【感情消去SF|03】残響 ― 捨てた記憶と、消せない恋の栞
第3章「再感覚」
数日後、小夜子のもとに、一通のメールが届いた。
差出人は「Unit734@emopurge.corp」。
件名には、こう書かれていた。
【重要】感情データ・残留痕に関する通知
本文は短かった。
拝啓
先日ご利用いただいた感情処理サービスに関して、システムログ上に微量ながら“未処理感情データ”の残留痕が検出されました。
これは稀に発生する現象であり、現在、調査および対応を進めております。
ご不便をおかけして申し訳ございません。
感情データの完全処理をご希望の場合、再来訪をお願いいたします。

小夜子は読み終えたあと、メールを閉じなかった。
むしろ、その画面を“眺めていた”自分に驚いた。
もう何も感じないはずの指先が、なぜか微かに震えていた。
ふいに、胸の奥――どこか深く、ずっと前から錆びついていたはずの場所が、きゅうっと痛んだ。
彼女は思った。
(“私”の全部は、まだ捨てきれてなかったんだ…)
小夜子は、しばらく動けなかった。
パソコンの前で固まりながら、あのメールを何度も読み返した。
「未処理感情データの残留痕」──
まるで、心のどこかに“亡霊”が住みついていると宣告されたような気分だった。メールを削除しようとした指が、止まった。
いや、止めていたのは指ではない。自分の中の“誰か”だ。
感情を捨てたはずの自分が、まだこんなふうに“ためらう”なんて。
一体どこまでが“処理済み”で、どこからが“私”なのだろう。

その夜、小夜子は夢を見た。
金色の糸が風にたなびいている。誰かがそれを辿っている。
音はないのに、確かに聞こえる気がした。
「……君といると、落ち着くんだ。
でも、それだけじゃダメだって分かってるんだ」
声だけが、まるで亡霊のように浮かんでいた。
scene shift – “彼”の視点
午前2時。
灰色のキッチン。マグカップに注がれたコーヒーは、もうとっくに冷えている。カップの底を見つめながら、「彼」──名を仮に、藤倉としよう──は、
スクリーンをぼんやりと眺めていた。
何かが、おかしい。
最近、妙に“心が乾いている”のだ。
妻との会話は滑らかに交わされる。
仕事の成果も上々。昇進も間近。
なのに、何かが決定的に「欠けている」。

(……何を、忘れてる?)
感情に欠損はないはずだ。
しかし、ある朝ふと、鏡の前でネクタイを締めながら、彼は確かに思った。
「自分の人生の“いちばん大事な断片”を、どこかに置き忘れた気がする」
その欠落は、音楽のないダンスのように、すべてを不自然にしていた。
そしてその夜。
SNSの広告欄に、不意に現れた小さなバナー。
「あなたの“喪失感”は、未処理感情のサインかもしれません」
彼は、クリックした。
そこに表示されたのは──
【感情一時保管及び完全消去サービス】
あなたが知らないうちに、誰かが“あなたにまつわる感情”を処理しているかもしれません。
関連データの“逆照合”をご希望の方は、こちらから。
(──なんだ、これ?)
彼は知らない。
その“誰か”が、小夜子であることを。そして、彼女が恋を消したことで、彼の中の感覚もまたズレ始めたという事実を。

第4章「逆照合」
彼──藤倉は、
「逆照合」の申し込みフォームを前に、しばらく指を動かせずにいた。
“あなたにまつわる感情”が、第三者によって処理された場合、一定条件下で関連感情データの“残留痕”が本人の心理状態に影響を及ぼすことがあります。この現象に心当たりのある方は、下記項目をご入力のうえ、お進みください。
名前。生年月日。職業。
そして、最下部には「関連人物の心当たり」という欄があった。
(関連人物…? 誰だ?)
心当たりは──あるような、ないような。確かなのは、この数週間、感情の温度が奇妙に狂っていることだった。
情熱が湧かない。
記憶がすべる。
でも「それなりに幸せ」でいられる。
それが怖い。
──記憶じゃない、“感覚の形見”だけが、胸の底に残っていた。
(…彼女の名前、なんだったっけ?)
思い出そうとすると、頭が白くなる。でも、その“思い出せなさ”が、逆に確信を生む。
「俺は誰かの感情を受け取っていた。それが消されたせいで、今の俺は“空っぽな幸せ”を生きている」

彼は、名前欄にこう入力した。
関連人物:たぶん、昔の同僚。
名前は……思い出せない。
送信ボタンを押す。画面が一度、砂嵐のように揺れた。
そして表示されたのは──
【一致する感情データが1件検出されました】
対象:浅葱色のコートを着た女性
感情種類:恋情(抽出済)/副次感情:安堵・羞恥・憧憬・創作意欲・不安・幸福感 etc.
状態:完全消去済(一部残留)
相互性評価:曖昧/未交差
※関連感情にアクセスするには、所定の感応処理が必要です。
「……あさぎ?」
彼は思わず、声に出していた。なぜかその響きだけが、心にひっかかった。青く、淡く、透明な何かが揺れる。まるで遠い昔、見たことのある海の色。
「…アクセスする」
彼は、選んだ。
クリックした瞬間、藤倉の目の前のスクリーンが真っ白に明滅した。そして、まるで深い水底から水面を見上げるような、奇妙な浮遊感が彼を包んだ。耳の奥で、遠い昔に聴いたことのあるような、しかし思い出せないメロディーの断片が響く。それは、かつて小夜子が鼻歌で口ずさんでいた、彼女自身も忘れてしまった古い映画の主題歌だったかもしれない。
次の瞬間、彼の脳裏に、鮮烈なイメージが流れ込んできた。それは、彼自身の記憶ではない。しかし、彼の五感を確かに揺さぶる“感覚の奔流”だった。
浅葱色のコートが風に翻る。古い映画館の、少しカビ臭い匂いと、隣の席から伝わる微かな温もり。画材屋に漂う油絵の具とテレピン油の混じった、どこか懐かしい香り。 雨上がりの公園、濡れた紫陽花の深い青と、土の匂い。そして──胸をしめつけるような、甘く切ない感情。それは、誰かが彼に向けていた、純粋で、ひたむきな「恋心」そのものの残響だった。
「う…っ!」
藤倉は思わず胸を押さえた。息が詰まる。これは、なんだ? 自分が誰かにこんなにも強く想われていたという事実。そして、その感情が「消去された」という事実。「消去された」はずなのに、その“痕跡”が、今、自分の中に流れ込んでくる。
スクリーンには、新たな文字列が浮かび上がっていた。
【関連感情データへの限定的アクセスを開始します】 【同期率:7.8%】 【警告:対象感情は既に“消去処理済み”です。本アクセスは、あくまで“残留痕”への感応であり、完全な感情の再現・共有を保証するものではありません。アクセスにより、予期せぬ精神的負荷が生じる可能性があります】
「浅葱色…コート…」
藤倉の口から、乾いた声が漏れた。断片的なイメージが、彼の記憶の中の誰かとつながりそうで、つながらない。もどかしい。だが、確かに“彼女”がいた。そして、“彼女”は自分に恋をしていた。その事実だけが、重く、そしてなぜか温かく、彼の胸に落ちてきた。

「思い出せない…名前が…でも……」
彼は、自分が失っていたものの正体がおぼろげに見えてきた気がした。それは、具体的な記憶や出来事ではない。自分に向けられていた、温かく、純粋な「想い」。その「想い」が消えたことで、彼の世界から色彩が一つ、抜け落ちてしまっていたのだ。彼自身の感情は何も失っていないはずなのに、まるでパズルの重要なピースが一つ欠けたかのように、彼の心はどこか不完全だった。
「彼女は……どこに…? そして、この“残留痕”の正体は…?」
藤倉は、スクリーンに映し出された「感情一時保管及び完全消去サービス」という文字を、改めて見つめた。その下には、小さな文字で追記が現れていた。
【より詳細な“残留痕”への感応処理、及び関連情報の開示には、当施設へのご来訪と専門ユニットによるカウンセリングが必要です。下記リンクより、ご来訪予約をお願いいたします】
やはり、そうか。こんなデリケートな問題が、オンラインだけで完結するはずもなかった。藤倉は一瞬ためらった。この先に何があるのか、まだ分からない。しかし、ここで引き返すという選択肢は、彼の中にはもはや存在しなかった。失われたパズルのピースを見つけ出すために、そして、この言いようのない“心の渇き”の理由を知るために。
彼は、震える指で画面を操作し、表示されたカレンダーの中から、最も早い日時の予約枠を選択した。
「…行くしかない」
無意識のうちに、そう呟いていた。
