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【愛でも喰らえ】#7 「かたちの子 春の子 血の子 ほのほの子」


 恵比寿はかつて開発に取り残された住宅街であった。
 一九五〇年代にはまだ道に牛が通っていたという。

 駅を中心に開発が進み、巨大なマンション、ビルが立ち並ぶ華やかなスポットとなったのは九〇年代以降である。


 藤岡紅緒は、駅から二十分ほど歩いた戦後すぐに再建された酒屋の一軒家を買い取り、筆を執る場を得た。

 空襲にも耐えた土蔵が庭の一角に残り、書庫となっている。
 紅緒の仕事場に広がる大きな窓からはゆれる雪柳の群の奥に土蔵の白茶色の壁と百年近くの時を封じた鬼瓦、その隣の小さな池に菖蒲が気高く凛と咲いている様がみえる。
 庭にはオールドローズも長年植え付けられており、六月頃には甘い蜜の芳醇ない香りと共に花開く。

 戦前のままの長閑さが広がる初夏の光景を、一つの額縁に収められた絵のように紅緒は愛した。


 「藤岡紅緒」は筆名である。
 本名も好きだったが、歴史上の人物と同じ漢字であった為、居心地が悪い。大学時代から付き合ってきた旦那さんから一字頂いて好きなマンガのキャラクターの名にした。

 本当は万年筆と紙の原稿でじっくりと執筆したいのを我慢し、時短できるノート型パソコンで執筆している。


 紅緒は文学を愛し、文海という命の繋がりを国を跨いで泳いだ。

 彼女の仕事場には二十世紀初頭に造られたイギリスのマホガニー製本棚が壁一面に職人によって取り付けられていた。その中には、「源氏物語」や森鴎外、樋口一葉、三島由紀夫らの全集の他に、クリスティ、バルザック、ドフトエフスキーやポーが並ぶ。

 豪華なキャビネットを携えたポーランド製朝顔型のシレナ蓄音機からはアルマ・グルックの郷愁溢れる歌声がくぐもった煙のように部屋中を覆う。


「ええよ、ほな作らせて頂きますわ」


 大きな社長椅子に埋もれるほどの背丈である紅緒は、今執筆中の平安時代の女官、薬司(くすりのつかさ)の資料を眺めながら、オンラインでドイツの出版社と新作の打ち合わせをしていた。陽気なお喋りが双方で続く。

「十月に初稿届けるついでに、そちらで取材させてもらおうと思ってます。ビール?飲めれへんのよ。おたくの習慣の、ほれ、飲んだグラスをガシャーンって一斉に割るやつ、やってみたいんやけどな」


 桜の季節は一瞬にして過ぎた。紅緒は昨夜、紫陽花が刺繍された絽の半衿を襦袢に縫い付け、今紫の水玉模様の紬に涼しげな水縹色の博多帯をあわせている。白の帯締め、紅の八塩の帯揚げでキリっと締めて白緑色のカエルの帯留をつけていた。

 前髪は大正時代の女将さんのように、フィンガーウェーブで波を作り横に流して、後ろは低い位置でお団子にし明治初期のべっ甲に蒔絵が描かれた櫛で装う。手には帯留と同じ白緑色の翡翠の指輪をつけている。

 谷崎潤一郎を女にしたかのような強い眼差しを持つ紅緒は、薄い色より、江戸期や大正期に流行ったような主張の強い和色が似合った。
 彼女にとって日々を彩ることは言葉なきライフワークでもある。
 顔が小さく背丈も低く、太陽光に被れる体質で肌が魚の腹のように白い。四十路に入っても人懐っこい知的好奇心が旺盛な感性は子供の頃のままで、年齢より随分若くみえる。


 現在執筆中の連載四本は日本の他、フランスとオランダの出版社と契約しているものである。
 紅緒の文章は彼女の本を読み込み日本文化に詳しい各国の翻訳家が意図を汲み取ってAIを使いつつ翻訳される。
 といっても言語の大家が働いているのではない。翻訳家は主婦や学生、年金で暮らしているものなど様々だ。ただ「藤村紅緒の作品を愛し、世界観を共有できる」という選考で選ばれた猛者達である。


 今日の打ち合わせも紅緒の他に彼女のマネージャーであり、通訳も担当している黒木と、助手の成田、現地の編集者、翻訳家を交えての形となっている。


「ん?着物着たいって?ほな持っていくわ、編集さん背高いから旦那はんの羽織持っていっちゃる。今時のモードっぽいやつよ。コートもな。昔はトンビコートっていう、ほら、シャーロックホームズが着とった形のコートをな、紳士が粋に着こなすのが流行ったんや。和洋折衷の着こなしはあんたはん、似合うと思うで」


 上京して二十年以上経つが、西言葉を通している。相当の頑固者であり、お喋り好きで口達者である。
 砲撃のような西方の喋り口と、江戸の気風を漂わせた竹を割ったような性格だが、身体が弱く喘息に苦しんだ。


 病床につくたびに周りに迷惑をかけない職業は何があるのか、もしかすると世間様のお世話になるのではないか、と幼い時より将来を憂いていたが、その憂いが文筆に繋がった。

 二十代のデビュー作が、国内のみならず海外でも評価をされその後も奢ることなく着実に実績を重ねてきた。
 今最も有名な日本人作家の一人として成長し、いよいよ脂がのってきた円熟期に入ろうとしている。


 外で車が止まる音がした。

 旦那はん帰ってきたな、と玄関の方を見やる。


「ほな、よろしゅうお願い致します」


 通話ボタンを切ると同時に、鍵を開ける音が聞こえた。

 蓄音機のラッパからは、アルマの「Home Sweet Home」が切なく流れている。

 紅緒は

「スウィ〜ト、ホォ〜ム」

と大袈裟に歌いながら廊下に出た。

 背の高い男がストライプシャツに腕まくりをしてクーラーボックスを抱えて台所に入ってゆく。


「おかえり、どうやった?狩は」


「ただいま、いい所だったよ。もう夏みたいな陽気だな」


 週末、男は大磯に住んでいる英文学者の作家さん宅に一泊し朝市に行っていたのだ。

「アジが美味しいっていうから買ってきた。あとカツオとイナダ、湘南みかんと、赤玉ねぎももう出てたな。先生おすすめの白ワインも」

と言いながらどんどん大きな冷蔵庫に詰めてゆく。

「今夜は何人くるの?」


「うわあ、綺麗なアジやなあ。ピチピチやないの。えーと、脚本家の水谷さんと演出の波照間さん、主役の江守君、宝生ちゃん、黒木はんと成田はん。六人やけど……もしかしたら水谷さんのことやから若いスタッフ連れてくるかもしれへん」

「ビール買っといた方がいいね」

「ああ、そうやな、酒豪が三人おるもん。ワインもあと一本出しといた方がええかも。史緒さん料理に合うやつ選んどいて」

 紅緒の小説はこの夏にネットでドラマ化される。映像化に懐疑的な作家は多いが、紅緒は全く気にしておらず、


「好きにしなはれ」


の一言で終わった。
 注文もつけないので業界関係者もやりやすく幾度も映像化された。
 一番のジャッジは原作のファンであり、世界中の人たちでもある。作り手側は相当なプレッシャーである。一国の首相が彼女の小説のファン、というケースもあるのだ。
 世界で配信されるがゆえに作品の映像化には大きな緊張が伴った。


「あと、汁物の具材と野菜買ってくる」


 男は時計を見ながら再び出ていった。


「適当でええよ、適当で……」

 紅緒は相変わらず準備に余念のない男に呆れつつ門まで見送った。

 庭の垂れ桜は青葉が光っている。大好きな芍薬が咲くのももう直ぐだ。


「なーつもちーかづーく、はーちじゅうはちや♫」

……と歌ったところで項垂れた。

「あ、お抹茶買ってきてもらうの忘れてもうた…………」


 朝起きて、いつも最初にすることは抹茶をたてて夫婦で一服することだ。


「しゃーない。ほな、続き書こか」

 紅緒は鼻歌を歌い飛石をけんけんぱで遊びながら玄関まで戻った。

 昔ながらの木造門には青森ヒバで彫られた表札が掛けてあった。

 「紺野 史緒 博文」




(次回)


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