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【感情消去SF|02】残響 ― 捨てた記憶と、消せない恋の栞

第2章「空っぽの色彩」

彼と過ごした日々も、その名さえも、まるで水面に描いた絵のように跡形もなく消え去ってから、一週間が過ぎた。浅葱あさぎ色のコートの女性──彼女の名を仮に「小夜子さよこ」と呼ぼう──は、驚くほど穏やかな日常を取り戻していた。

朝は定刻に目覚め、満員電車に揺られて会社へ向かい、淡々と仕事をこなす。かつて胸を締め付けた、彼のデスクを見ることも、もう苦痛ではなかった。そこに彼がいたという事実すら、薄靄うすもやがかかったように曖昧だ。

「小夜子、最近なんだかスッキリした顔してるね。何かいいことでもあった?」 。昼休み、同僚が悪意なく声をかけてきた。以前なら、この言葉にさえ胸の奥がチクリと痛んだかもしれない。だが今の小夜子は、ただ穏やかに微笑んで「そう見える? よく寝てるからかな」と当たり障りなく返すだけだった。恋を失った喪失感よりも、重荷を下ろした解放感の方がまだ勝っている、そう思いたかった。

だが、その“解放感”は、どこか薄っぺらで、まるで借り物のようだった。
異変の兆候は、日常の些細な隙間から、じわりと滲み出すように現れ始めた。

週末、小夜子は気分転換に、かつて彼と訪れたことのある海辺の街へ足を向けた。彼との記憶は消えているはずなのに、なぜか無性にその場所へ行きたくなったのだ。 潮風が頬を撫で、カモメが空を舞う。以前の彼女なら、この風景に胸を高鳴らせ、詩的な言葉でも紡ぎたくなっただろう。彼が好きだと言っていた、あの寂れた灯台の写真を何枚も撮ったはずだ。

しかし、今の小夜子の心は、凪いだ海面のように静まり返っている。美しいはずの夕焼けも、ただの色彩のグラデーションにしか見えない。カメラを向ける気にもなれず、ただぼんやりと水平線を眺めていた。

(おかしい…)

何かが違う。 まるで、世界から一枚、透明なフィルターが剥がれ落ちて、代わりに色の抜けたガラスを嵌め込まれたような感覚。感動という感情の蛇口が、固く錆びついてしまったかのようだ。

その夜、自宅に戻った小夜子は、本棚の隅に無造作に置かれた、あの「鈍い銀色の小箱」に気づいた。感情を抜き取られた抜け殻。あの日、ユニット734は「中身は完全に消去処理されました」とだけ告げ、事務的に手渡してきた。なぜ捨てずに持っていたのか、自分でもよく分からなかった。

小箱を手に取る。ずしりとした重みは、もうない。まるで鳥の羽根のように軽い。ゆっくりと蓋を開ける。中は、もちろん空っぽだった。しかし、その空虚さが、今の小夜子の胸の内と奇妙に共鳴した。

(本当に、ただ“恋”だけを捨てたのだろうか?)

疑問が鎌首をもたげる。あの時、申請票に書いた「恋」。その発生源、対象、経過、強度…。だが、「恋」とは、そんな単純なデータだけで構成されるものだっただろうか?

小箱の内側を、そっと指でなぞる。シルクのような滑らかな感触。その時、指先に何かが微かに引っかかった。目を凝らすと、それはほとんど見えないほどの、細い細い繊維のようなものだった。金色に光る、髪の毛よりも細い糸。

(これは……何?)

次の瞬間、小夜子の脳裏に、断片的なイメージがフラッシュバックした。

──古い映画館の薄暗い客席。スクリーンには、モノクロの映像。隣には誰かがいたはずだ。その人の肩に、そっと頭を預けた温もり。
──画材屋の独特の匂い。カラフルな絵の具のチューブ。自分も何かを描きたいと、強く思った衝動。
──雨上がりの公園。濡れた紫陽花の色鮮やかさ。それを美しいと感じた、瑞々しい心。

それらは、「彼」との直接的な記憶ではない。けれど、間違いなく「彼との恋」があったからこそ生まれ、育まれ、彼女の世界を彩っていたはずの「感情の欠片」だった。彼を好きだった自分が愛した風景。彼といたから見つけられた美意識。彼との未来を夢見たからこそ芽生えた、ささやかな創作意欲。

「あ……」

声にならない声が漏れた。失ったのは、彼への「恋情」だけではなかった。あの小箱には、「恋」という感情を核にして、蜘蛛の巣のように複雑に絡み合い、彼女自身を形作っていた、無数の細やかな感受性や、創造性の萌芽、ささやかな夢や希望までもが、一緒に詰め込まれていたのだ。そして、「感情抽出装置」は、それらをすべて「恋に付随する不要なデータ」として、根こそぎ抜き取ってしまった。

「そんな…」

小夜子は、その場にへなへなと座り込んだ。足元から、自分の存在が崩れていくような感覚。利用規約の冷たい文字が脳裏をよぎる。『…精神的空白、人格の変化、記憶の断片化、その他予期せぬ副次的影響について、当方は一切の責任を負いません…』

あの時、ユニット734の表情の読めない微笑みの意味が、今なら分かる気がした。 彼らは知っていたのだ。感情とは、綺麗に一つだけを切り取れるほど、単純なものではないということを。

小夜子の瞳から、涙が溢れた。それはもう、「浄化された水分」ではなかった。失われた「自分の一部」を悼む、熱くて、しょっぱい、本物の涙だった。

軽くなったはずの心は、今や得体の知れない空虚感に苛まれている。色を失った世界で、小夜子はどうすればいいのだろうか。そして、この取り返しのつかない喪失に、どう向き合えばいいのだろうか。

彼女は、固く、小箱を握りしめた。
そこにはもう、金色の糸は見当たらなかったけれど。

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