【感情消去SF|01】残響 ― 捨てた記憶と、消せない恋の栞
ー あらすじ ー
「その恋、消せます」──それは、救いか、喪失か。
“想う”気持ちは削除できる。けれど、“想われた”事実は消せない。
感情をデータとして処理し、捨てることができる未来。
ひとりの女性は、叶わなかった恋を捨てた。
残されたのは、空っぽの小箱と、色を失った日常。
けれど、記憶を失ったはずの彼が、なぜかその“喪失”に気づき始める。
「忘れられた恋」が引き起こす、感情の“バグ”。
これは、もう交わることのないふたりの、
──それでも共鳴してしまう、名もなき“残響”の物語。
※01〜06まで全6回シリーズで順次アップ予定

プロローグ
『感情一時保管及び完全消去サービス 利用規約』
その無機質な文字が、待合室の壁一面に投影されたホログラムディスプレイに、静かに明滅していた。
第1条(目的) 本サービスは、利用者が保有する不要と判断した感情(以下「対象感情」)を、所定の手続きに基づき一時的に保管、または利用者の明確な意思表示により完全に消去することを目的とします。
第2条(対象感情の定義) 対象感情とは、喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、愛情、恐怖、その他利用者が主観的に「感情」として認識し、かつ本サービスのシステムが解析可能な精神的エネルギーの総体を指します。
第3条(手続きと不可逆性)
利用者は、専用の「感情スキャンブース」にて対象感情を特定し、データ化するものとします。
一度データ化され、返却口に投函された対象感情は、いかなる理由があっても返却、復元、または第三者への譲渡はできません。本条項は、利用者の錯誤、心変わり等を含め、一切の例外を認めないものとします。
第4条(免責事項) 本サービスの利用、特に感情の完全消去を選択した場合に生じうる精神的空白、人格の変化、記憶の断片化、その他予期せぬ副次的影響について、当方は一切の責任を負いません。利用者は、自己の責任において本サービスを利用するものとします。
第5条(その他) …
規約の条文を、浅葱色のコートを着た女性が、まるで初めて見る外国語の文献でも読むかのように、じっと見つめていた。その手には、古びたオルゴールほどの大きさの、鈍い銀色の小箱が握られている。表面には細かな傷が無数についており、長い間、大切に、あるいは、持て余されてきたことを物語っていた。

「お客様、お手続きでございますか?」
不意にかけられた声に、女性はびくりと肩を揺らした。顔を上げると、そこには白い制服に身を包んだ窓口担当の男が、表情の読めない穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。名札には「担当:ユニット734」と記されている。
「あ…はい。その…つもり、です」
女性の声は、乾いた喉から絞り出すようにか細かった。
「初めてでいらっしゃいますか? ご安心ください。皆様、最初は少々戸惑われますが、すぐに慣れていただけますよ」。ユニット734は、マニュアル通りの滑らかさで言葉を紡ぐ。「こちらでは、毎日たくさんの方が、さまざまな“心の澱”を流しに来られます。例えば、そうですね…」
彼は少し遠くを見るような目つきをすると、抑揚のない声で語り始めた。
「つい先日も、事業に失敗し、燃えるような“後悔”と“自己嫌悪”をお持ちになった男性がいらっしゃいました。手続きを終えた彼の顔は、まるで憑き物が落ちたようでしたよ。翌週には、新しいビジネスプランを抱えて、目を輝かせておられました。『過去を捨てたら、未来が見えた』と仰って。まあ、その未来がどうなるかは、我々の関知するところではございませんが」
淡々とした口調には、皮肉も同情も感じられない。ただ、事実を述べているだけ、という風だった。
「また、ある老婦人は、数十年連れ添ったご主人を亡くされた“深い悲しみ”と“寂寥感”を捨てに来られました。手続きの後、彼女はしばらく何も思い出せないようでしたが……数日後、ご友人と楽しそうに旅行の計画を立てていらっしゃいました。涙で滲んでいた日々が、まるで嘘のように晴れやかに。……忘却は、時として最良の救済となり得るのです」
女性は、ごくりと息を飲んだ。
彼女の握る小箱が、かすかにカタ、と音を立てた気がした。

「もちろん、捨てられるのはネガティブな感情ばかりではございません。ある著名な芸術家は、スランプ脱出のために、彼を長年縛り付けていた“過去の成功体験への執着”と、それによって生まれた“陳腐な幸福感”を捨てられました。その結果、彼はかつてないほど斬新で、狂気に満ちた作品を生み出し、再び脚光を浴びました。……もっとも、その狂気が彼をどこへ連れて行くのかは、また別のお話ですが」
ユニット734は、そこで言葉を切り、再び女性に視線を戻した。その目は、どこまでも静かで、凪いだ水面を思わせた。
「お客様は…どのような感情を、お手放しになりたいのでございましょうか?」
女性は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は揺れ、何かを堪えるように固く結ばれていた唇が、わずかに開こうとしていた。彼女の視線が、握りしめた銀色の小箱へと落ちる。その中には、一体どんな“感情”が眠っているのだろうか。そして、彼女は、小さな、しかし決意を秘めた声で、こう告げるのだった。
「あの…恋、を……捨てに来ました」
第1章「恋の所在」
「承知いたしました」
ユニット734は、機械的なまでに優雅な所作でうなずき、後ろのカウンターから一枚の書類を滑らせた。光を受けてうっすらと青く透けるその書類には、「感情登録申請票」と記されている。まるで図書館の貸し出しカードのような、ばかばかしい簡素さだ。
「では、“恋”の具体的な発生源、対象、経過、及び強度について、簡潔にご記入をお願いいたします」
女性は一瞬、顔をこわばらせた。何を書けばいいのか。何が“恋”を構成するのか。思えばそれこそが、これまで自分を曖昧に縛ってきた問いではなかったか。

それでも、彼女はペンを取った。ペン先が用紙を走る。名前、対象:同僚、経過:3年、状態:既婚者。未遂。終わり。
そこに詰まっていたのは、誰にも見せたことのない感情のしずく。本人ですら、長らく認めなかったものだった。
「ありがとうございます」
ユニット734は書類を受け取ると、カウンターの端にあるスキャナーへ差し込んだ。次の瞬間、待合室の壁がふわりと揺らぎ、奥の扉が音もなく開いた。かすかに甘い、しかしどこか無機質な香りが流れ込んでくる。

「感情スキャンブースへどうぞ」
彼女が立ち上がると、銀色の小箱が掌の中でひときわ重くなったように感じた。
扉の向こうには、円形のブースがあった。中心には椅子。その前にあるのは、感情抽出装置──通称「メモリードレイン」。まるで美容室のドライヤーのようなそれは、だが脳に直接、記憶と感情の中枢を照射する冷たいアームを持っていた。
「小箱を、ここに」
ユニット734が指し示したのは、装置横の凹み。女性は、長くためらった末、指をほどくようにしてそれを置いた。
カタリ。音がした。小箱が機械に認識され、読み込みが始まる。
彼女の脳裏に、彼の声が浮かぶ。

「…君といると、落ち着くんだ。
でも、それだけじゃダメだって分かってるんだ」
最初の震え。最初の喜び。最初の絶望。
抽出が始まった。淡く、ブース内に光が満ちる。
「対象感情:恋情、感情強度:8.3、相互性:否定」
ユニット734が、何の感慨もなく読み上げる。女性は、ただ目を閉じた。
感情は、音もなく吸い上げられていく。
しばらくして、装置が停止音を鳴らした。抽出完了。消去準備完了。
「ご確認ください。“恋”の感情を、完全に消去いたしますか?」
ユニット734の声は、変わらず静かだった。まるで、ワゴンセールの値札を確認するかのように、軽い。
女性は、静かに目を開いた。そして、自分の声で、たしかにこう答えた。
「…はい。消してください」
操作音。決定。
刹那、彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれた。それはもう“恋”ではない。ただの、浄化された水分だった。
そして彼女は、少し軽くなった心を抱えて、待合室を後にした。
…彼の名を思い出すことは、もうなかった。

