【感情消去SF|04】残響 ― 捨てた記憶と、消せない恋の栞
第5章:揺らぎ
小夜子は自宅の部屋で、あの「空っぽの小箱」を手にしていた。
カタン。
小箱が、ひとりでに微かに音を立てた。そして、次の瞬間、小夜子の指先に、まるで静電気のような微弱な刺激が走った。
「え…?」
驚いて小箱を見つめる。何も変わったところはない。相変わらず、中は空っぽだ。しかし、確かに感じた。ほんのわずかだが、小箱の表面が温かくなったような気さえする。
気のせいだろうか。疲れているのかもしれない。
だが、その直後、小夜子の胸の奥、あの奇妙な空虚感が支配していた場所に、ほんの小さな、本当に小さな“さざ波”が立ったのを、彼女は感じ取った。それは、痛みでも、悲しみでも、もちろん喜びでもない。もっと名付けようのない、微細な心の揺らぎ。
まるで、遠いどこかで誰かが自分の名を呼んだような、そんな感覚。あるいは、忘れかけていた大切な何かを、不意に思い出しそうになる瞬間の、あの胸騒ぎにも似ていた。

「…なに?」
小夜子は、そっと小箱を胸に抱いた。金色の糸はもう見えない。けれど、この空っぽの箱の奥に、まだ何か、本当に微かだけれど、“何か”が残っているのかもしれない。そして、それが今、何かに反応しているのかも……。
Unit734からのメールが脳裏をよぎる。「未処理感情データの残留痕」──。
もしかしたら、本当に、“私”の全部は、まだ捨てきれていなかったのかもしれない。 そして、その“残りかす”が、今、誰かと、あるいは何かと、共鳴しようとしているのかもしれない。
小夜子は、ゆっくりと立ち上がった。窓の外は、もう茜色に染まり始めていた。彼女の心にも、ほんのわずかだが、色を取り戻しかけているような、そんな予感が芽生えていた。
「行ってみよう…もう一度、あの場所に…」
小夜子は、小箱を静かに机の上に置いた。その中にある“何か”は、相変わらず目に見えない。けれど確かに、自分の内側のどこかと共鳴しているような気がした。しばらくのあいだ、何もせずにその音のない揺らぎに耳を澄ませていたが、やがて彼女は、おもむろにスマートフォンを手に取った。

画面の中にある「感情一時保管及び完全消去サービス」の番号を検索し、表示された通話ボタンの前で一度だけ、指を止めた。“迷い”というほど強いものではなかった。ただ、今のこの感覚が、ノイズなのか余韻なのか、まだ自分でも測りかねていたのだ。それでも、小夜子は、そっと通話ボタンを押した。
「お電話ありがとうございます。感情処理センターでございます」
淡々とした、けれど機械音声ではない女性の声が受話器の向こうから響く。
「…再訪の、予約をお願いしたいのですが」
自分の声が、少しかすれているのに気づいた。
オペレーターが静かに応答する。
「かしこまりました。ご希望の日時をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
その瞬間、小夜子の胸の奥に、ほんのわずかな“さざ波”が広がるのを、彼女は感じていた。名前のつかない、微細な、けれど確かに“何か”が──再び動き出していた。
第6章「共鳴する空白」
冷たい雨がアスファルトを叩く日の午後。藤倉は、スマートフォンの画面に表示された予約確認メールを見つめながら、「感情一時保管及び完全消去サービス」の受付フロアに立っていた。無機質な白い壁、静かに流れる環境音楽、そして、どこか既視感を覚える受付カウンター。先日はオンラインで済ませたため、この場所に物理的に足を踏み入れるのは初めてのはずなのに、妙な懐かしさが胸をかすめた。
「ご予約の藤倉様でいらっしゃいますね。担当ユニットがお迎えに上がりますまで、そちらでお待ちください」 。受付の女性職員が、感情の温度を感じさせない滑らかな声で告げた。

待合室には、数人の男女がまばらに座っていた。誰もが硬い表情で、手元の端末を見つめたり、虚空を眺めたりしている。藤倉もまた、壁に投影された『感情一時保管及び完全消去サービス 利用規約』のホログラムディスプレイをぼんやりと眺めた。第4条の免責事項が、やけに目に焼き付く。
その時だった。 入り口の自動ドアが静かに開き、一人の女性が入ってきた。浅葱色のコート。藤倉の心臓が、不意に小さく跳ねた。スクリーンで見た「対象:浅葱色のコートを着た女性」という文字が脳裏をよぎる。まさか、こんな偶然が?
女性は、少し俯き加減に受付へと向かう。その手には、鈍い銀色の小箱が握られていた。藤倉は、その横顔を盗み見ようとしたが、長い髪が顔を隠しており、はっきりとは見えない。ただ、その佇まいが、なぜか彼の心の奥底にある、忘れていたはずの風景を揺り動かすような気がした。

(あの人なのか…?)
声をかけるべきか。しかし、何を? 「あなたが、私への恋を捨てた人ですか」とでも聞くのか? そんなはずがない。それに、確証は何もない。ただの偶然かもしれない。
女性は受付で何か短い言葉を交わすと、藤倉とは反対側の通路へと案内されていった。その姿が見えなくなるまで、藤倉は無意識のうちに目で追っていた。浅葱色が角を曲がって消えた瞬間、彼の胸に、ぽっかりと穴が開いたような、奇妙な喪失感が漂った。それは、先日の「感応処理」で垣間見た、あの甘く切ない感情の残滓とよく似ていた。
「藤倉様、お待たせいたしました。こちらへどうぞ」。ユニットの声で我に返る。そこに立っていたのは、名札に「担当:ユニット401」と記された、Unit734とは別の、しかし同様に表情の読めない若い男だった。
