていた矢先、趣味で作っていた小説が受賞した。そのとき、人生の前半戦が一つ終わったのと同時に、これからは自分が棺桶に入る前に後悔しない生き方をしたいと切に感じた。
おそらく最後の冒険だ。新しい世界にチャレンジするには。
リムジンバスに乗り北千住まで出て、地下鉄に乗り換える前に街を少しだけ歩いた。ホテルは空港までバスで三十分で行けるこの駅で予約をしている。
飲み屋街だろうか、昭和のような佇まいの狭いお店がドールハウスの本棚のようにみっしりとひしめき合っている通りを見つけた。道幅も店々も小さく立て付けられている看板がどれも懐かしい。まるで一九六〇年代にタイムトリップしたような雰囲気を醸し出している。
出版社の最寄駅に着いた時には雨が止んでいた。
しかし今日は一日中雨という予報は変わらない。
気合いでヒールを履いてきたが、ブーツでも良かった。いや、スニーカーでも良かったかもしれない。何をお洒落して、しっかりメイクまでしているんだろう。
詩乃は出口に出る階段の踊り場で、ティッシュを取り出し、唇に塗ったローズ系のルージュを拭いた。
約束の五分前に出版社に着き、受付をすませる。
逸見社の受付は着物姿の所作の美しい女性が三人応対にあたっている。「こちらでお待ちください」と示されたロビーの待合室でソファに座った。
精神統一……と先ほどのアファメーションを繰り返そうとする前に、警備員が立っている奥の豪奢に彩られている幾つかのエレベーターから出てきた人々に混じって、見覚えのある男の顔をすぐに見つけた。
見つけたと同時に、男も詩乃を見た。
男の瞳が緩んだ気がした。
ああ、だめだ、目が離せない。
詩乃は席から立ってお辞儀をした。斜め四十五度位でいいはずが、九十度位へり曲がって最後の精神統一をした。
せめて打ち合わせ中は仕事に入魂するために。
「こんにちは。わざわざお越しくださったのに、槇野が欠席でご迷惑をおかけします」
チェックのシャツに黒のセーター、その上にグレイのジャケット、下は深みのあるモスグレイのパンツとカジュアルな黒の革靴姿の男はショルダーバッグをかけ、黒いコートを持っていた。
「こんにちは。槇野さんから連絡がありました。罹患したばかりとのことでしたが、鼻声と喉が痛そうでした。今日はよろしくお願い致します」
「今日の帰りの飛行機は何時ですか?」
「あ、ゆとりを持たせて明日の正午のフライトにしました」
「よかった、ゆっくり夕食はご馳走させて下さい。その前に打ち合わせしましょう。お話したいことがたくさんあるので」
紺野は出版社の側にある喫茶店を案内した。
小さなビルのニ階にあり、廊下は竹久夢二の「大黒屋」や、ロートレックの「ムーラン・ルージュ」、ミュシャの「黄道十二宮」らが大きな額に収められて飾られている。
扉を開けると昭和の純喫茶のような大きなソファが個々に備え付けられ、天井には四角形のシャンデリアが上品な煌びやかさを放っていた。
ソファは区切られており、編集さん同士や、作家さんと編集さんと思われるお客さんが所々でコーヒーカップと共に話し合いをしている。
入り口のすぐ側にはやはり大きな黒猫が描かれたテオフィル・スタンランの「黒猫一座の巡業」のポスターが額に収められており、その横には栗色とゴールドに輝くビクターのフロア型蓄音機が磨かれて調度されていた。
新聞紙エリアと、書棚エリアもあり、雑誌や写真集のほか函入りの古書や文庫が丁寧に、それでいて誰でも手に取りやすい心遣いで並べられている。
紺野は窓際のソファに案内した。
詩乃は純喫茶という場所に憧れがあった。ここはその中でもハイクラスなところだと思った。ウェイトレスが昔の英国メイドのような黒のワンピースに、シャンティレースの繊細な装飾を肩にあしらった真っ白のエプロン姿である。二人いたウェイトレスのうち一人はマガレイト、もう一人はラジオ巻のように髪をまとめており、ヘア装飾はなく清潔さを感じる。
「好きなものを選んで下さい」
紺野が差し出したメニュー表には高そうな様々な種類のコーヒーの名が並べられてある。次のページをめくるとソーダやパフェのお品書きがあった。
これだ、と思いクリームソーダにした。
今の季節にどうか、という疑問より、このような場所だからこそ普段頼まないものを選びたかった。
メニュー表に釘付けの詩乃をみて紺野はPCの準備をしながら微笑んだ。
「ここのクリームソーダ、美味しいですよ。名前も面白いでしょう」
「はい。『銀河鉄道の夜』、『黒猫』、『緋色の研究』、『夢十夜』、『檸檬』……もしかしてこれみんな……」
「そうです、名作からイメージして作っているそうです」
『星の王子さま』、『ロリータ』、『そして誰もいなくなった』……一体どんな味や色合いのクリームソーダなのかワクワクする。
しかし有名なタイトルが羅列している中、一つわからないものがあった。
『みずうみ』。
「どうされました?」
「この『みずうみ』というのも小説なのでしょうか?」
「ええ、ドイツの作家、シュトルムの短編小説です。このお店の初代店長がもっとも好きだった作品をイメージして作られたそうですよ」
「みずうみ…………」
美しい言葉から発する透明感に惹かれて、このクリームソーダを詩乃は注文することにした。
「『みずうみ』をお願いします」と、ウェイトレスに注文している時、紺野から硬直した空気を感じた。詩乃が目を向けると、顔を逸らした。
「では、はじめましょうか。結構かかりますよ」
詩乃はゴクッと固唾をのんで、「よろしくお願いします」とPCとメモ用のノートを広げた。
窓には雨粒がまたポツポツと落ち始めた。
(次回)
(マガジン)
