【感情消去SF|05】残響 ― 捨てた記憶と、消せない恋の栞
第8章 温もりの正体
小夜子が通されたのは、以前の「感情スキャンブース」とは異なる、より小さな個室だった。壁は柔らかなオフホワイトで統一され、中央にはカウンセリング用のソファが二脚置かれている。奥のデスクには、見覚えのあるUnit734が座っていた。
「小夜子様。本日はどのようなご用件でございましょうか」
Unit734は、以前と変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべていた。
「先日いただいたメールの件で…“未処理感情データの残留痕”について、詳しくお聞きしたいと思いまして」
小夜子は、膝の上の小箱を握りしめながら言った。
「ああ、その件でございますね」
Unit734は頷く。「システムログの詳細な解析を行いました結果、お客様の処理された感情データ──“恋情”とその副次感情群の一部が、極めて微量ではございますが、お客様の精神エネルギーパターンに、いわば“エコー”のように残留している可能性が示唆されました」

「エコー…ですか?」
「はい。これは、感情の強度や、お客様ご自身の感受性の高さなど、複数の要因が複雑に絡み合った場合に、ごく稀に発生する現象でございます。通常、日常生活に支障をきたすものではございませんし、時間経過とともに自然に減衰していくものと考えられております」
Unit734の言葉は、どこまでも事務的だった。小夜子は、わずかに眉をひそめた。この数日、自分の胸に去来する微かな揺らぎは、そんな単純な「エコー」という言葉で片付けられるものだろうか。
「あの…その“残留痕”が、何かに反応したり、あるいは誰かに影響を与えたりすることは…あるのでしょうか?」
Unit734は、少しの間、小夜子の目をじっと見つめた。その凪いだ瞳の奥で、一瞬だけ何かが揺らめいたように見えたのは、気のせいだろうか。
「理論上は考えられません。当サービスの感情処理は、対象感情を完全に分子レベルまで分解し、エネルギー的に中和するものです。残留痕とは、あくまでその処理過程で生じた、いわば“波紋”のようなもの。それ自体が実体を持つわけではございません」
そう言いながら、Unit734は小夜子の手の中の小箱に視線を移した。
「その小箱は…大切にされているのですね」

「え…?」
不意を突かれて、小夜子は言葉に詰まる。
「これは、もう空のはずじゃ…」
「物理的には、そうでございましょう。しかし、お客様にとって、それは単なる“容器”以上の意味を持ち始めているのかもしれませんね」。Unit734は、再び表情の読めない微笑みを浮かべた。「もしご希望であれば、その“エコー”の完全消去処置も可能でございますが、いかがなさいますか?」
小夜子は、即答できなかった。以前なら、迷わず「お願いします」と言っただろう。しかし、今は違う。この胸のかすかな揺らぎ、この小箱に感じる気のせいかもしれない温もり。それが完全に消えてしまうことを想像すると、なぜか寂しいような、惜しいような気持ちになるのだ。
「……少し、考えさせてください」
それが、今の小夜子に出せる精一杯の答えだった。
一方、藤倉は「感応処理室」とプレートの掲げられた部屋で、ヘッドセットのような装置を装着させられていた。ユニット401が、淡々と説明する。
「これから、お客様の精神エネルギーパターンと、先日アクセスされた関連感情データの“残留痕”との同期を試みます。あくまで“痕跡”へのアクセスであり、具体的な記憶や事象が明確になるわけではございません。ただ、その感情が持っていた“質感”や“方向性”のようなものを、より深く感じていただけるかもしれません。リラックスしてください」

目を閉じると、再びあの水底にいるような感覚が訪れた。そして、今度はより鮮明に、しかし言葉にはできない“何か”が流れ込んでくる。それは、春の陽だまりのような温かさ。それは、夏の夕立の後の澄んだ空気。それは、秋の夕暮れの切ないほどの美しさ。それは、冬の朝の静謐なきらめき。
具体的な風景ではない。特定の誰かの顔でもない。ただ、純粋で、ひたむきで、どこまでもやさしい「想い」そのものが、彼の心を包み込んでいく。その「想い」は、間違いなく彼に向けられていた。そして、その「想い」を抱いていた誰かは、世界をこんなにも美しく、豊かに感じていたのだ。
(ああ…そうか…)
藤倉は、自分が失っていたものの正体を、はっきりと悟った。それは、自分自身の感情ではなかった。誰かが自分を想ってくれることで、自分の世界に与えられていた「光」だったのだ。その光が消えたことで、彼の日常は色褪せて見えていた。
(誰なんだ…? この温もりをくれたのは……)
浅葱色のコートの残像が、脳裏をかすめる。しかし、それ以上の情報は、靄がかかったように見えてこない。ただ、胸の奥に、温かく、そして少しだけ切ない“空白”が残った。それはもう、以前のような冷たい虚無感ではなく、誰かの大切な想いが宿っていた場所を示す、聖なる遺跡のような空白だった。
処理が終わり、ヘッドセットを外された時、藤倉の頬を、一筋の涙が伝っていた。それは、悲しみの涙ではなかった。失われた光の温かさを、確かに感じ取ったことへの、静かな感動の証だった。
「何か、お感じになりましたか?」
ユニット401が問いかける。
藤倉は、ゆっくりと首を横に振った。
「…よく、分かりません。でも…」
彼は、自分の胸に手を当てた。
「ここが、少しだけ…温かい気がします」

施設を出ると、雨は上がっていた。雲の切れ間から差し込む光が、濡れた街をキラキラと照らしている。藤倉は、ふと空を見上げた。さっきすれ違った、浅葱色のコートの女性。彼女は、今どこで、何をしているのだろうか。もう会うこともないかもしれない。名前さえ知らない。それでも、彼女がどこかで、この空の下で息づいている。そして、かつて自分に向けてくれた温かな想いの“残り香”が、今、自分の胸の中にある。それだけで、世界は昨日までとは少しだけ違って見えるような気がした。
彼の手のひらには、何も残っていない。しかし、彼の心の中の“空白”は、もう空っぽではなかった。そこには、名前のない感情のゆらぎが、静かに共鳴し始めていた。
